邪馬台国論争に終止符! 邪馬台国は徳之島だった!
旅行時期 2012/05/16 - 2012/05/22 (2012/06/26投稿)
邪馬台国論争に終止符! 邪馬台国は徳之島だった!
『魏志倭人伝』に記されている卑弥呼の邪馬台国は、徳之島が有力という事で現地を視察し色々な実証をつかんできました。その後、竹取翁博物館に「邪馬台国論争に終止符! 邪馬台国は徳之島だった!」という特別展示をし館長自ら解説、「邪馬台国は徳之島だった!」という本(博物館のみで販売)も出版されています。
1.邪馬台国論争に終止符!
①『竹取物語』の不老不死薬と徐福伝説から邪馬台国を発見。物語に登場する宝貝と不老長寿薬から「徳之島」と推定! 魏志倭人伝の方位と距離など99%が一致。
②『魏志倭人伝』に記す邪馬台国は、方位&距離から九州より南の大海「徳之島」。昔から新井白石らが苦悩、畿内・九州説の議論続くが、帯方郡東南の大海の中の山島。
2.邪馬台国は「徳之島」だった!
①『魏志倭人伝』に記す「南水行十日陸行一月」は、真ん中に「又」が無く「投馬国から南へ水行十日(+)陸行一月」。年中温暖「海南島」と同じ気候、裸足で入墨、長寿の島。大和は100パーセント当てはまりません。九州は50パーセントしか当てはまりません。
②伊仙町で発掘された弥生時代のシャーマン(卑弥呼「ノロ・ユタ」)墓は、①『魏志倭人伝』と同様、棺あるが外箱の蓋無しの土葬「巳葬」である。上面縄の聖地である邪馬台国の前方後円墳は百余歩あり、山は丹(赤土)ある。
『魏志倭人伝』に記されている卑弥呼の邪馬台国は、徳之島が有力という事で現地を視察し色々な実証をつかんできました。その後、竹取翁博物館に「邪馬台国論争に終止符! 邪馬台国は徳之島だった!」という特別展示をし館長自ら解説、「邪馬台国は徳之島だった!」という本(博物館のみで販売)も出版されています。
1.邪馬台国論争に終止符!
①『竹取物語』の不老不死薬と徐福伝説から邪馬台国を発見。物語に登場する宝貝と不老長寿薬から「徳之島」と推定! 魏志倭人伝の方位と距離など99%が一致。
②『魏志倭人伝』に記す邪馬台国は、方位&距離から九州より南の大海「徳之島」。昔から新井白石らが苦悩、畿内・九州説の議論続くが、帯方郡東南の大海の中の山島。
2.邪馬台国は「徳之島」だった!
①『魏志倭人伝』に記す「南水行十日陸行一月」は、真ん中に「又」が無く「投馬国から南へ水行十日(+)陸行一月」。年中温暖「海南島」と同じ気候、裸足で入墨、長寿の島。大和は100パーセント当てはまりません。九州は50パーセントしか当てはまりません。
②伊仙町で発掘された弥生時代のシャーマン(卑弥呼「ノロ・ユタ」)墓は、①『魏志倭人伝』と同様、棺あるが外箱の蓋無しの土葬「巳葬」である。上面縄の聖地である邪馬台国の前方後円墳は百余歩あり、山は丹(赤土)ある。
③ 中国貨幣(宝貝)出土は徳之島との交易の証。中国の殷王朝時代から『竹取物語』の難題に出てくる「ツバクロの子安貝」が輸出され貨幣とされていた。
④戸森の舟の線刻画(鉄器で描いた神代文字)、千枚岩の不老不死薬、目に水晶をはめ込んだ徐福の坐像石は、徐福が紀元前260年ごろ最初に渡来し、その後400年後に邪馬台国・卑弥呼の王国を誕生させた。徐福又はその一行は、南西諸島を北上して九州・伊根・新宮・富士などに来ている。
■見学・取材等お問合せ『竹取翁博物館』館長 小泉芳孝。京都府京田辺市三山木直田10 0774-62-2522
■ここに掲載の写真および記事の無断転載を禁じます。
copyright(C)2006 Taketori no Okina YK. All rights reserved.
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写真 8枚
- テーマ:
- 歴史・文化・芸術
- 交通手段 :
-
- 現地移動 : レンタカー / JALグループ / 私鉄 / 徒歩
- エリアの満足度:
- 評価なし
-
『魏志倭人伝』に記されている卑弥呼は「巳葬」されたとあります。
徳之島には「巳葬」の風習があり、亡骸の足を55分、頭を25分に寝かせて埋葬されています。学者先生方には「巳葬」の風習が理解できないままになっているようです。
この風習は徐福渡来が西方のシルクロードから中国へともたらせた判明しています。徐福は中国浙江省寧波の港から真東に向けて船出し不老不死の徳之島を目指しています。宝貝商人が4千年の昔から中国へ宝貝を小船に積んで交易していた航海のルートだったのでしょう。
秦の始皇帝や徐福もこの徳之島海洋民族である宝貝商人の情報を昔から聞いていたのでしょう。120歳まで生きた泉重千代さんが「世界一の長寿」としてギネスブックに掲載され、また116歳まで生きた日本人最長寿本郷かまとさんもいて百歳を越えた人の多い長寿の島です。この蓬莱の島である倭国は、大陸の人達の憧れの国であり『史記』にも掲載されています。
徐福が日本にたどり着いた最初の島が徳之島なら、卑弥呼の邪馬台国が徳之島であっても不思議ではありません。
徐福集団の鉄の技術(遺跡発見)がありました。鉄で描く事の出来た「神代文字の含んだ線刻画」の存在や、徐福の古墳と思われるガジュマルの木が生える後円部の場所に石像も発見されています。弥生時代の女性(卑弥呼)が円墳又は洞窟に土葬の巳葬(魏志倭人伝にぴったり)で発掘されています。
2012年7月1日から上写真の「竹取翁博物館」で「邪馬台国論争に終止符!」展(邪馬台国の展示は日本初)を開催しています。場所‥京都府京田辺市三山木直田10 0774-62-2522 -
後漢書
秦の始皇帝、方士徐福を遣わし、童男女数千人を入海、蓬來神仙を求めしむも得ることをえず、徐福、誅さるることを畏れ、敢えて還らず、此の洲に止まる。世々相承けて教万家 有り。会稽東冶県の人、海に入り行きて風に遭い、流移してせんし亶洲に至る者有り。在る 所絶遠にして往来すべからず
戦前は、徐福研究をすると「不敬罪」でお縄になったようです。30年ほど前までは、マスコミでも報道することがタブーとされていました。現代は言論の自由がありますのでネットでは常識ですが、何故かいまだ国や学会では認められていません。認めてしまうと今までの先生方の説を葬り去ることとなりますので…。
年譜 [編集]中国の歴史書によると
建武中元二年(57年) - 倭奴国が金印を授与される。『後漢書』
永初元年(107年) - 倭国王の帥升が安帝に拝謁を願う。『後漢書』
倭国、男性を王とした七、八十年
桓帝と霊帝の間(146年 - 189年) - 倭国大乱。『後漢書』
光和年間(178年 - 184年) - 卑弥呼が共立され、倭を治め始める『梁書』
景初三年(239年) - 卑弥呼、初めて難升米らを中国の魏に派遣。 魏から 親魏倭王の仮の金印と銅鏡100枚を与えられる(『三国志』では同二年(23 8年))。
正始元年(240年) - 帯方郡から魏の使者が倭国を訪れ、詔書、印綬を奉 じて倭王に拝受させた。
正始四年(243年) - 倭王は大夫の伊聲耆、掖邪狗ら八人を復遣使として 魏に派遣、掖邪狗らは率善中郎将の印綬を受けた。
正始六年(245年) - 難升米に黄旗を仮授与(帯方郡に付託)。
正始八年(247年) - 倭は載斯、烏越らを帯方郡に派遣、援を請う。難升 米に詔書、黄旗を授与。
正始九年(248年) - またはその前後
卑弥呼が死に、墓が作られた。(『梁書』では正始年間(240年 - 249年) に卑弥呼死亡)
男の王が立つが、国が混乱し互いに誅殺しあい千人余が死んだ。
卑弥呼の宗女「壹與」を13歳で王に立てると国中が遂に鎮定した。
女王位についた壹與は掖邪狗ら20人に張政の帰還を送らせ、掖邪狗らはそ のまま都に向かい男女の生口30人と白珠5000孔、青大句珠2枚、異文の雑錦 20匹を貢いだ。
泰始元年(265年) - 倭の遣使が重ねて入貢。『晋書』邪馬台国からの最 後の入貢。
呼び名 [編集]『三国志』魏書東夷伝、『後漢書』の通称倭伝(『後漢書』 東夷傳)、『隋書』の通称倭国伝(『隋書』卷八十一 列傳第四十六 東夷 倭國)、『梁書』諸夷伝、『三国史記』新羅本紀では表記は「卑彌呼」、 『三国志』魏書 帝紀では「俾彌呼」と表記されている。
7世紀の頃に京田辺に住んでいた藤原不比等が書いた『記紀』に徐福は、完全に歴史から抹殺されてしまっていた。渡来人であることを伏せ、古代から藤原政権の一党一派を築く為に日本人であるかのように改竄されていたのです。故に、藤原不比等は古代史改竄の大罪を犯している事になり、聖徳太子が書いたとされる『17条の憲法』も藤原不比等らが作ったとされている。 -
「徐福さん」鳥羽一郎が歌う「徐福さん」紹介します。
世間には余りよく知られていない話があるものです。
有名な歌手が歌っているのに「徐福さん」の歌も知られていない、
私も最近まで知りませんでした。
星野哲郎作詩・中村典正作曲です。
1、まぼろしの まぼろしの 2、夢こそは 夢こそは
不老長寿の 薬を求め 若さ支える 天台烏薬
蓬莱目指して 船出した 三国無双は 那智の滝
3千人の 大ロマン 大空駆ける 龍に似て
一つに束ね 舵をとる 姿を何時も 仰ぐたび
徐福 徐福 徐福 徐福
徐福は秦の 夢男 徐福は胸に 蘇る
3、何よりも 何よりも
汗を流して 得る喜びが
天国なんだね 人の世の
木の香もゆかし日の本に
神倉建てて 幸を呼ぶ
徐福 徐福
徐福の後に 徐福なし -
写真は、徳之島で発掘された卑弥呼と見られる土葬「巳葬」のシャーマンです。
1.邪馬台国は「徳之島」だった!
伊仙町で発掘された弥生時代のシャーマン(卑弥呼)墓は、魏志倭人伝と同様、棺あるが外箱無しの土葬「巳葬」である。聖地の前方後円墳は百余歩あるが、ここからではなく洞窟(かつては円墳か)で発見され、姫ハブが卑弥呼を守っていたのです。何故なのかは、盗掘されないように円墳の洞窟へ、又は洗骨儀礼がありその時に前方後円墳から移動された、と思われます。
2.邪馬台国論争に終止符!
『魏志倭人伝』に記す邪馬台国は、方位&距離から九州より南の大海「徳之島」。昔から新井白石らが苦悩、畿内・九州説の議論続くが、帯方郡東南の大海の中の山島である。
『魏志倭人伝』に記されている卑弥呼の邪馬台国は、徳之島が有力という事で現地を視察し色々な実証をつかんだ。詳細は下記の竹取翁博物館へおいでください。 -
竹取翁博物館の小泉館長は、毛沢東が生きていた時代から中国に取材に行っていて中国の少数民族や遣唐使の関係で弘法大師・空海についても調べ世界50か国以上の民俗調査をされています。手前のドイツ製の16ミリ映画カメラで取材しているのが小泉館長です。(京の天安門前広場にて撮影)
館長は、『竹取物語』に出てくる「蓬莱山の不老不死薬」とも通じていて、そこらを調べているうちに、徳之島の徐福伝説につながり卑弥呼の「邪馬台国」との関係も見えてきたのです。
魏志倭人伝に記されている卑弥呼の邪馬台国は、何時か徳之島ということになるのではないかと現地を詳しく調査して歩き間違いないのではないかと自負してされています。
江戸時代から卑弥呼の邪馬台国説は、大和・九州説だと新聞や書物でマスコミ陣に取り上げられ論争が続いています。この為に突拍子もない説を突然述べても誰も信じて頂けないので「ネット」で公開することにされました。
■ここに掲載の写真および記事の無断転載を禁じます。
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写真は「卑弥呼の墓」と見られる所です。ここから20~30体の殉死が見られたようです。手前が後円部、奥の左後方が前方部で100余歩あります。しかし、近年になり手前の部分が削り取られ露出しています。ここからは殉葬と見られる遺骨が発掘されています。
邪馬台国の徳之島説は、東京大学の「九州説」と京都大学の「大和説」、それに「マスコミ説」と「大手出版説」という巨大な勢力と戦わねばなりません。先日もある全国紙の優秀な記者が『魏志倭人伝』を片手に持ち取材にこられましたが、江戸時代から続いてきた今までの成果? はどうするのか!? とか、実に判らないことを発して帰られました。これは記事に出来ないとまで!? 首をかしげておられました。 -
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【追記】 まだまだ、決定打は色々ありますが、博物館へお越し頂いての「楽しみとさせていただきたい」と館長自身が申しております。
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■取材等お問合せ『竹取翁博物館』館長 小泉芳孝。京都府京田辺市三山木直田10 0774-62-2522
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