蒲田耕二の発言

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談志の『芝浜』

2021-11-22 | テレビ
立川談志の没後10周年だというので、十八番の演目を放送していた。どうにも興味が湧かない日本シリーズの中継を中座して、そっちを観た。

さすがに見事な芸だった。扇子をキセルに見立ててくわえる所作、目に見えない杯を手にとって口に運ぶ仕種、拾った大金に浮かれ、長屋仲間に大盤振る舞いして笑い惚ける酔態、いずれも迫真の芸だった。

亭主のためにカネを隠す女房を、賢いしっかり者というより小心でいじらしい亭主思いの女のように描いた造型もスジが通っている。

しかし観ていて、これって話芸なのかねと思った。

古今亭志ん生の高座を、オレは観たことがない。テレビでも観たことがない。知っているのは、放送録音だけだ。だから声だけ言葉だけしか知らないが、それでもあの人の口演では情景が見えた。長屋の連中がいかに苦労してタクアンを音がしないように噛むか、お茶で酔っぱらった振りをするかが目に見えた。

声も細くて甲高く、かすれているのに、ケンカの振りが本物のケンカになって一気に山場へとなだれ込んでいく迫力の凄まじさといったら、なかった。

目を瞑って談志の噺を聴いて、同じように情景が目に浮かぶだろうか。所作は役者のように上手いが、声はドラマを演じているだろうか。ラジオ時代の志ん生と、テレビ時代の談志の違いかも知れないが。

ただ、談志にも共感できる点はある。放送の前振りで出ていた志らくと神田伯山によると、談志は晩年、なるべくヘタに演じようとしていたそうだ。分かるなあ。

桂米朝とか圓生とか小さんとか、昭和の名人といわれた噺家がオレは軒並み嫌いだった。特に米朝が嫌いだった。端然とした噺し振りや落ち着いた佇まいから、大御所の権威がプンプン臭った。庶民の暮らしの猥雑さやホコリっぽさが、彼らの噺からは洗い落とされていた。落語家が庶民性を失ってどうする。

談志も自民党入りしたころから権威臭を放つようになったが(だから好きになれなかった)、本業の落語だけは庶民芸能の猥雑さを失うまいと心がけていたのではなかろうか。

伯山と志らくという、やはりあんまり好きになれない売れっ子タレントが談志の志をしっかり理解していればいいが。

レコードに続いてカセットも人気復活とか。そのうち、オープンリール・テープもリバイバルするかもね。引っ越しの際に、ほとんど捨ててしまったよ。チクショー。

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