日本語を哲学する2
第一部 総論
第Ⅰ章 言葉の本質
言葉とは何か。
これを考えるには、あくまでも、言葉というものの使用実態に即してその核心に迫っていく必要がある。いまその使用実態に関して、これだけは否定できないという点を三つの簡明な命題の形で挙げながら、一つ一つの命題の意味するところについて解説してみる。そして、そこから次第に言語の本質をあぶりだしていこう。
1節 言葉の本源は音声である
言葉の本源は音声である――この命題はあえて指摘するまでもない当たり前のことのように思える。だが他方では、文字や手話などの視覚言語、点字のような触覚言語もあるといった異論の余地が生じる命題である。また聴覚障害児教育や研究に携わってきた人々の一部からは、技術論的・方法論的な見地からの反発が大いに予想される。けれどもそれらの異論・反発に対してあえてこう言いきることが、言語の本質を考えることにとって必要なのである。
この命題にはいろいろな意味が込められている。
まず第一に、言葉が音声であるということは単なる偶然で、思想を伝えるためにたまたま一生理学的器官が選ばれたにすぎないかのようにみなされがちだが、そうではない。言葉はその起源からして必然的に音声でなくてはならなかったのである。というのは、それはもともと空間的な距離を隔てた身体間における、異なる「経験」の相互交流を媒介するものであり(「情報」の交換を媒介するものではない)、それを実現するために、五感のうちどの感覚が適しているかに着目すれば、言葉を言葉たらしめたおおもとにあるのは、聴覚以外には考えられないからである。
いま身体と身体とのあいだで、刺戟を与える側(はたらきかけの側)とそれを感受する側(感覚の側)との関係およびその制約を列記してみよう。もちろん、これは無文字社会が前提である。
・触る、つかまえる、抱くなどの身体行動――〈触覚〉:距離がある場合には感受することが不可能である。
・近づく、遠ざかる、身振りをする、表情を顔に出す、煙などの外的事物を利用して意を伝える――〈視覚〉:表現内容に限界があり、受ける側が背を向けていたり、遮蔽物が間にあれば認知できない。
・匂いを発する――〈嗅覚〉:これも、表現内容が著しく制限されることは明らかであり、認知可能な距離にも大きな限界がある。
味覚に至っては、多言を要すまい。
こうして音声は、それを受ける聴覚器官とのあいだに相当の距離があっても、中間に遮蔽物があっても、相手が後ろを向いていても、伝達が可能であること、その大小、高低、調子、抑揚などの複雑な分化が可能な生理的特性を備えていること、などからして、もともと言葉というものが発達するための完全な条件を具備しているのである。
第二に、音声は物理的には「音響」であり、音響は、一つの「動き・変化」として時間的な持続のもとに現象する。この現象的特性は先の指摘と関連するが、一定の強度を持っていれば受け手の注意を喚起するに十分である。だがそれよりもさらに大事なことは、この時間的持続における動き・変化およびその規則性こそが、仲間どうしの間での「共同意識」というべきものの形成にあずかるということである。
私たちは、すでに発達した文化の最先端を生きているので、ともすれば、言葉を受け取る器としての人間的な「意識」のようなものが初めからある、と考えがちだが、これもそうではない。人間的な意識は、永い人類史における生活行動や前言語的な音声交流の共同実践を通して、個体を貫く構造として作られてきたものである。人間的な意識が「因」で、言語が「果」であるのでもなければ、逆でもない。両者は相即的なものとして、同時発展してきたのである。「意識は言葉と同じほど古い」というマルクスの名言は、このことを指している。そうしてこの人間的な意識のあり方は、その基底部において、いま述べた「音響」の特性にぴたりと適合しているのである。
「音声」の分析から話が「音響」に及んだので、ここで少し長くなるが、「音響」とは何かをきちんととらえておきたい。
西洋哲学は一般に、「対象」(主体の意識や行動にとっての目標)という概念の存立を自明の公理として出発する。もちろん西洋的な論理の運び、言葉の使い方に慣らされてきた私たちもまた、この公理にさしたる疑いを抱かずに物事を考えている。しかしその場合、前提となっているのは、主体と対象との間には、ある「距離」があって、両者は別物であるという感覚である。だがこの感覚はなにを根拠にして組み立てられているのだろうか。
私の考えでは、それは第一に視覚が実現しているという現象学的な事実、言い換えると、「私」の前に、ある「視野」が開けているという事実である。また第二に、「私」がその開けている視野に対して身体の運動によって関わりうるという可能性への確信である。そしてこの確信はまた、視覚的な「現象野」(メルロ=ポンティの言葉)が触覚的な経験の積み重ねと統合されることによって、ある安定した自然的な「もの」の秩序を表示しているという確実な判断が実現するところに成り立っている。
けれども、そうだとすれば、「対象」という概念、また「対象」と「主体」との距離をとった関係という概念は、私たちが手にしている世界イメージのすべてを表現するのに必要十分な条件を満たしているとは必ずしもいえなくなる。というのは、私たちは、聴覚や、味覚や、嗅覚によっても世界イメージを手にしているからで、しかもこれらの感覚によって得られる世界イメージは、単なる「知覚対象」として客観化できるような特性に限られるわけではなく、むしろ「情緒」と分かちがたく結びついたものとしてあらわれるからである。
しかし視覚・触覚の統合と、他の感覚との分離や相違をことさら強調する必要はない。それを無理に押し進めると、和解不可能なデカルト的物心二元論と同じような困難にたどり着いてしまう。むしろ、純粋に視覚的な経験と呼べるような意識現象においてさえ、私たちは常に同時に「情緒」的なものを経験していると考えるべきなのである。「対象」的な知覚と私たちが考えているものは、じつはそれぞれの感覚特性にふさわしい度合いに基づいて、より「対象」的な確信を与えるものとして反省的に抽象したときにはじめて確定される意識現象に他ならない。
ところで「音響」の知覚、つまり聴覚は、他の知覚にはみられない根源的な特性をもっている。それは、「主体に向き合うものとしての対象」という概念の存立を拒否しようとする傾向が強いという特性である。そのためそれは、直接的に「情緒」を喚起する。むしろ聴覚は、ほとんど「情緒」そのものとしてあらわれる。味覚や嗅覚や触覚も情緒性を強く喚起するという点においては聴覚に優るとも劣らないが、おそらくこれらの感覚は、それを感じる身体との近接に強く依存しているので、人間意識の本質としての「超身体性」に耐え得ず、そのため、それぞれの感覚内における多様な分岐を独自にたどることができなかったのである。
だが、人間において聴覚は、視覚と同じ程度には「いま・ここ」にある身体を超越して世界イメージを形成しようとする水準を確保しており、しかも、それを「対象」的にではない仕方でそうすることができるのである。わかりやすく言えば、人は見えるものと同じ程度に遠くの音を感知することができ、また、見たものと同じ程度に聞いた音を記憶に宿すことができる。しかしそれは視覚のように、主体と「向き合うもの」、主体と対立した別物として対象化するという形においてではない。
例を挙げよう。
いま私が遠くに響く救急車のサイレンの音を聞いたとする。私はその音に注意を喚起される限りで、ただちに少なくとも次の二つの志向的な直感に支配されるだろう。ひとつは、それがどのあたり(距離と方向)から響いてくるものであるかを確かめたいという探索の欲求である。そしてもうひとつは、その響きがいったい私にとって何を「意味」しているのかという、ある情緒的な動揺である。これらの二つの「感じ」は、いずれもその音自体が「対象」として眼前にあるのではないという欠如感に由来する一種の「不安」をあらわしている。
救急車のサイレンを聞いている私にとって、その聴覚の「対象」とはいったい何であろうか。音源である救急車であろうか。音波を物理的に伝えている空気層の振動であろうか。それとも「音それ自体」であろうか。もちろん、いずれでもない。ここには「対象」と呼べるようなものは不在なのであり、まさにその「対象」的なものの不在こそが、私の聴覚経験に伴う「不安」を積極的に形成しているのである。
私が遠くの道路に救急車が走っているのを目にするときには、このような不安は、微弱なものとしてしかやってこない。救急車という視覚的対象は、それがいかにぼんやりとしか見えないとしても、ある明確な、私の身体とははっきり区別される「もの」として定位されている。だから私の意識はその定位を基盤として、その対象がそこに存在していることの意味についてただちに自由に想像を巡らせることができる。だがサイレンの響きにおいては、もちろんそれが救急車からのものであることを経験的な知識によってじきに認識できるものの、まず最初には、私の意識が直接にその響きに満たされるのである。
この特有の不安感、動揺感、つまり「対象」の所在がたしかめられないのに何者かが私の意識を直撃しているという感じがまずおとずれてくるのは、「音響」というものが、ほとんど意識の形式的なあり方にぴたりと寄り添う(同調する)特性を持っているからである。ここで、意識の形式的なあり方とは、諸対象の存在を貫き、それらを超越して時間に沿って絶えず流れるというあり方である。
ところで「音響」は時間的な直観形式のもとにのみ現象する。したがって結論的に言えば、「音響」は、空間的な定位によってその存在を確証できる視覚的な「対象」のあり方とは根本的に違って、意識そのものを支配し、それを、対象を定位できない「不安」に染め上げるのである。それはむしろ「対象」の不在というあり方そのものによって私たちを驚かせ、悩ませ、動揺させ、感動させる。それは私たちの身体を直接に揺さぶる。
この事実はおそらく、赤ちゃんの意識経験(たとえば音に対するモロー反射、母親の声への情緒的反応など)や、原始人の意識経験の意味をも説明するものに違いない。また、統合失調症患者がなぜ身体の中心部に他者の声を聞く「幻聴」体験に悩まされることが多いかという問題への有力なヒントとなりうる。さらにはまた、ショーペンハウアーがなぜ音楽を他の芸術形式とは別格視して、「世界の本質としての〈意志〉そのものの模写」と表現したか、同じくニーチェが、なぜ音楽の精神を、明朗な形象化を目指すアポロ的な芸術(たとえば美術)と区別して、陶酔的な意識を引き起こすディオニュソス的な芸術と呼んだかという問題をも解き明かす契機をなすにちがいない。
ニーチェは、処女作『悲劇の誕生』のなかで、ショーペンハウアーの「死に対する恐怖や不安に象徴されるような人間の苦悩は、意志の極端な個別化・個体化にその由来をもつ」という考え方を基盤にしながら、次のように書いている。
音楽の精神から、われわれははじめて個体(引用者注――ちくま学芸文庫版『ニーチェ全集』の訳文では「固体」となっているが、ここは「個体」と表記すべきであろう)の破壊にたいする歓喜を理解するのである。
というのは、かかる破壊の個々の実例によってわれわれに明らかにされるものは、いわば個別化の原理の背後に潜む意志の全能を、すなわち、あらゆる現象の彼岸にあっていかなる破壊にもめげざる永遠の生を、表現するディオニソス的な芸術の永遠の現象にほかならぬからである。悲劇的なるものにたいして形而上学的な歓喜を覚えるのは、本能的に無意識なディオニソス的な叡智が形象の言語へ翻訳せられているからである。最高の現象たる主人公の破滅を見てわれわれは歓喜する。というのは彼はやはり現象に過ぎず、意志の永遠の生は彼の破滅によって冒されることはないからである。「われわれは永遠の生を信ずる」、かく悲劇は叫ぶ。ところで音楽はかかる生の直接の理念なのである。(16節)
ここでは、悲劇の主人公が破滅することは、単なる現象(または表象)でしかなかった個体の個別性が廃棄されて世界の本質である意志に還帰することを意味するから、それはむしろ永遠の生の実現に結びつくと考えられている。そして、ディオニソス的な芸術としての音楽こそは、その永遠の生の直接の理念だというのである。
音楽による感動のあり方を考えたとき、言いたいことはとてもよくわかる気がする。しかしニーチェの文体は踊っていて、なぜそういうことが言えるのかが論理的に証明されているわけではない。優れた音楽に感動しない者には説得力が足りないかもしれない。もちろんニーチェは音楽に感動しない者などはなから相手にせずに直観勝負でこう断定しているので、それはそれでかまわない。しかし私としては、音楽がなぜ人間の個別性・個体性を廃棄して永遠の生に私たちをいざなう力をもっているのかについて、自分なりの理解を示したいところである。
ここでは、世界の本質が、人間をも含むさまざまな自然の現象(または表象)を超えた〈意志〉であるのかどうか、また、「永遠の生」という言葉を信ずることができるかどうかは問わないことにする。ヘラクレイトス、ベルクソン、わが国では伊藤仁斎などに通ずる、一種の万物流転、生気論、活物主義的な宇宙観の一種と考えておいて大過ないだろう。
それはひとまず措くが、たしかに音楽の感動には、個体性、自他の区別、ケチなエゴの対立といった人間的・地上的なものを解消させ、なにかしら超越的・共同的な陶酔の境地に人を連れて行くモメントが深くはらまれている。それをディオニソス的な境地と呼ぶかどうかはともかくとして、問題は、音楽が人をそういう境地に連れて行くことを可能にしている条件は何かを指摘することである。(この節つづく)