今日の毎日新聞夕刊に松永伍一さんを悼む文章が
掲載されていた(森崎和江さん寄稿)。
私は、長い間、松永さんを心の中に置かしてもらっていたように
思う。
松永さんは多作な方なのだが、私はまったく不誠実な読者だった。
しかし、1984年に中公新書から出された、「ペテロ岐部」一作で
徹底的に打ちのめされた。
この強烈な一撃は、今でも私の大切な骨の一部であるといっていい。
その本を本棚の奥に探したのだが見つからない。
代わりに見つけたのは、「銃と十字架」。
遠藤周作さんの本だった。同じく、「ペテロ岐部」について書いている。
こちらは、中公文庫(昭和57年発行)だ。
この本のあとがきに、遠藤さんが、「ペテロ岐部」を知ったのは
昭和40年頃となっている。
すなわち、1965年頃に日本人は、「ペテロ岐部」という人物を再発見した
ことになる。もちろん、逆輸入である。
この「ペテロ岐部」を日本人は、外国の人から教えてもらった。
今や、多くの方がこの江戸初期の日本人宣教師を知っているだろう。
日本を追放され、アジアを渡り、陸路砂漠を超え、日本人として初めて
聖地エルサレムを訪れ、3年余りの旅の後、ローマにたどり着く。
かの地で3年間の勉学の後、司祭となり、1623年海路日本を目指す。
1623年といえば、日本はすでに鎖国しており、もちろんキリスト教は
禁教である。
日本でのキリスト教徒の迫害は、世界キリシタン殉教史の中でも特別視されて
おり、当時の宣教師達の日本国潜入は、すなわち殉教を意味した。
しかしながら、日本の役人は簡単には殉教させない。
「転び」から「信徒の白状」を目的とした拷問は、過酷を極め、
国外から潜入を試みる宣教師達を震撼せしめた。
(この時の殉教史は、明治初期に来日する宣教師にも語り継がれていた。
日本に対する布教の意気込みが知れる)
「ペテロ岐部」とて、日本潜入を悩みぬいたと言われる。
殉教が恐ろしいのではない。
拷問の末、意識もうろうとして、「転び」から「信徒の白状」しないかという
悩みである。
日本潜入を前に一度は方向転換しアユタヤに戻っている。
そして2年の後、心を決めた「ペテロ岐部」は、鹿児島坊津に上陸、
長崎を経て、東北まで潜伏の旅を続ける。
キリスト教禁制下、信徒達を励ます旅だったといわれる。
入国から9年後、東北で3人の司祭の一人として逮捕される。
江戸に運ばれ、幕府による尋問を受けるが屈せず、最後に「穴吊り」という
恐ろしい拷問を受けることになった。
汚物の入った穴に逆さに吊られるという拷問である。
想像を絶する苦難が待ち受けていることは、彼らには知らされていた。
拷問の目的は、苦しめたり殺したりすることではない。
「転び」「仲間を売る」ことである。
この苦難の中で、二人の司祭は、棄教し、仲間を売った。
この苦難にも耐えた「ペテロ岐部」は、次に火あぶりの拷問にかけられた。
それでも、「転び」「仲間を売る」ことなくついに息絶えた。
1639年のことである。日本を追放されてから25年。
再び、日本を目指してから16年が経っていた。
本当に長い長い旅だった。
この事実をどのように考えるかは、私たち自身の問題である。
信仰を守ったもの、信仰を捨てざるをえなかったもの。
彼らを分け隔ててはならないと遠藤周作さんはいう。
さて、25年前に読んだ松永伍一さんの結論はどうだったかの。
これが事実の衝撃だけが心に深く刻まれて覚えていないのだ。
もう一度、本棚の奥を覗かなくてはならない。
掲載されていた(森崎和江さん寄稿)。
私は、長い間、松永さんを心の中に置かしてもらっていたように
思う。
松永さんは多作な方なのだが、私はまったく不誠実な読者だった。
しかし、1984年に中公新書から出された、「ペテロ岐部」一作で
徹底的に打ちのめされた。
この強烈な一撃は、今でも私の大切な骨の一部であるといっていい。
その本を本棚の奥に探したのだが見つからない。
代わりに見つけたのは、「銃と十字架」。
遠藤周作さんの本だった。同じく、「ペテロ岐部」について書いている。
こちらは、中公文庫(昭和57年発行)だ。
この本のあとがきに、遠藤さんが、「ペテロ岐部」を知ったのは
昭和40年頃となっている。
すなわち、1965年頃に日本人は、「ペテロ岐部」という人物を再発見した
ことになる。もちろん、逆輸入である。
この「ペテロ岐部」を日本人は、外国の人から教えてもらった。
今や、多くの方がこの江戸初期の日本人宣教師を知っているだろう。
日本を追放され、アジアを渡り、陸路砂漠を超え、日本人として初めて
聖地エルサレムを訪れ、3年余りの旅の後、ローマにたどり着く。
かの地で3年間の勉学の後、司祭となり、1623年海路日本を目指す。
1623年といえば、日本はすでに鎖国しており、もちろんキリスト教は
禁教である。
日本でのキリスト教徒の迫害は、世界キリシタン殉教史の中でも特別視されて
おり、当時の宣教師達の日本国潜入は、すなわち殉教を意味した。
しかしながら、日本の役人は簡単には殉教させない。
「転び」から「信徒の白状」を目的とした拷問は、過酷を極め、
国外から潜入を試みる宣教師達を震撼せしめた。
(この時の殉教史は、明治初期に来日する宣教師にも語り継がれていた。
日本に対する布教の意気込みが知れる)
「ペテロ岐部」とて、日本潜入を悩みぬいたと言われる。
殉教が恐ろしいのではない。
拷問の末、意識もうろうとして、「転び」から「信徒の白状」しないかという
悩みである。
日本潜入を前に一度は方向転換しアユタヤに戻っている。
そして2年の後、心を決めた「ペテロ岐部」は、鹿児島坊津に上陸、
長崎を経て、東北まで潜伏の旅を続ける。
キリスト教禁制下、信徒達を励ます旅だったといわれる。
入国から9年後、東北で3人の司祭の一人として逮捕される。
江戸に運ばれ、幕府による尋問を受けるが屈せず、最後に「穴吊り」という
恐ろしい拷問を受けることになった。
汚物の入った穴に逆さに吊られるという拷問である。
想像を絶する苦難が待ち受けていることは、彼らには知らされていた。
拷問の目的は、苦しめたり殺したりすることではない。
「転び」「仲間を売る」ことである。
この苦難の中で、二人の司祭は、棄教し、仲間を売った。
この苦難にも耐えた「ペテロ岐部」は、次に火あぶりの拷問にかけられた。
それでも、「転び」「仲間を売る」ことなくついに息絶えた。
1639年のことである。日本を追放されてから25年。
再び、日本を目指してから16年が経っていた。
本当に長い長い旅だった。
この事実をどのように考えるかは、私たち自身の問題である。
信仰を守ったもの、信仰を捨てざるをえなかったもの。
彼らを分け隔ててはならないと遠藤周作さんはいう。
さて、25年前に読んだ松永伍一さんの結論はどうだったかの。
これが事実の衝撃だけが心に深く刻まれて覚えていないのだ。
もう一度、本棚の奥を覗かなくてはならない。