小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

日本語を哲学する2

2013年11月10日 02時34分54秒 | 哲学

日本語を哲学する2





第一部 総論

第Ⅰ章 言葉の本質 

 言葉とは何か。
 これを考えるには、あくまでも、言葉というものの使用実態に即してその核心に迫っていく必要がある。いまその使用実態に関して、これだけは否定できないという点を三つの簡明な命題の形で挙げながら、一つ一つの命題の意味するところについて解説してみる。そして、そこから次第に言語の本質をあぶりだしていこう。

 1節 言葉の本源は音声である

 言葉の本源は音声である――この命題はあえて指摘するまでもない当たり前のことのように思える。だが他方では、文字や手話などの視覚言語、点字のような触覚言語もあるといった異論の余地が生じる命題である。また聴覚障害児教育や研究に携わってきた人々の一部からは、技術論的・方法論的な見地からの反発が大いに予想される。けれどもそれらの異論・反発に対してあえてこう言いきることが、言語の本質を考えることにとって必要なのである。
 この命題にはいろいろな意味が込められている。
 まず第一に、言葉が音声であるということは単なる偶然で、思想を伝えるためにたまたま一生理学的器官が選ばれたにすぎないかのようにみなされがちだが、そうではない。言葉はその起源からして必然的に音声でなくてはならなかったのである。というのは、それはもともと空間的な距離を隔てた身体間における、異なる「経験」の相互交流を媒介するものであり(「情報」の交換を媒介するものではない)、それを実現するために、五感のうちどの感覚が適しているかに着目すれば、言葉を言葉たらしめたおおもとにあるのは、聴覚以外には考えられないからである。
 いま身体と身体とのあいだで、刺戟を与える側(はたらきかけの側)とそれを感受する側(感覚の側)との関係およびその制約を列記してみよう。もちろん、これは無文字社会が前提である。
 ・触る、つかまえる、抱くなどの身体行動――〈触覚〉:距離がある場合には感受することが不可能である。
 ・近づく、遠ざかる、身振りをする、表情を顔に出す、煙などの外的事物を利用して意を伝える――〈視覚〉:表現内容に限界があり、受ける側が背を向けていたり、遮蔽物が間にあれば認知できない。
 ・匂いを発する――〈嗅覚〉:これも、表現内容が著しく制限されることは明らかであり、認知可能な距離にも大きな限界がある。
 味覚に至っては、多言を要すまい。
 こうして音声は、それを受ける聴覚器官とのあいだに相当の距離があっても、中間に遮蔽物があっても、相手が後ろを向いていても、伝達が可能であること、その大小、高低、調子、抑揚などの複雑な分化が可能な生理的特性を備えていること、などからして、もともと言葉というものが発達するための完全な条件を具備しているのである。

 第二に、音声は物理的には「音響」であり、音響は、一つの「動き・変化」として時間的な持続のもとに現象する。この現象的特性は先の指摘と関連するが、一定の強度を持っていれば受け手の注意を喚起するに十分である。だがそれよりもさらに大事なことは、この時間的持続における動き・変化およびその規則性こそが、仲間どうしの間での「共同意識」というべきものの形成にあずかるということである。
 私たちは、すでに発達した文化の最先端を生きているので、ともすれば、言葉を受け取る器としての人間的な「意識」のようなものが初めからある、と考えがちだが、これもそうではない。人間的な意識は、永い人類史における生活行動や前言語的な音声交流の共同実践を通して、個体を貫く構造として作られてきたものである。人間的な意識が「因」で、言語が「果」であるのでもなければ、逆でもない。両者は相即的なものとして、同時発展してきたのである。「意識は言葉と同じほど古い」というマルクスの名言は、このことを指している。そうしてこの人間的な意識のあり方は、その基底部において、いま述べた「音響」の特性にぴたりと適合しているのである。
「音声」の分析から話が「音響」に及んだので、ここで少し長くなるが、「音響」とは何かをきちんととらえておきたい。
 西洋哲学は一般に、「対象」(主体の意識や行動にとっての目標)という概念の存立を自明の公理として出発する。もちろん西洋的な論理の運び、言葉の使い方に慣らされてきた私たちもまた、この公理にさしたる疑いを抱かずに物事を考えている。しかしその場合、前提となっているのは、主体と対象との間には、ある「距離」があって、両者は別物であるという感覚である。だがこの感覚はなにを根拠にして組み立てられているのだろうか。
 私の考えでは、それは第一に視覚が実現しているという現象学的な事実、言い換えると、「私」の前に、ある「視野」が開けているという事実である。また第二に、「私」がその開けている視野に対して身体の運動によって関わりうるという可能性への確信である。そしてこの確信はまた、視覚的な「現象野」(メルロ=ポンティの言葉)が触覚的な経験の積み重ねと統合されることによって、ある安定した自然的な「もの」の秩序を表示しているという確実な判断が実現するところに成り立っている。
 けれども、そうだとすれば、「対象」という概念、また「対象」と「主体」との距離をとった関係という概念は、私たちが手にしている世界イメージのすべてを表現するのに必要十分な条件を満たしているとは必ずしもいえなくなる。というのは、私たちは、聴覚や、味覚や、嗅覚によっても世界イメージを手にしているからで、しかもこれらの感覚によって得られる世界イメージは、単なる「知覚対象」として客観化できるような特性に限られるわけではなく、むしろ「情緒」と分かちがたく結びついたものとしてあらわれるからである。
 しかし視覚・触覚の統合と、他の感覚との分離や相違をことさら強調する必要はない。それを無理に押し進めると、和解不可能なデカルト的物心二元論と同じような困難にたどり着いてしまう。むしろ、純粋に視覚的な経験と呼べるような意識現象においてさえ、私たちは常に同時に「情緒」的なものを経験していると考えるべきなのである。「対象」的な知覚と私たちが考えているものは、じつはそれぞれの感覚特性にふさわしい度合いに基づいて、より「対象」的な確信を与えるものとして反省的に抽象したときにはじめて確定される意識現象に他ならない。
 ところで「音響」の知覚、つまり聴覚は、他の知覚にはみられない根源的な特性をもっている。それは、「主体に向き合うものとしての対象」という概念の存立を拒否しようとする傾向が強いという特性である。そのためそれは、直接的に「情緒」を喚起する。むしろ聴覚は、ほとんど「情緒」そのものとしてあらわれる。味覚や嗅覚や触覚も情緒性を強く喚起するという点においては聴覚に優るとも劣らないが、おそらくこれらの感覚は、それを感じる身体との近接に強く依存しているので、人間意識の本質としての「超身体性」に耐え得ず、そのため、それぞれの感覚内における多様な分岐を独自にたどることができなかったのである。
 だが、人間において聴覚は、視覚と同じ程度には「いま・ここ」にある身体を超越して世界イメージを形成しようとする水準を確保しており、しかも、それを「対象」的にではない仕方でそうすることができるのである。わかりやすく言えば、人は見えるものと同じ程度に遠くの音を感知することができ、また、見たものと同じ程度に聞いた音を記憶に宿すことができる。しかしそれは視覚のように、主体と「向き合うもの」、主体と対立した別物として対象化するという形においてではない。
 例を挙げよう。
 いま私が遠くに響く救急車のサイレンの音を聞いたとする。私はその音に注意を喚起される限りで、ただちに少なくとも次の二つの志向的な直感に支配されるだろう。ひとつは、それがどのあたり(距離と方向)から響いてくるものであるかを確かめたいという探索の欲求である。そしてもうひとつは、その響きがいったい私にとって何を「意味」しているのかという、ある情緒的な動揺である。これらの二つの「感じ」は、いずれもその音自体が「対象」として眼前にあるのではないという欠如感に由来する一種の「不安」をあらわしている。
 救急車のサイレンを聞いている私にとって、その聴覚の「対象」とはいったい何であろうか。音源である救急車であろうか。音波を物理的に伝えている空気層の振動であろうか。それとも「音それ自体」であろうか。もちろん、いずれでもない。ここには「対象」と呼べるようなものは不在なのであり、まさにその「対象」的なものの不在こそが、私の聴覚経験に伴う「不安」を積極的に形成しているのである。
 私が遠くの道路に救急車が走っているのを目にするときには、このような不安は、微弱なものとしてしかやってこない。救急車という視覚的対象は、それがいかにぼんやりとしか見えないとしても、ある明確な、私の身体とははっきり区別される「もの」として定位されている。だから私の意識はその定位を基盤として、その対象がそこに存在していることの意味についてただちに自由に想像を巡らせることができる。だがサイレンの響きにおいては、もちろんそれが救急車からのものであることを経験的な知識によってじきに認識できるものの、まず最初には、私の意識が直接にその響きに満たされるのである。
 この特有の不安感、動揺感、つまり「対象」の所在がたしかめられないのに何者かが私の意識を直撃しているという感じがまずおとずれてくるのは、「音響」というものが、ほとんど意識の形式的なあり方にぴたりと寄り添う(同調する)特性を持っているからである。ここで、意識の形式的なあり方とは、諸対象の存在を貫き、それらを超越して時間に沿って絶えず流れるというあり方である。
 ところで「音響」は時間的な直観形式のもとにのみ現象する。したがって結論的に言えば、「音響」は、空間的な定位によってその存在を確証できる視覚的な「対象」のあり方とは根本的に違って、意識そのものを支配し、それを、対象を定位できない「不安」に染め上げるのである。それはむしろ「対象」の不在というあり方そのものによって私たちを驚かせ、悩ませ、動揺させ、感動させる。それは私たちの身体を直接に揺さぶる。
 この事実はおそらく、赤ちゃんの意識経験(たとえば音に対するモロー反射、母親の声への情緒的反応など)や、原始人の意識経験の意味をも説明するものに違いない。また、統合失調症患者がなぜ身体の中心部に他者の声を聞く「幻聴」体験に悩まされることが多いかという問題への有力なヒントとなりうる。さらにはまた、ショーペンハウアーがなぜ音楽を他の芸術形式とは別格視して、「世界の本質としての〈意志〉そのものの模写」と表現したか、同じくニーチェが、なぜ音楽の精神を、明朗な形象化を目指すアポロ的な芸術(たとえば美術)と区別して、陶酔的な意識を引き起こすディオニュソス的な芸術と呼んだかという問題をも解き明かす契機をなすにちがいない。
 ニーチェは、処女作『悲劇の誕生』のなかで、ショーペンハウアーの「死に対する恐怖や不安に象徴されるような人間の苦悩は、意志の極端な個別化・個体化にその由来をもつ」という考え方を基盤にしながら、次のように書いている。

 音楽の精神から、われわれははじめて個体(引用者注――ちくま学芸文庫版『ニーチェ全集』の訳文では「固体」となっているが、ここは「個体」と表記すべきであろう)の破壊にたいする歓喜を理解するのである。
 というのは、かかる破壊の個々の実例によってわれわれに明らかにされるものは、いわば個別化の原理の背後に潜む意志の全能を、すなわち、あらゆる現象の彼岸にあっていかなる破壊にもめげざる永遠の生を、表現するディオニソス的な芸術の永遠の現象にほかならぬからである。悲劇的なるものにたいして形而上学的な歓喜を覚えるのは、本能的に無意識なディオニソス的な叡智が形象の言語へ翻訳せられているからである。最高の現象たる主人公の破滅を見てわれわれは歓喜する。というのは彼はやはり現象に過ぎず、意志の永遠の生は彼の破滅によって冒されることはないからである。「われわれは永遠の生を信ずる」、かく悲劇は叫ぶ。ところで音楽はかかる生の直接の理念なのである。(16節)


 ここでは、悲劇の主人公が破滅することは、単なる現象(または表象)でしかなかった個体の個別性が廃棄されて世界の本質である意志に還帰することを意味するから、それはむしろ永遠の生の実現に結びつくと考えられている。そして、ディオニソス的な芸術としての音楽こそは、その永遠の生の直接の理念だというのである。
 音楽による感動のあり方を考えたとき、言いたいことはとてもよくわかる気がする。しかしニーチェの文体は踊っていて、なぜそういうことが言えるのかが論理的に証明されているわけではない。優れた音楽に感動しない者には説得力が足りないかもしれない。もちろんニーチェは音楽に感動しない者などはなから相手にせずに直観勝負でこう断定しているので、それはそれでかまわない。しかし私としては、音楽がなぜ人間の個別性・個体性を廃棄して永遠の生に私たちをいざなう力をもっているのかについて、自分なりの理解を示したいところである。
 ここでは、世界の本質が、人間をも含むさまざまな自然の現象(または表象)を超えた〈意志〉であるのかどうか、また、「永遠の生」という言葉を信ずることができるかどうかは問わないことにする。ヘラクレイトス、ベルクソン、わが国では伊藤仁斎などに通ずる、一種の万物流転、生気論、活物主義的な宇宙観の一種と考えておいて大過ないだろう。
 それはひとまず措くが、たしかに音楽の感動には、個体性、自他の区別、ケチなエゴの対立といった人間的・地上的なものを解消させ、なにかしら超越的・共同的な陶酔の境地に人を連れて行くモメントが深くはらまれている。それをディオニソス的な境地と呼ぶかどうかはともかくとして、問題は、音楽が人をそういう境地に連れて行くことを可能にしている条件は何かを指摘することである。(この節つづく)



パンダの交尾

2013年11月10日 02時29分47秒 | エッセイ
パンダの交尾



少し古いお話で恐縮です。


 去る3月12日、東京動物園協会から、次のような情報が提供されました。

 上野動物園(東京都台東区)は12日、ジャイアントパンダのリーリー(雄)とシン シン(雌)に強い発情 の兆候が見られたため一時的に同居させたところ、交尾行動が  2回確認されたと発表した。2頭とも発情期 に特有の行動が見られるようになったた  め、7日から展示を中止していた。
 同園によると、11日午後5時ごろ、柵越しにお見合いさせたところ、頻繁に鳴き交 わすなど強い発情の兆 候があったため、同居させた。数分間交尾行動が確認されたと  いう。12日朝にも同様に交尾行動が見られ た。【東京動物園協会提供】 


 この情報は、あるテレビ局(地上波)から、交尾現場の動画つきで夜7時に放映されました。動画をご覧になりたい方は、以下のURLへ。
http://www.youtube.com/watch?v=hIioblHec1whttp:// 

 ご覧いただけましたか。

 申し訳ありません。後日この動画をご覧いただけるかどうかを確認したところ、どうも発信側の事情により、削除されたようです。文字化けしてしまいます。
 いずれにせよ、こういう映像を、夜の7時に全国のお茶の間に平気で送り届ける東京動物園協会、および放映したテレビ局の粗雑な感覚を私は疑います。なんて無神経な人たちなんでしょう。
「上野動物園のパンダに赤ちゃんが生まれるかもしれない! すてき!」と視聴者が感じることを当て込んでの放映でしょうが、みなさん、よくお考えください。ここにはいくつもの問題が含まれています。
 まず、夜の7時といえば、普通、一家で夕食を囲んでいる時間帯でしょう。小さな子どもたちと親とが団欒している家庭もさぞ多いことと思います。そこに、たとえ動物とはいえ、セックスの場面を大写しにする。親も子どもも、お互いに面はゆい気持ちいっぱいで、合わせる顔がなくなるのではないでしょうか。私は自分が親の立場であっても子どもの立場であっても、その場に居合わせたら、いたたまれない恥ずかしい気持ちになると思います。
 人間ではなく、動物だからいいじゃないか、子どもたちもみんなパンダに赤ちゃんが生まれることを期待しているのだ、と反論されるかもしれません。
 しかし、パンダは高等哺乳類であり、その交尾の姿はどう見ても人間のそれを連想させます。メスの「シンシン」のヤギのような切ない「よがり声」がとても印象的ですね。
 私は何も、小さな子どもに性の仕組みを知らせてはならないなどと道学者めいた野暮なことを言っているのではありません。
 親子が居合わせる場で、そういう連想を誘うような視覚像を公開することは、性愛が秘め事の世界であるという人類史の長い間にわたる大切な約束事項を反故にしてしまうことにつながります。それは、結局、人間の文化を起伏のない、乾いたつまらないものにしていくだろうと言いたいのです。家族間で、性にまつわる物事に何の羞恥心も抱かないようになったら、人間ははじらいも色気も恋の情緒も妄想も失い、禽獣と変わらなくなりますね。
 あるいはこういう反論があるかもしれません。
 動物がそういうことをするなど、子どもはうんと小さい時から知っているし、ほどなく人間も同じことをすると知るようになるのだから、早く知っておくに越したことはない。
 繰り返しますが、私は、子どもから性情報を遠ざけろと言っているのではありません。子どもは純粋無垢などという神話を私はまったく信じていません。彼らは早い時期からそういうことに興味をもち、しかし、直感的に親との間で情報交換を堂々とやるのは何となくはばかられると感じているはずです。ですから、性の秘密は、友達どうしで情報交換しあったり、ひとりこっそりと調べたりして知っていきます。私たちもそうでしたし、いまの子どもたちもそうでしょう。
 それで何の不都合があるでしょうか。むしろそのようであってこそ、この世界の独特な意味、一般公開される社会関係と順接ではつながっていないプライベートなモードの意味を悟っていくのだと思います。水が水素と酸素とからできていることを知るのと、性の世界に目覚めるのとでは、同じ知識・情報を得るのでも、その情緒的な意味合いがまったく異なります。そうした質の違いを尊重することが、人間的なことだと思うのですが、いかがですか。
 それにしても、こういうことが平気で公開される背景には、現代社会特有のいくつかの理由があるようです。
 第一に、科学的客観主義の信仰です。なんでも客観的で正確な知識・情報を提供するのがいいことだと思い違いしている人が多いのですね。しかし私は原発問題でもふれましたし、これからも折に触れ述べていこうと思いますが、完全に客観的で公正な知識・情報などというものはもともとあり得ないのです。みな「事実」なるものを、それぞれのバイアスをかけて受け止めるのであって、そこには主観(それぞれの主体にとってのものの見方)が必ず関与します。
 第二に、猛烈な情報の洪水状態です。近年のこのすさまじい流れは、仙人になるのでもないかぎり、だれも拒否することができません。いつの間にか私たちの頭は、統制が取れないままに混乱し、何をどのように知ればいいのか、どういう秩序にしたがって情報を受信・発信すればいいのかがわからなくなってしまっています。じっくり自分の頭で考えるための時間が許されなくなっているのですね。私たちはみな、情報病患者です。「パンダ交尾」情報を不適切な時間帯に、膨大な不特定多数の人たちに向けて公開してしまう粗雑さも、ここからきていると言えましょう。
 第三に、このこととかかわるのですが、情報社会の飛躍的な発展によって、人は何でもかんでもできるだけ早い時期にある予測を立て、その実現に期待や不安を抱くように習慣づけられてきました。天気予報しかり、経済情勢しかり、地震予測しかり、イベントや旅行の予約しかり、就活開始時期しかり。
 これは必ずしも悪いことばかりだとは言いません。本当に確度の高い情報であることが保証されるなら、役に立つことが大いにあるでしょう。しかし、なんでみんなそんなに急ぐのでしょうね。人よりも先駆けて、という競争意識をみんながもたされるので、結果として、経済学でいう「合成の誤謬」に陥り、余計な混乱を招いているような気がしてなりません。
 パンダについて言えば、交尾したからといって妊娠するかどうかはわかりません。じっさい、パンダの場合は確率が低いようです。妊娠が確認できた時点で、それを文字情報で発信すれば十分ではありませんか。
 第四に、「自由」イデオロギーの支配です。人間にとって自由は大切な価値ですが、それは無限定なものではなく、必ずさまざまな制約を通してこそ具体的に実現でき実感できるのです。知識・情報に関して言えば、何でもかんでも、だれでもどんな場にあっても、「自由」に知る権利があるなどというものではありません。
 第五に、「ともかく生命の誕生はすばらしい」という思想の蔓延です。本当に「ともかく生命の誕生はすばらしい」でしょうか? こんな単純でナイーヴな思想が隅々まで行きわたること自体、どこかおかしくはありませんか?
 この世に生を受けることはとてもつらく、悩み苦しみがつきものです。人間関係に大きくつまずいて、早い時期から死を考える人たちもたくさんいます。生きとし生けるものは永遠に煩悩から解脱できないという宗教思想もありますね。「一番良いのは、生まれてすぐに死ぬことだ」と言った偉人もいます。
 また生命至上主義は、たいへん抽象的な思想で、現実には私たちは、自分や自分にかかわりの深い人たちの生命を大切にしますが、縁の遠い人たちの生命はじつはどうでもよいと思っているところがあります。この種の実感を無理に隠蔽してはいけません。それというのも、自分や自分にとって大切な人たちの命を守るためなら、他人を殺さなくてはならないことだってあるからです。
 また、かかわりの深い人でも、超高齢者で認知症が進みほとんど何もわからなくなってしまった親を介護しなくてはならない子どもの立場からすれば、「早く死んでくれないか」と感じることもしばしばでしょう。こういう問題も、生命至上主義では解決がつきませんね。
 生命至上主義に対しては、常に懐疑的な姿勢を崩さず、いかに原理主義に走らないようにバランスを取るかがとても重要だと思います。
 第六に、ひところフェミニズムが鳴り物入りで先導した「ジェンダー・フリー」思想の影響が考えられます。これは一種の露出症的な思想で、「性を自由におおらかに」「正しい性知識を」「男女の違いは性差別の根源」などといったスローガンを掲げながら、小学校の教室でパパとママの人形を使って性交場面を演出したり、男女の更衣室を一緒にしたりする試みまで現われました。先に述べたように、豊かな文化や適正な社会秩序は、複雑なモードの違いによって保たれています。人間生活の光と陰、心の微妙な襞、おおやけの世界とひそかな世界の使い分け、ジェンダーフリーは、常識人ならだれでもわきまえているこうした現実を無視した、幼稚極まる思想ですね。
 パンダの交尾シーンを夕食時のお茶の間に平気で流す人たちの粗雑な感覚には、以上のような背景があると私は考えます。どうか二度とこんなことはしないでもらいたいものです。

倫理の起源1

2013年11月10日 02時25分09秒 | 哲学

倫理の起源1



本稿の目的は、「道徳」と私たちが呼んでいるものが、どんな人間活動の原理によって根拠づけられるのかを探り当てるところにある。

 私たちは、ふつう、「道徳」あるいは「善」という理念のようなものがどこかに存在して、それに依拠してみずから生活の秩序を組み立てていると考え、また日々そのように振る舞っている。
 しかし、では、その「道徳」あるいは「善」とは、どんな姿をとっており、それがいかなる理由によって根拠づけられるのかと問うてみると、たちまち当惑してしまう。なぜある意志や行動が道徳的な意味での「善」に叶っていると普遍的に言えるのか、またそれらが個別の経験的な感得を超えたところで、どのような原理にもとづいているがゆえに「道徳」的であると決定づけられるのか――これに答えることは容易ではない。
 というのも、私たちの大多数は、日々の経験では、たしかに、何か「よかれ」と思って人とあい接し、またあることをするのに、それが「よい」ことかどうかと問いかけながら行動しているのだが、さてそれがなぜ「よい」ことなのかと自問してみると、その理由がよくわからなくなってくるからである。
 たとえばこのわからなさは、自分では「絶対よいことだ」と納得しながら行為したのに、その行為の目標である相手からは、そう受け取られなかったというような経験に出会うときにやってくる。自分の「内なる道徳法則」が相対化されてしまうのだ。
 よく問題にされ、また日常生活でも頻繁に出合う例に、電車やバスで、老人その他に席を譲るべきかどうかというのがある。もちろん、譲るべきだという原則に異論をさしはさむ余地はないが、どこからが「老人」であるかの判断に迷うときがある。大平腱の『やさしさの精神病理』(岩波新書)という本に、最近の老人は元気な人が多いので、譲ったらかえって相手のプライドを傷つけるのではないかと考えて、譲らないほうを選んでしまう若者の例が出てくる。彼らにしてみれば、そのほうがかえって相手を思いやっているのだから、「やさしい」心のあらわれだということになるのである。大した問題ではないかのように見えるが、若者にはその時々でけっこうな心理的プレッシャーを与えているようである。
 またたとえば、最近では国際交流が飛躍的に進みつつあるため、だれもが他国の生活慣習にじかに触れることが可能となっている。そして、自国では当たり前とおもえた道徳規範が、他国ではそのままでは通用しないこと、逆に、自国ではなんでもないこととして許されていることが、他国では厳しい禁止事項になっているといった経験に出会うことも多い。
 もっとも現在では、少なくとも近代先進国家どうしでは、自由と平等という基本的な理念を共有することが当たり前となっているので、その理念の枠組みの内部で行動する限り、かつてのようにカルチャーショックを経験することはむしろ少なくなっているともいえる。だが依然として、世界はいくつかの非常に異なる文化圏に分かたれているため、その境界を不用意に越境してしまったときには、思わぬ宗教的・道徳的な文化の壁にぶつかるという事態もまま見られる。
 よく知られている例では、自殺に対する考え方が、キリスト教文化圏と日本ではかなり違うという例が挙げられる。キリスト教文化圏では、自殺は、「神が与えたもうたこの命を自ら決すること」として、神に対するかなり重い罪とみなされる。だが日本ではむしろ、自ら命を絶つほどに悩み苦しんでいた証拠として、痛ましいという感情を呼び起こしこそすれ、「罪」と感じられることはまずありえない。
 さらに、私たちは、特定の儀礼行為というものの絶対的な正しさ(権威)から解放された社会に生きているので、ある人からの厚意を受けた場合などに、どのように、どれくらいのお返しをしたら「よい」か迷うといったことをしばしば経験する。
 このたぐいのことにまつわる一種の心労は、金銭、品物の贈答から年賀状のやりとり、その場の言葉遣いにいたるまで、じつに繊細多岐にわたっていて、しかもだれも信念をもって「こういう場合にはこうするのが正しい」と答えられない。そこでとりあえず、「まあ、こんなところが世間常識ではないか」という経験則に従って行為に踏み切るわけであるが、それでも、不安が完全に払拭されるということはあり得ない。
 この、儀礼行為にかかわる不安の存在は、「礼」とか「徳」とか呼ばれるものが、もともと自然法則のように必然的に与えられたものではないことを暗示している。
 いま私は、自分たちの住んでいる社会(近代市民社会)のあり方を引き合いに出したが、じつは慣習やしきたりの絶対的な権威が生きていたように見える伝統的な社会でも、この不安がなかったわけではないように思われる。身分の低い者が高い者に接するときには、常に失礼に当たらないかどうかに大きな気配りをしなければならなかった。命がかかわっていたからである。
 そもそもどの伝統社会でも、人びとが、「礼」や「徳」の適切なあり方について、微に入り細をうがった関心を払ってきたという事実が、逆説的に、これにかかわる不安がいかに大きかったかを物語っているといえよう。つまり、どんな社会でも、何が「よい」ことであるかという絶対的な通則があったわけではなく、「道徳的であること」は相対的性格を免れなかった。
「徳」という言葉に関しては、私たちは、それに属するさまざまな項目を挙げることができる。たとえば、親切、正直、誠実、やさしさ、柔和、友好的、平和的、あるいは、勇敢、剛胆、勤勉、熱心、意志堅固、意欲的、建設的、決断力がある、ときには戦闘的、あるいはまた、寛容、謙抑、慎重、慎ましさ、冷静、思慮深さ、欲深くない……。
 しかし、まず一見して明らかなように、これらは言葉としてだけ見れば、互いに矛盾している面をもっている。また、ではどういう具体的な行為や表現が、それぞれの徳目に叶うものなのか、何をもって私たちは親切な行為、勇敢な行為などと呼んでいるのか、という点について考えてみると、それは状況次第で変化するもので、確たる尺度をもっていないように見える。
 たとえば、金に困っている友人を見たとき、心の底からその友人のためを思って、当座の金を貸すことを申し出たとする。これはふつう親切な行為と呼ばれるが、その行為は相手の誇りを傷つけるかもしれない。その行為を見た別の友人が、「君、ああいうときには黙って見ているのが親切ってもんだよ」と言うかもしれない。
 それにもかかわらず、私たちは、日々の生活の場面で、この場合にはこうする(あるいはしない)のが「よい」と判断しながら行為している。はたしてその判断がすぐに出てくるかどうかは別として、また、その判断が正しいかまちがっているかは別にして、少なくとも、私たちは、ある特定の行為が「よさ」に叶うものかどうかについて、いつも配慮しながら生きているといっていい。そういう配慮のない人は、世間知らずとか、自己中心的とか、バカとか、悪いやつだとかいうように、軽蔑されたり非難されたりするのである。
 徳にかかわるこういう軽蔑や非難がまがりなりにも可能であり、それが大方の支持を得ることができるということは、それぞれの具体的な局面で、私たちが、何かしら「よい」についての直観的な尺度をもっていることを意味する。
 プラトンは、この「私たちが、何かしら『よい』についての直観的な尺度をもっている」という経験的な感知をよりどころにして、「善のイデア」という概念を立てた。彼は、この言語化作用によって、いわば経験的な感知をひとまとめに総合して、「イデア」としてとらえるという抽象化を行ったわけである。
 プラトンの「イデア」思想がどういう危険をはらんでいたかについては、のちに詳しく論じる。ここでは、とりあえず、人間というものは物事を(言語を使って)考えるときには必ずそうした抽象化を行うものだという意味で、彼の採った方法は、少なくとも言語的思考の法則にはよく適合したものだったとだけ言っておきたい。

 さて、道徳的に「よい」こととは、何であるのか、しかもなぜそれが「よい」とされるのかについて、人びとはある直観を抱いているにもかかわらず、それをそれとしてなかなか明確に示すことができない事情について語った。ものごとは、しばしば、それとは反対の現象に着目することによって、その輪郭を浮き彫りにする。そこでしばらく、道徳的に「悪い」とされることに対して、なぜそれらが「悪い」と感じられるのか、その共通了解の心理的な構造について論じてみよう。
 私たちは、個体としての発達途上で、個々の行為に即して、養育者から、何度も何度も「それをやってはいけません」といわれて育ってきた。この反復の過程によって、社会規範が内在化され、「やってよいこと」と「悪いこと」との分別がつくようになる。
 この過程において、禁止を宣告するほう(養育者)は、一般に、自分が生きている社会でこれまで「悪い」とされてきたことを、社会人としての直観にもとづいて半ば無自覚にそのまま伝えているにすぎない。
 では、禁止を宣告される主体(幼児)の側には、何が起こっているだろうか。
 重要なことは、彼は、それが「悪い」ことであるという何らかの合理的な「理解」にもとづいて、禁止を受け入れているのではないということだ。
 たとえば、遊びに来た隣の子どもの振る舞いが、自分にとっておもしろくないということで、いきなりぽかぽか殴りつけたとする。これを止めない親はまずあり得ない。
 では、親の禁止や制止は、幼児にとってどう受けとめられるか。彼は、親の禁止の言葉や腕力による介入と制裁に服従するとき、合理的な納得によってそうするのではない。
「よく言って聞かせる」ことで「言うことを聞くようになった」ような場合でも、彼が親の言葉を理路として十全に理解した上で従うようになるとは思えない。おそらく、彼の前に繰り広げられる言語は、聞き慣れない語彙や言い回しであふれているにちがいない。年齢や賢さの程度によっては、ほとんど何もわからない場合も多いだろう。
 むしろ彼は、親の決然たる制止の態度や険しい表情、言葉の調子などにただならぬものを見て、自分の生存を脅かされる危機感を抱くのである。言い換えると、彼は親の態度や表情や口調がもつ彼にとっての「意味」を情緒的・本能的に悟って、仕方なく服従するのである。
 ところでその「意味の悟り」とは、いまだ「道徳」に対する理解ではなくして、「愛の喪失」に対する直感的な危機意識である。自分にとってなくてはならぬ存在としての養育者が、なぜかはわからないが、あのように怒って自分を制止しようとする。これはともかく従わなくてはまずい、という感覚が彼を支配するのである。
 こういう体験は、人間の内面形成にとって、非常に重要な意味をもっている。彼は、それまで自分の欲求を満たすために、また不快から身を避けるために、ただ泣いたりだだをこねたりしていればよかった。それは彼自身の欲求の表出が、そのままで養育者に受け入れられたからである。養育者の無償の愛の感情が、彼にそれを許していたのである。
 そういう環境におかれた彼にとって、彼をどこまでも愛してくれるはずの存在が、ときには、自分を否定するほどの情緒的な圧力をかけてくることがある。これは彼にしてみればまさに青天の霹靂にちがいない。しかし、ともかく従わないわけにはいかない。おもちゃも大好きなプリンも取り上げられてしまうのだから。
 個人としての人間のなかに、良心や道徳心が根づくいちばんはじめの契機は、このような、理屈抜きの、有無をいわせぬ、「愛の喪失に対する危機感」によってである。つまり、私が言いたいのは、人間の道徳心というものは、自分が「よい」ことをしたと周りからほめられるような契機によってよりもずっと早く、またはるかに頻繁に、むしろ自分の生存の危機を脅かされるような、ネガティヴな心理的契機によって深く根づくということだ。
 自分の生存の鍵を握る圧倒的な存在である養育者の、具体的な禁止や制裁におけるその情緒的な異変の姿を通して、子どもは、この世には「許されないことがある」という事実を不本意ながら受け入れていくのである。その動機は、この養育者の禁止から逸脱することへの生存上の不安であり恐怖である。
 少し長じて、小学生か中学生になると、彼にはもうじゅうぶんに社会性が備わっている。社会性が備わっているということは、彼の自我のうちに、自我の統一にとって不可欠の構造的要因として、他者のまなざしが住み込んでいることと同じである。フロイトがこの「他者のまなざし」に「超自我」という名前を与えたように、それは彼の行為を一々監視し、彼自身の反省的な意識において、「それはまかりならぬ」という宣告を与える権威的な力として作用する。
 この権威的な力の作用は、もともとは、具体的な養育者からの愛を失わないための代償として彼が引き受けたものだが、他者との関係を内在化したところに成り立つ自我の構造が確立したこの時点においては、それは、他者一般、世間一般のまなざしとしてすでに観念化されている。
 誰しも、小学生から中学生くらいにかけて、大人が「悪い」としていることをそれと知りながらやってしまった経験が大なり小なりあるだろう。たとえば、友だちを傷つけたこと、いじめに加担したこと、嘘をついたこと、約束を破ったこと、大人の言いつけを守らなかったこと、万引きをしたこと、など。
 これらの行為においては、ふつう良心の呵責がともなう。どんな極悪人でも、完全な心神喪失に陥ってでもいないかぎり、彼にはその行為が、世間では許されないこととされているのを知っていて、あえて確信犯的にそれをなすのである。彼にはすでに「超自我」という理性の持ち合わせがあるが、その理性の声を無視してある行為の実行に踏み出すのである。
 やや長じてからのこの、「だれかに対して悪いことをしてしまった」という後ろめたさの感覚には、もはや具体的な養育者個人に対する愛の喪失感が直接的に感知されるということはない。つまり、ここでは、具体的な養育者からの離反にともなう恐れや不安とは違って、より一般化された「世間」とか「社会」とか「共同世界」といった〈観念〉に対する孤立感が支配的となる。
 この良心の呵責は、彼自身の心の構造が、養育者との愛の絆にまったく依存している状態から離脱して、より一般的な「他者」との関係として成立している事情にそのまま対応している。この段階では、「何かしら悪いことをした」という意識は、エロス的関係の喪失の危機として経験されるよりも、自分が「社会存在一般」として承認されることからの脱落感として経験されている。つまり、はじめは具体的なエロス的関係からの脱落の危機であったものが、社会的存在一般としての自我の危機に転化あるいは昇華しているのである。
 このように、悪いことをしてしまったという「罪」の意識、すなわち道徳意識は、当人がどれだけ一般的な社会存在としての自分を自己了解しているかというその程度に比例している。同じことを逆に言えば、道徳意識が普遍的に成り立つのは、各人が「他者」という概念を、あれこれの具体的なエロス的存在との関係においてとらえるのではなく、それをまさしく「他者性」として、ある一般的な水準にまで内在化しているという前提によってのみ可能なことである。
 いいかえると、彼が何かをしようとするのをみずから抑制するのは、「お母さんが怒るから」なのではなく、世間あるいは社会一般がそれを許さないからという観念的な納得のもとにそうするのである。この納得の論理が彼の内部で成り立つかぎり、彼の自我は、エロス的な自我から社会的な自我へと転化あるいは昇華しているのである。そこでは、道徳への馴致は、直接的な愛の喪失の危機を動機とするよりも、「社会的共同性一般からの孤立の危機」を動機としていると言えよう。
 しかし、そうはいっても、この転化あるいは昇華は、はじめの「愛の喪失」にかかわる危機感情とまったく縁を絶ってしまったのではない。疚しさの向けられる対象が、養育者などの個別具体的な存在から、他者一般、社会的共同性一般に移行しているにしても、その疚しいという感情そのものの根底にあるのは、やはり、もはやだれにも愛されなくなるかもしれないという、不安と恐れである。
 たとえば、罪を自白しようとしない容疑者を陥落させるために、母親に会わせたりその悲しんでいる声を聞かせるというのは、昔からよくある泣き落とし戦術である。また少女売春をしている女子中高生が、親にだけは知られたくないと考えるのも、彼女たちが、自分の抱える疚しさのよってきたる根源がどこにあるかをうすうす知っている証拠である。




原発問題に関する巨大マスコミの姿勢

2013年11月10日 02時19分11秒 | 政治
原発問題に関する巨大マスコミの姿勢



私はこのところ、エネルギー問題、特に原発問題に関心を抱いています。
 2013年4月1日付産経新聞に、「原発容認で出演中止 NHK番組『意見変えて』要請」という見出しの記事が掲載されました。その一部を転載します。

 問題となった番組は昨年11月28日放送のクローズアップ現代「"ジャパンプレミアム"を解消せよ~密着LNG獲得交渉」。
 日本エネルギー経済研究所顧問の十市勉(といち つとむ)氏によると、NHKは十市氏に出演を依頼、同21日にディレクターらと打ち合わせた。国内では関西電力大飯原発以外の原発は停止しておりNHKは、輸入が急増し高騰するLNG価格をどう下げるかコメントを求めた。
 これに対し、十市氏は①LNGの輸入源と調達方法の多様化②交渉力強化のため、共同購入やLNG火力の代替手段の確保が重要。そのためには安全が確認された原発は地元の同意を得たうえで再稼働させたり、石炭火力の活用が有効③電力制度改革で発電市場の競争の促進――を挙げた。
 だが取材翌日、ディレクターから「番組に出演するには意見を変えていただくことになる」と電話があり、理由として「原発ゼロを前提にどう価格を引き下げるかを趣旨にしており、再稼働に関する発言はそぐわない」と述べたという。
 十市氏はNHKに説明を要求。チーフプロデューサーから連絡があり「原発ゼロを前提にしていない。総選挙前であり放送の公正・中立に配慮した」と釈明した。十市氏の発言のどの部分が、放送の中立に反するか説明はないまま、出演は取りやめになった。 


 さてみなさん、この記事を読んでどのように感じられましたか。
 私は、ここに書かれていることが本当だとすれば、公正・中立を謳う天下のNHKが、裏では陰湿な言論弾圧を平気でやっているのだと思いました。
 十市氏のコメントのうち、私は③には必ずしも賛成しませんが、②については、きわめて公正・妥当な判断だと考えます。
 エネルギーの安全保障の問題は、いま日本の国民や企業にとって最重要な課題の一つです。現在、全国54基の原発のうち、稼働しているのは2基だけです。この状態をそのままにしておくと、火力への依存が過度に高まり、資源(ことに石油、LNG)の安定的な確保、コスト、電力の安定供給などの点で、ほどなく大きな危機に直面する可能性が大きいのです。現に電気料金は軒並み値上げされていますね。こういうことを続けていると、ただでさえ不況にあえいでいる日本の産業は必要十分な電力を使うことができず、ますますシュリンクしていくことは目に見えています。
 反原発を標榜する人たちは、再生可能エネルギーへの転換を声高に唱えますが、これはそう簡単ではありません。そのためのインフラを整備し、適正な供給シェアを確保するためにも、安定供給とコスト安で実績をもつ原発を再稼働させる必要があります。原発稼働と再生可能エネルギーとは、トレードオフの関係にあるのではなく、前者の適切な運営が後者の発展を支えるのです。
 NHKが、「原発ゼロ」を前提とした番組作りを目論んだことは明確で、十市氏のコメントはそれに抵触するために圧殺されたのでしょう。しかし十市氏は、「安全が確認された原発は地元の同意を得たうえで」とちゃんと条件をつけています。これのどこが「公正・中立」に反するのか。NHKのような巨大マスコミが、「原発に対する国民感情」という亡霊に怯えて、大衆迎合主義に走っていることは明らかではないでしょうか。
 巨大マスコミが「正義」を代表しているなどとは、いまさらだれも思っていないでしょうが、こういう具体的な事例があった時には、私たちはやはりそのつど、その欺瞞性を批判していく必要があると思います。
 ところで一般国民は、ほんとうに「反原発・脱原発を選ぶべきだ」と思っているのでしょうか。民意の最大公約数がどのあたりにあるかを少しでも正確に把握するためには、相当精度の高い調査をしてみなくてはなりません。これを実施するのもマスコミの役割だと思いますが、私は寡聞にして、そういうきちんとしたデータに接した覚えがありません。代わりに私たちが目にするのは、次のようなずさんな調査と、それにもとづく勝手極まる結論です。
 2013年2月19日付の朝日新聞「社説」に次のようなことが書かれています。

 朝日新聞の世論調査で、原発の今後について 尋ねたところ、「やめる」と答えた人が計7割にのぼった。「すぐにやめる」「2030年より前 にやめる」「30年代にやめる」「30年代より後にやめる」「やめない」という五つの選択肢から選んでもらった。全体の6割は30年代までに国内で原子力による発電がなくなることを望んでおり、「やめない」は18%にとどまる。政権交代を経ても、原発への国民の意識は変わっていないことが確認されたといえよう。

 巨大マスコミが自分たちに都合がいいように世論操作をするのは今に始まったことではありません。ことに朝日新聞はこれが得意。私が記憶している限りでも、この新聞は昔、夫婦別姓問題についての調査結果からとんでもなく間違った結論を公表した前科があります。でもその時はだましのテクニックがなかなか巧妙でした。
 しかし今回のこのアンケート項目の設定のいいかげんさはどうでしょう。なんと五項目のうち四項目までが「やめる」になっていますね。原発が危険を抱えていることは福島事故で思い知らされたから、誰でも、もっと安全な発電方法があるならそれに越したことはないと考えるのが人情です。だから「やめる」項目八割のアンケートを突きつけられたら「やめない」をきっぱり選ぶ人が少なくなるのは当然です。回答者は初めからまんまと誘導されているのです。何の根拠があるのか、30年代などという設定も恣意的そのものです。いまは懐かしき民主党旧政権の政策に、この期に及んで媚を売っているのでしょうか。
 それにしても、こういう科学的客観性を担保したかのような装いのもとにあらかじめ決まっている結論を導き出すのは、じつにたちの悪い煽動です。もともと世論調査というのは、いろいろな意味でその信頼性に問題があるのですが、そのことを踏まえつつ、もしできるだけ公平を期すならせめて次のように選択肢を設定すべきでしょう。
 原発を①やめるべきだ ②どちらかと言えばやめる方向で ③迷う ④どちらかと言えば再稼働の方向で ⑤再稼働すべきだ
 これなら③や④を選ぶ人がかなりに上ることが予想されます。「『やめる』と答えた人が計7割にのぼった」なんてことにはならないでしょうね。
 言うまでもなくマスコミには事実をなるべく正確に伝える重い責任があるのですから、こんなボロ丸出しの調査などやってはいけないのです。これは、主義やイデオロギーが右か左かというような問題以前の、ジャーナリズムとしてのレベルの低さの問題です。
 しかしそもそも脱原発か再稼働かという問いは、原子力発電そのものについての高度な専門知や、これからのエネルギー政策、外交政策などを総合的にとらえる広い見識が要求されるきわめて選択困難な課題です。ふだんよく考えてもいない(考える必要もない)圧倒的多数の国民に安直に二者択一させて済むような問題ではありません。だからこそ、十市氏のように視野が広く見識のある人の意見を汲み上げる必要があるのではないでしょうか。それを握りつぶしたNHKの「クローズアップ現代」担当者は、大いに批判されてしかるべきです。
 NHKにしろ朝日新聞にしろ、こういう大衆迎合主義が大手を振ってまかり通るようでは世も末です。読者諸兄は頓馬なマスコミにたぶらかされないようによくよくご注意ください。


日本語を哲学する1

2013年11月10日 02時01分45秒 | 哲学

日本語を哲学する                  


【はじめに】
 世界経済がアメリカ発のグローバルスタンダードに巻き込まれてきたように、言葉の世界でも英語がグローバルスタンダードとなってから久しい時がたつ。それにもかかわらず、いまなお、日本人の欧米コンプレックスと英語に対する苦手意識は克服されているとはいえない状況である。
 この状況は、異文化間、異言語間に大きな壁が横たわっていることを意味している。しかし果たしてこの壁は、原理的に乗り越え不可能なものなのか、それとも条件さえ整えれば、ほとんど完全に近い状態にまで乗り越えることができるものなのか。
 この種の問いは、じつは古くて新しく、昔から「翻訳は可能か」という問いの形で繰り返されてきたものである。しかしこの問題は、可能か不可能かに明快な答えを与えるところに意味があるのではない。問いが問いのままで依然として残るところに意味があるのだ。
 この問いはまた、「普遍人間性」の想定に軸足を置いてものを考えるのか、個々の文化共同体の伝統とかナショナリティといったものに軸足を置いてものを考えるのかという問いに通ずるものである。こちらの問いにも、二元論のどちらか一方に身を寄せればいいといった簡単な解決はあり得ない。
 現実には、明治時代以降、膨大な翻訳努力が積み上げられてきて、いまでは欧米文化圏の言語に対する理解は相当のところまで成熟している。また最近ではバイリンガルも増加の一途である。相手の母語の背後にある生活感覚を互いに共有できさえすれば、日常生活における微妙な心情の交感なども可能になる。国際結婚がさしたる破綻もなく成立している事情を見れば、異文化間でのコミュニケーションが深いレベルで実現しているのは事実であろう。
 だが一方では、それぞれの言語文化の地域特性を最も象徴する例として「詩歌」的言語のたぐいが存在する。私たち普通の日本人にとって、短歌や俳句(ことに短歌)がかもし出す「趣」は、奇を衒った難解なものでないかぎりたちどころに理解できるが、これを欧米人に理解してもらうのは至難のわざであると誰もが感じるであろう。散文的に砕いて翻訳すれば、指示的な「意味」は伝わるだろうが(現にそれは行なわれているが)、その芸術的な「趣」が精確に浸透したとはとても思えない。
 逆も真なりで、西洋の韻文を、西洋人が感じているはずの興趣そのままに私たち普通の日本人にわかってもらおうとしても、そこにはどうしても無理がはたらくと思われる。たとえば上田敏の訳詩集『海潮音』はそれ自体、著者の「歌心」の才と血のにじむような努力とが結実した成果であろうが、これは西洋の歌心をそのままに伝えることができたというよりも、むしろそれを素材として日本人の歌心に訴えることに成功した一種の創作であったと考えられる。翻訳とは、もともとそのようなクリエイティヴな作業である。

 欧米語、特に英語と、日本語との間に横たわる「壁」、およびそれに対する日本人の心理についてまずは触れたが、ここにはもう少し具体的に噛み砕いて考えてみなくてはならない問題が伏在している。それをいまある程度整理し、便宜上、①日本語を取り巻く歴史的社会的環境にかかわるもの(外部)と、②言葉の本質・特質にかかわるもの(内部)とに分けて簡単に列挙してみよう。


a.日本人は、幕末維新以来、圧倒的な西洋近代文明の流入によって、これまでの生活様式、政治制度、文化的態度などの根本的な変容を迫られたが、完全にその力に支配されたわけではなかった。
b.日本人は、第二次世界大戦の大敗北によって、さまざまな意味での欧米文化の「進歩性と強さ」とを思い知らされたために、さらに開かれた再適応を余儀なくされた(特にアメリカナイゼーション)。しかし、それでも欧米文化をそのまま受け入れたわけではなく、独特の消化吸収と変奏を成し遂げて今日に至っている。これは良し悪しの問題を一応度外視して言えることである。
c.この事情は、かつて中華文明を摂取していく過程で、漢字かな混じり文や日本仏教に象徴されるような特有の文化を築き上げたこととよく似ている。というよりも、その同じ精神の延長上に位置づけられる。
d.その理由として、とりあえず次のことが考えられる。日本人はもともと島国という地勢のゆえに、等質性の高い文化伝統を維持してきたため、シャイで内向き、外に進出してゆくことが苦手な国民性を持つ。だから、強い政治的・文化的な力が押し寄せてきたときには、それに対抗して押し返すのではなく、ひとまず受け入れた上で、自分たちの腹の中でその衝撃を徐々に和らげながら、自分たちになじむものに鋳直してゆくのである。


a.言語表現は、もともと、「あらかじめ存在する同じ真実、客観的な真理」の共有を目的としていない。
b.言語表現とは、単に「思想」を伝える「手段」ではなく、「思想」そのものである。言いかえると、大は一定のラング全体から小は各単語のレベルに至るまで、表現形式が違えばそれは思想を異にしているとみなすべきである。この考え方は厳密に貫かれる必要がある。なぜそのように考えたほうがよいのかは、すでに言語論の内部に立ちいることになるので、後述する。
c.日本語は、印欧語、中国語などとその文法構造を根本的に異にしている。この構造の違いは、①のc・dで述べた事情と呼応する関係にある。ただしここでは、どちらが「因」でどちらが「果」であるかという因果関係論理をナイーブに提出することはできない。

 さて、この論考で考えを深めて行きたいと思うのは、①の文明論的な問題意識ではない。これは多くの人がすでに試みているので、私がそれに加えてオリジナリティを示すだけの用意を特に持っているわけではない。
 ここで追究しようとするのは、もっぱら②の側面に関してである。現在の見通しとしては、特に②のcについての考察を出発点としつつ、では、日本語的思考の特質とは何であるのか、そこから、どんな世界把握の仕方を取り出すことができ、いかにすればそれを人間の普遍的な本質の解明に寄与させるところまで到達させられるのか、というのが私の問題意識の最も重要な点である。
 大風呂敷を広げたので、できるかどうかはまったく五里霧中だが、右の記述からわかるように、私は比較文明論的な結論をゴールとは考えていない。彼我の文化がこんなに違うなどといって面白がっているのは、もはやつまらないことである。
 そうではなく、私が目ざしているのは、まず、日本の言語文化のなかには、これまで注目されてこなかった「哲学的課題」の材料が豊富に眠っているという点に読者の注意を促すことにある。次にそれを通して、もしその課題の解明ができるなら、日本語を日本語で哲学した成果を、人間認識、人生問題などの普遍的なテーマに接続させて、これまで未熟であった新しい形での世界発信が可能になることを示そうという点にある。

 だが以上の問題意識の中心に突入する前に、その準備作業として、②のaとb、つまり、そもそも「言語」一般とは何であるかということについて、私なりの言語本質論、言語観について述べておきたい。それをしないで、いきなり論の対象を日本語に特定すると、ともすれば一般と特殊との関係が見えにくくなり、本来の問題意識から逸脱していつの間にか特殊性の提示だけで終わってしまう危険がある。場合によっては、無自覚な日本賛美に酔い痴れるごとき営みに帰着しかねない。
 これから述べる言語本質論についてはいろいろと異論があるかもしれないが、私としては、優れた先達の力を借りながら永年考えてきた末の一応の結論である。
 また、この言語本質論は、私がこれまで折に触れて発表してきたいくつかの書物での文章と重複する部分が多い。関心を抱かれた読者は、そちらのほうも合わせて参照していただければさいわいである(『吉本隆明』・『「恋する身体」の人間学』以上筑摩書房・『なぜ私はここに「いる」のか』・『ことばはなぜ通じないのか』以上PHP研究所・『エロス身体論』平凡社・『人はなぜ働かなくてはならないのか』・『人はなぜ死ななければならないのか』以上洋泉社・『日本の七大思想家』幻冬舎。

ブログ開設のご挨拶

2013年11月10日 01時05分13秒 | エッセイ
初めまして。評論家の小浜逸郎と申します。このたびブログを開設することにいたしました。
このブログでは、主として次の三つのテーマに沿って、評論、エッセイなどを掲載していこうと思っています。

①時事ネタ
②言語論
③倫理学

少々固いテーマですが、なるべくわかりやすく書いていきますので、どうぞよろしくお願いいたします。