岩清水日記

「あしひきの岩間をつたふ苔水のかすかにわれはすみわたるかも」良寛

【妻】品子 石井十次 その十一

2005-02-20 06:13:12 | 石井十次
十次にとっても岡山孤児院とっても大切な人である。
品子について書いていきたい。

品子は十次と同じ年で同じ郷里の出身である。
結婚したのは16歳(1881年=明治14)だが当時は
あたり前だったのだろう。
今でいえば高校生である。当時でも成長途上の結婚
である。どのような新婚生活だったか。これから
調べていこうと思うが、結婚イコール同居ということ
でもなさそうである。

十次が岡山で医学生だった頃は、京都に機織の勉強に
行き、岡山に帰っても高梁の順正女学校に入学して
いる。1885年(明治18)のことである。
高梁には通学できないので当然下宿していたのだろう。
(鉄道はまだ開通していない)

品子が洗礼を受けるのは、この高梁の地である。
軍平が伝道に来る4年前のことである。
すでのこの地にも教会ができていたのだ。
岡山教会ができて5年目のことである。

では、品子はいつ岡山に戻ってきたのか、
実はこの辺りが手元の資料ではわからない。
高梁にどのくらいいたのだろう。
入学した年に、十次の金銭的を助けるために
戻ったということだが、十次が初めて孤児を
預かるのは、1887年(明治20)のこと。
その前から、すでに金銭的に行き詰まっていた
のだろうか。

十次は妻に教育を受けさせることに積極的だった
ことは確かだ。一人暮らしは不便だっただろうが、
品子の教育を優先したのだ。そして、金銭的にも
行き詰まり、品子の協力が欠かせなくなって彼女を
呼び戻したのではないだろうか。
ぜひ、経緯を調べたい。重要なことだと思う。
 
<岡山孤児院での品子>
1887年(明治20)に孤児教育会を立ち上げた当初から、
品子は、十次の大切なパートナーであった。

「孤児院を始めた当初は激しい体罰、せっかんを加える
こともあった。品子はそれを体を張ってかばった。
あかまみれで連れてこられた子どもを、ふろに連れて
入り洗ってやった。面倒見は実にこまやかで親身
だった」※

名実ともに「院のお母さん」として奮闘の日々だった。

その多忙の日々の間に、待ちに待った子どもが誕生する。
16歳で結婚して9年の歳月がたっていた。

1990年(明治23)長女 友子 誕生
1992年(明治25)次女 震子 誕生
1995年(明治28)三女 基和子 誕生

この3人の誕生と養育。数百人の孤児たち。
品子の多忙な日々がわかるようである。

しかし、品子の人生はそう残されていなかった。

※「岡山孤児院物語」石井十次の足跡 山陽新聞社刊
☆岡山行きで資料がかなり集ったので後日書き足します。

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