先日ある会議で、音楽系の人が集まりました。
その中のお一人が、ある有名なバイオリンの修復(ストラデバリウスが世界中から集まるところです)の会社にいた方でした。
当然楽器の話になり、
「バイオリンは良いですよね、日本製のバイオリンなんてと言われませんよね、二胡は未だ日本製なんて二胡では無いと言われますよ」とワタクシが愚痴ったところ、
「いえいえ、今はそうですけれど、でも以前は、日本製など相手にされませんでした、そうでなくとも、年代物の良いのが何百万台も有るのですから、でも、日本にも少しづつバイオリンの制作者が出てきて、その方達が止めずに、結局残ってきた苦労というのはあると思うのです」
そうなのか、バイオリンも最初の頃の人は苦労したんだな、、、、、と感慨深い物がありました。
私の運命なのか、性格なのか、インテリアデザインにしても、建築のデザインにしても、20年早過ぎとよく言われました。
25年ぐらい経った店舗の設計が今更ながら大変認められるようになって来て、今、ウチの若い人達が大忙しです。
良い後継ぎ達に恵まれて、物作りを一生の仕事としてきた爺としては、これほど幸せなことはないとよく言われますし、
最近以前作った物が認められるようになって、なんだかどうしようもないほど、忙しそうです。
そうですというのは、私は今報告を受けるだけですから、こんな仕事がきましたよと。
こんなのが出来ました、或いはこれ作ろうと思うのですが、ここはどうしましょうとか。
やはりそこは年の効で、この照明は効果としてはもう少し強くしたら、とか、ここはスタンディングのテーブルの方が良いのでは等、、、素直に聞いてくれるのはとてもありがたい事です。
今は二胡専門です。
ところが、二胡はまだまだそうはいきませんね、正当なというか中国の今までの作りというのを覚えてきたわけではありませんから、こんなのは二胡ではないと言われてしまいます。
しかし物作りというのはひとつの事に打ち込んで来さえすれば、物を作る原理というのを会得する物なのです。
バイオリンを長年弾いてきた方が、二胡を始めると、とんでもなく良い音をすぐに出せるようになるのは御存じだと思います。
弓の毛が弦を鳴らすという感覚を既に持っているからです。
それと同じように、物を作り出すというのはひとつの感覚です。
習い覚えた物が身体の中に積み上がっているのです。
みなさんも、ご家庭で料理をする時に、何処かのレストランで味わった料理を、あれつくって見ようと教わったわけでもないのに、ベトナムだのタイだのの料理を作れてしまうはずです。
何の違和感も無いと思いますし、中には有名なシェフより美味しい物作る人もいますね。
それと同じようなことでしょう。
ですから江戸時代の終わりに、黒船が来て、佐賀藩の職人達が、数年で小さいながらも蒸気船を作ってしまったということなども有ります。
図面だけでその原理も理解しボイラーから駆動機関まで作ったのですから凄い事です。
これは人種を問わず、というか物作りという人種は、民族的な人種を問わずそのような頭になっているのです。
にもかかわらず、やはり本場の二胡を作ることを習いおぼえてこなかったというのは、かなりなハンデだとは思います。
バイオリンの世界でも、イタリアのクレモナのバイオリン製作学校を出たというのは勲章みたいなものですし、人はそれで判断することも多いのです。
権威というのはそう言うものでしょう。
まあ、ひたすら作り続けて、その鳴りを皆さんに一人でも多くの方に弾いてもらえれば、何時かわそれこそ20年後には、(まだ生きて現役です)なんとか皆さんに認めてもらえるかもしれませんし、
それより二胡にも物作りに長けた人が参加してくるかもしれません。
その方達がそれぞれに、例え中国製の模倣でも、或いは完全にオリジナルでも良い音色と良い響きの二胡を作るようになったら、楽しいですし、その方達が、止めずに続けていけば、50年後くらいには、西野も最初にしてはよくやったじゃないと認めてもらえるようになるかもしれません。
それには二胡を作ってみたいという人達が次々とでて来て欲しいですし、私が悔しいと思うようなもの作って欲しいです。
そしたら更に、頑張れるような気がします。
その頃には、私は何歳になっているのでしょう。
彫刻家の平櫛田中は105歳の時にあと十五年ぐらい使う材料があると言ってました。
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そんな、おじさんたちのために、何か、良い救済策ありませんでしょうか?
二胡製作愛好家、の裾野ができれば、きっと、将来、いい製作者があちこちに出てきてくれるのではないかと・・・
花梨ぐらいなら安いし、まだ普通の刃物でもかろうじて削れますからね。
胴のを6角形に組んでおいて、棹の穴も開けておいて、木軸の穴も、後は塊にして、どうも外側は自由に削れるようにしておいて、最初ならそれで十分楽しめると思いますよ。
ヒマが出来たら考えてみます。
近くの田んぼを見守るお爺さんの顔も、何とも素敵な顔をされています。
自分も、自分のできる事で、積み重ねて生きていきたいです。
久しぶりにコメントしてみました。
二胡の事を考えたり、調べものをしたり、ことらのHPを読んだり、練習してる時は、自分の時間としてとても癒されています。
ありがとうございます。
削り音合わせ‥割れ!!‥再度削り音合わせと・・・・
皮も作り張り==音ダメ==再度作りと繰り返しが‥‥
形だけ真似るはできるが好い音出るが難しい!!
この材料なら、この形でOKとなる型紙(図面)だけでも有れば随分違うと思う。
お子さんの成長は早いから、この約半年だけでも大きくなられたことでしょうね!
相変わらず二胡を続けておられるとのこと、嬉しいコメントありがとうございます。
もしご興味あるようでしたら瓦版お送りしますので、
メールアドレスの方へご連絡くださいね。
↑ワタクシもそう思います。
そんな良い物があれば、ウチの工房に二胡の死骸があんなに沢山、山と築かれないと思います。。。
たとえ素材が同じでも、状態、乾燥度、丸太のどの部分を切ったか、等々、だけでも音色が大きく変わる楽器は魔物です。
もちろんインテリアの仕事していても書いたことが無かったのです。
現場に実寸でレイアウト書くのです。
二胡の場合も同じです。いきなり材料切り始めます毎回多少は違います。その上削りの荒らしが内部に残っていますから良く内部を覗いた人が、中国製はもっときれいと言います。
私はその辺は、円空に近いかもしれません、勢い大切です。
教わろうとする前に、先ず自分で動いてみるというのが多分何か私が教えることの第一です。
そしてどうしてもわからないことがあったら、自分が一番信頼できそうな人について教えてもらうということでしょう。信頼できないと、聴く気にもならなくなります。最初に教わった事というのはすり込まれてなかなかに拭えない物です。
「何事にも先達はあらま欲しきことなり」と、つれづれ草にも有りますが、その前に、先ずその現地、現場、実物というところまで自分でたどり着けない人は、その先も続けにくいのではないでしょうか、本当にやりたいことは、人はどんなことをしてでも自然にやるものですし、その想いが物を作り出すのです。先ず自分で動くことが大切だと思います。
私の処へも、よく木工なり金工なりデザインなりを教えてという人がいらっしゃいます。
「何でもやります是非教えて欲しいのです」と強い決意でいらっしゃる方も多いのです。
「ではおかえり下さい」これが私の答えです。
100%の人が「何でもやると言っているのに」と情けなそうな顔をします。
この時点で不合格です。
素直に帰る人はいませんでした。
物を作るというのは、全てを受け入れる、材料にも相手にも素直になれないと出来ないことだからです。
出来ないと思うと本当に何もできなくなりますから。