天道公平の「社会的」参加

私の好奇心、心の琴線に触れる文学、哲学、社会問題、風俗もろもろを扱います。趣味はカラオケ、昭和歌謡です。

「聖徳太子」という尊称について(歴史教科書から「聖徳太子」を消させないためのパブコメ試案(皆さん急いでください))

2017-03-11 20:57:06 | 時事・風俗・情況
 いつもながら、私ごとき者の意見で強縮です。
 このたびの、文科省の暴挙に対し、友人たちと語らい、意見を表明します(小浜逸郎氏のブログ、「小浜逸郎・ことばの闘い」、「「聖徳太子」を「厩戸王」に!?」をまず読んでいただきたい。)。


 私は、歴史家ではありません。また、歴史研究を取り立てて趣味にするものでもありません。
 しかしながら、私の眼前で行われる、「歴史の改ざん」ついて、声も挙げず、座視することは、わが父祖にすまないという強い思いがあります。
 近くで申し上げれば、先の中共政府及びそれに組する韓国政府などの反日勢力、また、恥ずべくはわが国のバイアスのかかった左翼勢力の支援のもとに行われた、ユネスコ世界記憶遺産としてねつ造された「南京事件」の誤った採択、あるいは、バカ左翼新聞のミスリーディングに基づき反日韓国政府によって行われた歴史の改ざん、「従軍慰安婦」(どこに政府が女部屋経営に関与する国がある。)の問題など、まことに腹立たしい限りです。
 それは、われわれの「目の前で起こっている歴史」でさえ、現実的な政治権力や、権力者の意向、あるいは無責任で思いあがった大衆の不健康なルサンチマンによって、数を頼みに、作為的に「事実」はどうにでも変わるという、苦い認識なのです。

 私たちは、貴種としての、聖徳太子が、古代、その不遇にもめげず、皇位を望まず、天皇家の摂政として、仏法に基づき、日本国に、法秩序を打ち立て、「和をもって尊しとなす」こととして、部族間の政治闘争を排除し、国家の安定と、古代人民(?)大衆の民政の安定(現代で言えば、貧困の解消、生活の安心・安全)に努力を傾注したことは、「事実」として考えます。それは、まさしく「聖徳太子」として、大多数からの崇敬の対象となることは、当時の日本国(?)の政治レベルを考えれば、明らかなことであり、それ以降、近世、近代にいたるまで、長きにわたり、現在の言葉で言えば、住民大衆に強く支持された偉人であります。
 「事実・文献主義」の歴史家の方々が、「南京事件」の欺瞞性、でっち上げ「従軍慰安婦」問題を、今後、「事実」として、どのように記されるかは、私は知りませんが、日本国民の長所として挙げられる、「共存共栄」の思想、「察しと思いやり」の文化、他者を受け入れ、相互の寛容を貴ぶ日本国の文化の収斂するところは、「聖徳太子」に尽きるのではないでしょうか。その尊称には、ちゃんと、今でも国民に支持される根拠があるのです。
 かの賢く徳の高い古代の英雄「聖徳太子」が、古代帝国主義国家「隋」に対して送った国書、「日出国の天子が・・・・」、なんと胸がすく思いではないですか、例えば、現在の覇権国家、「中共」の軍国主義と膨張主義に対して、古代の「聖徳太子」はどのように叙するでしょうか。
 やはり、「厩戸王」では明らかに不足です。少なくとも、今後も、「聖徳太子」と必ず併記していただきたい。
 それが、わが日本国の長い歴史を通底する、「私たちの」誇るべき歴史です。

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