自分らしいお葬式やお墓を考えましょう。

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講座の感想カード

2020-11-18 15:34:46 | 日記
 先日、「人生のしめくくり」が内容の講座がありました。講座は2回あるので、1回目にお葬式を中心に話しました。2回目はお墓を中心に話すつもりです。
 終わったあと、感想カードが配布され、感想を書いてもらいました。
 早々にまつわる話は、この頃多くの本が出ているし、講座もありそうだと思っていましたが、わたしの話を聞きに来た人たちは、あまり聞いたことがない人たちでした。これには少し驚きました。関心があるのに、身近な問題となっているのに、自分から知ろうとしないことがわかります。年齢も関係するかもしれませんが、関心のあることを自分で調べることをあまりしない人がいるということです。その点は、わたしは違うと思います。関心があることはそのままにしておけないです。

 講座の感想カードには、上記の感想がまず多く、驚いたのですが、切実な問題を書いてくださった方もおられます。墓の修復の問題です。修復することが問題ではなく、講座の最後の頃に「魂を入れる」「性根を入れる」「魂を抜く」「性根を抜く」ことをどう考えるのかを問題提起したからだと思います。
 墓の修復が問題ではなく、「性根を抜かねばならないのか」という質問です。自分たち夫婦は簡略化したいと考えているけど、過去からの慣習があり、それがひっかかっているのです。なぜひっかかるかといえば、簡単なことですが、これまであたりまえにしてきたことだからです。「性根を抜く」のをあたりまえにしてきたけど、簡略化したいことがあるのは、お金もかからないようにしたいことが含まれています。「性根を抜く」のは、お坊さんを呼んでお布施を包まねばならないことはみんながあたりまえにやってきたことです。お布施がどのくらいか知りませんが、出したくないお金です。でも、「性根を抜く」のはあたりまえのことだったし、わたしが「ほんとうに必要なことでしょうか。宿題にしましょう。考えましょう」といったものですから、「もしかしたら、しなくてもよいのでは?」と思えたのでしょう。だから、この質問になったと思います。
 わたしのいい方のどこかにしなくてもよいのを感じられたのでしょう。実際、わたしはしなくてもよいと思っているから、その感触があったのでしょう。
 「魂を入れる・抜く」「性根を入れる・抜く」がいつから始まったものか、どうしてもわかりません。調べても出てこないのです。簡単なインターネットは、すでに行うことを前提に書いてあります。何を調べたらよいのか、仏教辞典にも載っていません。

 わたしは必要がないと考えていますが、多くの人が納得する理由をどう説明してよいのかはむずかしいです。あたりまえになっていることへの問題提起のむずかしさです。
 「性根」や「魂」をどう考えるかから始まるのでしょうか。目に見えないものを信じてきたのが、ある意味宗教の世界なので、それを信じ、あたりまえにしてきたのです。宗教が説く「真実」とはそういうものではないと思いますが、いざ説明するとなると、ほんとうにむずかしいです。
 次回の講座で説明しようと思っていますが、どうなることやら?
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「宅墓」の続き

2020-11-04 09:35:48 | 日記
 先回、「宅墓」を紹介しました。納骨の仕方の一種で新しいやり方です。お墓に間違いないけど、家におけるお墓という意味です。小さいので、墓地につくる墓と比較したら、数倍の値段の安さも売りです。
 当然流行りになるから、新聞が取り上げるのです。その記事を読んだ人も、これまで知らなかったことに気づき、いい考えだとしてある一定程度は増えていくでしょう。
 現在は、納骨の仕方がいろいろあるので、「タック墓」がものすごくはやっていくとは限らないでしょう。

 わたしがなぜ「宅墓」の続きを書きたいと思ったかについてですが、やはり、納骨にこだわる日本人の遺骨に対する考えを再度考えてみたかったからです。
 わたしは島根県の奥出雲というほんとに田舎の出身ですが、高校3年生のときに曾祖母が亡くなりました。1960年代、昭和でいえば、30年代後半です。まだ土葬があたりまえの地域でした。土葬を行えば、遺骨の心配などありませんでした。一年経つと、棺桶と遺体が朽ちていくので、そこで初めて土地をならし、墓石を安置するのです。だから、墓石が一つしかない墓では、遺体を母性の横に掘って遺体を埋めるのです。そのまま一年経って墓石を移動させる場合もあるのですが、その墓石の下にも遺骨があるので、そのままでもよかったのです。
 子どもの頃、土葬のために土を掘っていくと、遺骨が出てくるのを見に行くのです。近所の子といっしょなのですが、怖いもの見たさで、実際に白骨をみたら、「キャー」といって逃げ出したものです。遺体を埋めた後、「火の玉」というか、リンが燃えるのも何回もみました。
 
 そういう時代に遺骨は何も問題になりませんでした。遺骨について考えたこともなかった日本人です。
 都市部は遺体を焼くことが早くから、近代以降に始まりました。遺体を焼くと、遺骨が残るので、拾うことになったのです。それを墓に納めるのをあたりまえのことにしたのですが、その墓の作り方が近代以前と違ってきたのです。新しい墓地を買い求めねばならなくなった高度成長期以降の問題となったのです。都市へ集まった人たちが、家族を亡くすようになったとき、墓地がなかったのです。霊園などがつくられることと重なっていき亜mす。お墓をつくるのをあたりまえにしたのです。
 そのあたりまえが、管理ができない、後を見てくれる人がいないなどの理由によって、墓そのものが問題になってきました。
 それなら、再度、お墓をどう考えるは、ある程度定着したと思います。新たにつくることを由としない人が出てきました。
 それなら、「遺骨」についても、再度どう考えるかを考えるかの時期にきていると思います。どんな結論かを急ぐのではなく、議論が必要です。遺骨をどう考えるかの議論が行われているとは思えません。まずは、「宅墓」がよいという前に、遺骨をどう考えるかという議論から始めたらよいと思いますが、いかがでしょうか。「宅墓」だって最後の見る人が亡くなったときにどうするのかは、お墓と同様問題になってくるでしょう。
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