先日、「人生のしめくくり」が内容の講座がありました。講座は2回あるので、1回目にお葬式を中心に話しました。2回目はお墓を中心に話すつもりです。
終わったあと、感想カードが配布され、感想を書いてもらいました。
早々にまつわる話は、この頃多くの本が出ているし、講座もありそうだと思っていましたが、わたしの話を聞きに来た人たちは、あまり聞いたことがない人たちでした。これには少し驚きました。関心があるのに、身近な問題となっているのに、自分から知ろうとしないことがわかります。年齢も関係するかもしれませんが、関心のあることを自分で調べることをあまりしない人がいるということです。その点は、わたしは違うと思います。関心があることはそのままにしておけないです。
講座の感想カードには、上記の感想がまず多く、驚いたのですが、切実な問題を書いてくださった方もおられます。墓の修復の問題です。修復することが問題ではなく、講座の最後の頃に「魂を入れる」「性根を入れる」「魂を抜く」「性根を抜く」ことをどう考えるのかを問題提起したからだと思います。
墓の修復が問題ではなく、「性根を抜かねばならないのか」という質問です。自分たち夫婦は簡略化したいと考えているけど、過去からの慣習があり、それがひっかかっているのです。なぜひっかかるかといえば、簡単なことですが、これまであたりまえにしてきたことだからです。「性根を抜く」のをあたりまえにしてきたけど、簡略化したいことがあるのは、お金もかからないようにしたいことが含まれています。「性根を抜く」のは、お坊さんを呼んでお布施を包まねばならないことはみんながあたりまえにやってきたことです。お布施がどのくらいか知りませんが、出したくないお金です。でも、「性根を抜く」のはあたりまえのことだったし、わたしが「ほんとうに必要なことでしょうか。宿題にしましょう。考えましょう」といったものですから、「もしかしたら、しなくてもよいのでは?」と思えたのでしょう。だから、この質問になったと思います。
わたしのいい方のどこかにしなくてもよいのを感じられたのでしょう。実際、わたしはしなくてもよいと思っているから、その感触があったのでしょう。
「魂を入れる・抜く」「性根を入れる・抜く」がいつから始まったものか、どうしてもわかりません。調べても出てこないのです。簡単なインターネットは、すでに行うことを前提に書いてあります。何を調べたらよいのか、仏教辞典にも載っていません。
わたしは必要がないと考えていますが、多くの人が納得する理由をどう説明してよいのかはむずかしいです。あたりまえになっていることへの問題提起のむずかしさです。
「性根」や「魂」をどう考えるかから始まるのでしょうか。目に見えないものを信じてきたのが、ある意味宗教の世界なので、それを信じ、あたりまえにしてきたのです。宗教が説く「真実」とはそういうものではないと思いますが、いざ説明するとなると、ほんとうにむずかしいです。
次回の講座で説明しようと思っていますが、どうなることやら?
終わったあと、感想カードが配布され、感想を書いてもらいました。
早々にまつわる話は、この頃多くの本が出ているし、講座もありそうだと思っていましたが、わたしの話を聞きに来た人たちは、あまり聞いたことがない人たちでした。これには少し驚きました。関心があるのに、身近な問題となっているのに、自分から知ろうとしないことがわかります。年齢も関係するかもしれませんが、関心のあることを自分で調べることをあまりしない人がいるということです。その点は、わたしは違うと思います。関心があることはそのままにしておけないです。
講座の感想カードには、上記の感想がまず多く、驚いたのですが、切実な問題を書いてくださった方もおられます。墓の修復の問題です。修復することが問題ではなく、講座の最後の頃に「魂を入れる」「性根を入れる」「魂を抜く」「性根を抜く」ことをどう考えるのかを問題提起したからだと思います。
墓の修復が問題ではなく、「性根を抜かねばならないのか」という質問です。自分たち夫婦は簡略化したいと考えているけど、過去からの慣習があり、それがひっかかっているのです。なぜひっかかるかといえば、簡単なことですが、これまであたりまえにしてきたことだからです。「性根を抜く」のをあたりまえにしてきたけど、簡略化したいことがあるのは、お金もかからないようにしたいことが含まれています。「性根を抜く」のは、お坊さんを呼んでお布施を包まねばならないことはみんながあたりまえにやってきたことです。お布施がどのくらいか知りませんが、出したくないお金です。でも、「性根を抜く」のはあたりまえのことだったし、わたしが「ほんとうに必要なことでしょうか。宿題にしましょう。考えましょう」といったものですから、「もしかしたら、しなくてもよいのでは?」と思えたのでしょう。だから、この質問になったと思います。
わたしのいい方のどこかにしなくてもよいのを感じられたのでしょう。実際、わたしはしなくてもよいと思っているから、その感触があったのでしょう。
「魂を入れる・抜く」「性根を入れる・抜く」がいつから始まったものか、どうしてもわかりません。調べても出てこないのです。簡単なインターネットは、すでに行うことを前提に書いてあります。何を調べたらよいのか、仏教辞典にも載っていません。
わたしは必要がないと考えていますが、多くの人が納得する理由をどう説明してよいのかはむずかしいです。あたりまえになっていることへの問題提起のむずかしさです。
「性根」や「魂」をどう考えるかから始まるのでしょうか。目に見えないものを信じてきたのが、ある意味宗教の世界なので、それを信じ、あたりまえにしてきたのです。宗教が説く「真実」とはそういうものではないと思いますが、いざ説明するとなると、ほんとうにむずかしいです。
次回の講座で説明しようと思っていますが、どうなることやら?