[画像]参議院農林水産委員会を傍聴する、筆者の宮崎信行=川崎稔参院議員の肩の後ろの赤いリボンをつけた人物、2011年8月4日、参議院インターネット審議中継からキャプチャ。
ありがとうございます。
きょう、2011年8月4日(木)、「国会傍聴記by下町の太陽・宮崎信行」は開設から4周年を迎え、5年目に入りました。
これもひとえに、当ブログの読者のみなさま、関係者のみなさまのおかげです。心より感謝申し上げます。
で、この国会傍聴記は基本的には、インターネット傍聴をしたノートを元に、自分なりに切り取ってエントリーにしているわけですが、衆参の本会議も委員会も現地で傍聴しているときもあります。基本的には召集日などに新しい院の構成のイメージをアタマに入れておいて、ネットで審議と、議場の雰囲気も想像も含めて立体的に再現させながら、書いています。
ところが、このところ、参院の分館で開かれる委員会を現地で傍聴しておらず、どうしても、一般傍聴人の入り口(ロッカーやボディチェック)がどうなっていたか、思い出せない。これはいけない、ときょうは、参議院分館の第32委員会室で開かれた参議院農林水産委員会を現地でみっちり傍聴しました。なぜ農水委かというと、イチバン小さい20人委員会(参院の内閣委、法務委、文教科学委、農水委、環境委、国会基本政策委、このほか10人の懲罰委もある=参議院規則第74条参照)ということで、記念の日に初心を思い起こさせていただきました。ちなみに、きょうは20人全員出席(途中で委員のさしかえ、一事退室はあり)で、とっても良かったです。で、なぜ入り口を忘れていたかというと、衆院分館の傍聴人入り口は衆院別館にあるのに対して、参院分館の傍聴人入り口は参院分館の中にあったから。なんのこっちゃと思われるでしょうが、これは大事なことです。これを知れただけでも良かった。学びて時に之を習うまた喜ばしからずや。また、きょうは初めて、委員長(主浜了さん)が私の傍聴申込用紙にサインしてくれるのを直に見ました。きょうは審議中にも何人か一般傍聴に訪れた人もいて、質疑中や答弁中に、委員長席の後ろから参院事務局の職員が渡して、委員長がサラサラと万年筆でサインしていました。けっこう大変なんだなあと思いました。
きょうの委員会では、野党時代からずっと書いている、農業者戸別所得補償も議題になりました。自民党参院議員で元JA全農専務理事の山田俊男さんが登場。答弁席には、野党時代に所得補償をつくった、鹿野道彦ネクスト農相と篠原孝ネクスト農水副大臣が、リアル大臣・副大臣として着席。山田さんの所得補償攻撃は質疑を聞く度に弱くなっていて、きょうは「最近は、農家の方から、『山田さんねえ、戸別所得補償は(自民党が歳出削減を求めている)バラマキ4kに入れないで(存続させて)ください』と言われています」「戸別所得補償のために、“担い手育成”、“農地の基盤整備”の予算が減らされているんですよ~~と説明するんだけど・・・なかなか厳しいんだよなあ」とかなり苦しくなってきました。篠原副大臣もこれに先立つ答弁の中で、「戸別所得補償は一面では生産調整に参加するという(しばりも)あるが、地方分権を吹っ飛ばして、農民主権、農民分権ではないかと自負しています」と2008年9月20日付当ブログエントリーでのお得意のフレーズが聞けました。やはり政権交代は野党時代が大事です。とはいえ、山田さんの「初年度となった昨年は、米価の変動(下落)を補てんしただけに終わったのではないか」との指摘には、政務三役も「検証すべきだ」ということになりました。その反面、「昨年の価格決定には公平性がなかったのではないか」と篠原さんも応酬。ぜひ、山田さんには、次の選挙まで、しっかりと持論を展開してくれれば、与党・民主党政権の理論も裏打ちされるし、政権交代した場合は、自民党農政がスムーズに進むでしょう。農業者無視の「ネコの目農政」から脱却できれば、民主党か自民党かというのは道具にすぎません。
それから、日本共産党の紙智子さんの質問を虚心坦懐に聞いている自分が居て、その辺は少し成長できたのかなと言う気もしました。
ただ、ちょっと参議院は閉鎖的ですかね(^^;) もっと参議院の委員会を一般傍聴する人が増えてくれると、だいぶ雰囲気も変わってくるのかなと思います。また、参議院は理事会を国会内ケーブルテレビで中継していますから、先がけて理事会のネット中継もしちゃえば、面白いのではないでしょうか。
委員会傍聴を終えて、ロッカーからケータイを取り出し、電源を入れると、自民党がちまちま抵抗していた子どもの手当について、民自公3党幹事長・政調会長合意が成立というグッドニュースも入ってきて、なかなかハッピーな一日でした。
[写真]夏の入道雲に映える国会議事堂、2011年8月4日、宮崎信行が国会正門外から撮影。
ちなみに、国会議事堂も前回の衆院選の間に、水滴を吹き付けてブラッシングする作業をしたので、以前とくらべて、とてもきれいな色にかわっています。国会の中の審議も同様に、審議拒否や強行採決も少なくなり、磨きがかかっている気がします。
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2007年8月4日付の初エントリーは「臨時国会開幕! 江田五月(民主)議長が誕生」というものでした。
日経政治部記者としてできなかった「国会審議を聞いて、記事にする」という「国会傍聴記」。そして、政治というのは流れがあり、国会は、委員会→本会議、衆議院→参議院という流れがあるので、ブログという形態で「日めくり式」に国会を終えるようにすれば、既存マスコミと違った政治が見えてくるのではないかと考えました。
2002年10月~2005年9月までは日本経済新聞編集局長付として、1日も出社することなく自宅療養していました。その間に、第44回衆院選があり、新生党時代から羽田孜さんと同様に応援してきた岡田克也さんが反対党のシャドウ首相として衆院選にのぞむということで、ベッドからテレビ越しに「これで日本もよくなるし僕も立ち直れる」と思っていたら、9月11日大惨敗。「日本はどうなってしまうんだろう」と茫然自失としながら、9月19日、今度は私が休職期間満了で日経新聞を退職しました。その後も、自宅療養をしながら、だんだんと美術鑑賞、音楽鑑賞、プール、飛行機を使った旅行などにでかけるようになりました。2007年の4月に早大の同級生の石川知裕さんが衆議院議員に当選したので、久しぶりに議員会館に入りました。その後、第21回参院選があり、2007年7月25日には富山に飛び、首相の自民党総裁、安倍晋三さんの演説と、民主党代表の小沢一郎さんの演説を聞きました。帰りの飛行機は、安倍総裁と一緒でしたが、私は同29日、この選挙の議席数を完全に当てることができました。ところが、それを発表する媒体がない。というわけで、「ブログのはじめ方」などの本を大量に読んで、当初は「FC2ブログ」で開設しようとしたのですが、最終判断でNTTレゾナント社の「gooブログ」に開設することに考えを改め、2007年8月4日の第168回臨時国会召集日にあわせて、ブログを始めました。とくにねじれ国会になったことで、複雑な分、日めくり式の国会傍聴記は分かりやすいのではないかと思いました。なお、このとき、日本だけでなく、アメリカとイギリスのブログを必死に見回しましたが、今にいたるまで「国会傍聴記」というブログは、私のブログしかないようです。というわけで、第1人者だと自負しております。
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ブログ初日は、時間を間違えて、「逆転の夏チルドレン」の初登院の取材ができず。このとき、なぜか落選した候補者まで初登院していてスポーツ新聞さんが取材していたのですが、カバンの中にカメラを忘れてしまい、あわてて傍聴受付に行ったら、参院本会議の先着順30人が埋まってしまい、現地で見られず帰宅して、ネット傍聴するというドタバタでした。
さらに苦難は続き、臨時国会は院の構成だけを決めてすぐに閉幕してしまいました。そして、満を持して、第169臨時国会の開幕を迎えましたが、すぐに安倍首相が辞任してしまい、総裁選挙という自民党の内輪の話になってしまいました。日々、資料を見たり、ほとんどがマスコミフルオープンだった野党時代の民主党の政調部門会議に出席したりして時間を過ごしました。その後、第169臨時国会では「法案の嵐作戦」ということで、参議院から議員立法が続々と審議入りし、可決しました。私はマニフェストを読んだり、法案を読んだりしていたので、記事が書けるわけですが、大新聞は「民主党が提出した農業者戸別所得補償法案が●日の参院本会議で可決し、衆院に送られた。衆院では与党が過半数を占めるため、否決される。」とだけ報じました。これはハッキリ言えば、新聞記者が法案を読んでいないし、民主党マニフェストが比較的複雑であること(戸別所得補償なら生産価格と販売価格の調整うんぬん)から、内容を書けなかったんだと思います。自分も社員記者時代に、野党提出の法案を読む時間はなかったです。
そういった、イメージ・ギャップあるいはリップマン・ギャップ(TVなどでできあがった民主党のイメージと、国会内での実際の姿の実像のひずみ・ギャップ)の隙を突くという作業をひたすら続けていたのが、政権交代するまでの2年間のこのブログです。そしてそのリップマン・ギャップの隙を突く最大の好機は、ブログ開設初年の月末に来て、第168臨時国会中でしたが、「第15回長城計画および第1回(日中)交流協議機構」による訪中団に参加したことです。民主党国際室に電話して、現地からのブログ更新は可能だという確認をもらい、訪中記を書きました。日本国内では「国会開会中に議員140人で出張とは何事だ」という論調と、民間放送局のリポートは「野党外交の限界を見せました」という内容でした。ちなみにそうでなければ「二元外交なのですが」。この報道と私のブログの内容が違うということで、当時開いていたコメント欄に通信社電を貼り付けて、違うよ、という趣旨のことを書いた人もいますが、こういったことについては、私も意地がありますから、私は私が書いていることが正しいと思って書きました。睡眠時間2時間で胡錦涛さんと集合写真を撮ったのはきつかったし、自由時間をすべてブログ執筆にあて、北京の街を一人歩きすることはついにできないという代償を払ってまでブログを更新したところ、1000IP、4000PVまで増えることができ、軌道に載りました。
2008年になると、国会傍聴記だけでなく、政権交代に向けた選挙情報も充実させ、車の両輪のようになりました。2008年の10月の麻生さんの解散先送りに関しては、私は「解散するもの」だとばかり思って、断定的に書いてしまったのですが、このころになると、民主党内の協力者も増えてきて、「いやあれは違うだろう」という情報が入り、ギリギリのところで軌道修正するようなこともできました。この辺もブログの特性ですが、双方向とは言え、ブログは情報を発信するものであって、情報を受け取るには、やはり実際に会ってみないとダメだと思います。そもそも、私はけっこういい加減な性格なのですが、「きまじめな性格を心配しています」というコメントが書かれたりして、「あれ知り合いなのかなあ」と気持ち悪い思いをすることも増えてきました。
2009年になると、第171通常国会で、選挙対策上ハッキリとは書きませんでしたが、「民主党が野党として与党を攻撃する国会は当面最後になる」との認識が強くなり、2月の衆院予算委員会での民主党議員の質疑は、基本的質疑、集中審議に限らず、テレビが入らず記者の取材もほとんどない一般的質疑も含めて、すべて(ネットも含めて)傍聴するパーフェクト傍聴の目標を達して、ヘロヘロになりました。
自信がついて3月は参院審議は失礼し、天下分け目の第45回衆院選まで任期満了半年となったの、3月から地方行脚で、当選前の総支部長の活動を手伝ったり、ブログで宣伝しようと楽しくプランニングしていました。そこに、暗黒のひな祭りがやってきました。2009年3月3日の西松事件です。私はこれについては、この時期のシャドウ首相への法務省の介入はのぞましくないとの一点で、「国策捜査」だと断じました。そして、マスコミ報道とのギャップの中で、自民党長期政権の中で、隠蔽されてきたことにやっと気付いた人が出てきて、私はこの反動を政権交代につなげられると確信しました。また、私は事件記者の経験がまったくないので、あまり触れたくなかったのですが、西松事件の報道が出てからわずか60時間後には、新聞の「政府高官が与党である自民党には捜査が及ばないとの認識を示した」との報道でこの政府高官とは前警察庁長官である内閣官房副長官だと暴露して、おおきく捜査とそれをめぐる報道、国会審議、世論を変えることができました。これがなければ小沢さんは逮捕されていたかもしれません。
3月の地方行脚計画は西松事件で台無しにされましたが、ゴールデンウィークになってようやく行けるようになりました。大学生以来、久しぶりに(後援会の増強活動としての)戸別訪問を1日200軒したり、スポット演説ごとにビラを投げ込み、いろいろな人のご意見を総支部長の隣りでうかがったりして勉強になりました。ころが、好事魔多しで、旧自由党の支持者とおぼしきブロガーから「彼は知り合いの知り合いだ」「今度会ったら注意する」というわけの分からない攻撃が彼のブログなり、私のブログのコメント欄に来ました。東京では友人の友人は他人であり、知り合いの知り合いなどまったくの他人です。その「地上げ屋」と名乗りブロガーから「知り合いだ」「直接注意する」という極めて気味の悪い書き込みに対して、旅先でネット接続環境が悪かったこともあり、帰京後、直接表現に対する対処のコメントを送りましたが、今度は私のことを「(笑)がい者」と揶揄するコメント返しをうけました。ホントウにこの「(笑)がい者」という表現だけは許せません。この6日後、5月7日付で「しばらく更新休みます」というエントリーを掲載するに至りました。ところが、その4日後に、小沢代表が辞任し、5月11日付で号外エントリー(「号外)小沢代表が辞任 テレビ血盟団に撃たれても「男子の本懐」」)をカキ、さらにその2日後の5月13日には岡田副代表が立候補を表明するということで、特報エントリー(【動画】「日本のリーダーになる」岡田克也さんが民主党代表に名乗り、あの日と同じ澄んだ瞳で)を書くという事態になりました。更新を休んでられない状態になります。ちなみに、私は羽田孜・民主党初代幹事長が特別代表に祭り上げられてしまった後、総理をやってほしい政治家は岡田克也さんだけで、属人的には父に似ている渡辺美智雄さんもいましたが、それを含めても、総理になってほしい政治家は羽田再登板を含めても3人だけでした。ただ、岡田副代表が「kill the time (充電)」していることに気付いたので、この時点まで、まったく岡田さんはあくまでも民主党の執行部外だけど有力議員だということでこのブログで時々取り上げる程度だったのが、思わぬ本命の登場に、「民主党の社長にふさわしいのは鳩山さんかもしれないが、(3ヶ月以内にある総選挙で民主党が第1党になった場合の)日本の首相にふさわしいの断固、岡田克也さんだ」と主張して、猛ダッシュして、ほとんど肉離れ状態の中、岡田さんは負けてしまいました。さらに私が長年の岡田さんの支持者であることを書いていなかったことから説明不足になり、ブログ読者から不信感を招くことになりました。
このとき、鳩山陣営の60歳代の人から、「あんたなんでブログ更新停止しちゃったの。あんた力があるんだから、だれに何を言われても続けなさいよ」と言われて、続けようと思いました。ところが、このときは、当時「にほんブログ村人気ブログランキング」に参加していて、「政治部門」で2位だったのですが、岡田さんを応援したとたんに、ランキングにクリックが激減するという事態に陥りました。いかにも日本的な、村社会、陰湿な世界です。ブログの文字数では英語を100とすると、日本語は80であり、日本語はブログ界の準公用語です。すなわち日本社会がモノを言いづらい閉鎖的な社会だから、かえってブログが栄えるのだと思うのですが、そのブログ社会まで陰湿なわけで、ブログランキングは退会し、現在に至ります。おそらく長年テレビジョンに親しんだ地方の高齢者が政治ブログを見ているので、こういうことになるのではないか、と思うのですが、私には極めて不思議な事象であり、このできごとの社会心理はいまだに私の中で分析できていません。
そして、7月21日に衆議院解散。この日の衆議院本会議場での一般傍聴は、立ちくらみがしそうでした。そして、総選挙では全国をまわりました。「8月30日の午後7時でブログ更新を止めます」ということを一度はアナウンスしましたが、これは、徹底的に条文、判例、事例を研究していたという自信がありましたが、公職選挙法を尊重しているということを、警察当局にメッセージとして発していたという意味合いも、実はあります。
政権交代。与党側からの国会傍聴記というのはなかなか苦労しました。とくに、官邸や政務三役の動きは国会での答弁でしかなく、試行錯誤の連続でした。
10月23日からはレジまぐ社提供の有料ブログを立ち上げました。実はこの時点で、こちらのブログの過去のエントリーはすべて移し替えてあり、公開のタイミングを待つばかりだったんです(現在にいたるまで未公開)。しかし、有料ブログの方の操作が不慣れで、コメント欄があることに気付いていないまま、当時話題になっていた、内閣官房の報償費、通称・官房機密費について、自分の経験からすると、あれは報償費から出ていたんだろうなという記事を書きました。これについて、かなり後で気付いたのですが、「たかりだ」というおそらく女性の書き込みがありました。また、おそらく年配の男性から「この内容じゃ月840円は払えないねえ」という書き込みがありました。報償費に関しては、これは文章を読めば、社会儀礼上、その場で拒否することはできないものだと分かりそうなものですが、インターネットの社会というのは、私や私の両親、親戚のような人ばかりのものではないことが分かりました。精神的に相当きつくなり、登録者全員に退会してもらうよう呼びかけました(契約上の更新回数を守る必要がなくなるとの考え)が、私と比較的境遇が近い「しっくい」さん(実際にお会いしたこともあり、本名のお名刺も持っております)の助けで、「今後の政治日程by下町の太陽・宮崎信行」ということで、政治日程に特化した有料ブログとして、今日まで続けることができました。
2010年になると、9月に岡田克也外相が幹事長になるという幸運もあり、国会運営の疑問点があると、国会審議がない日なら、幹事長会見に出かけて、直接岡田さんに質問できるようになりました。
2011年3月11日には、東北太平洋沖地震があり、放射能災害に関して、私も情報が入らない状態になりましたが、このときもしっくいさんから「情報発信を続けてください」との電子メールをもらい、続けることができました。
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「ねじれ→政権交代→再ねじれ」の4年間ということですが、衆院の任期が残り2年、参院の半数改選も2年、さらに今国会中の民主党代表選はない見通しとなってきましたがら、当分落ち着いて、国会傍聴ができそうです。その間に、国会審議の活性化があり、野党提出の議員立法が成立し、公布されるなど、国会は大きく進歩してきました。そして、「西松事件と特捜部」「日本航空と政府の癒着」「東京電力と政府の癒着」に加えて、「マスコミ報道が与党偏重である」ということなど、やっと国民が理解するようになって、ハッキリ言って遅いのですが、多少なりとも日本も良くなってきたと思います。
あとは、できれば、私としては、新進党解党を小沢一郎さんが謝罪し、新進党員経験者から第1号の総理が出て欲しい、そして、公明党に一つの党とは言いませんが、新進党の志にもとづく、「政党連合」とか「閣外協力」のようなかっこうで、国政と自治体の、とくに財政構造を一体改革してくれたらいいと思います。とにもかくにも、たまに私が岡田さんに総理になってもらいたいためにやっているように思う方も居られるようですが、そうではなく、すべては政権交代ある政治の完成が目的です。そして、マスコミももっと記者会見ではなく、国会内のヒラバの言葉を記事にして欲しいと思います。また、自民党、とくに国会外の支部長の記事も、出張旅費が使えるのですから、ドンドン書いてほしいと考えます。そして、なにより、新進党解党により絶望的な状態になった政権交代ある政治について、わずか2年間で、急速に理解してきた日本国民を評価したいと考えます。
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私が20歳、政治学科2年生、細川内閣のころ、大学の学生生活センターというところからもらった雑誌があります。季刊誌ですが、なぜかこの号だけ大事にとってあります。そして、当時感銘を受けた記事を十数年ぶりに読みかえしました。これは作家の原田宗典さんという人のインタビューで「(20歳のころの自分は)そうとう恥知らずの青年だったよね。その(当時自分が書いた)読書カードを見ると、三島由紀夫だとかドフトエフスキーをむこうにまわして、ガップリ四つに組もうとしてる(笑)。自分の方が上だと思って批評しているの。若さの恐ろしさっていうのは、そういうところだと思う。何にもわかってやしないのに、自分が一番だと思い込んでる。だからパワーがある。もし今、そういう二十歳の若者に出会ったら、ぼくはおそれを感じるだろうね」(早稲田大学学園誌『新鐘』1993年冬号(通巻49号)の76ページ)。
20歳のころ、僕がこの雑誌を保存用に書棚に入れていたのは、ありがとう、という気持ちです。やはり、僕は、このブログを日本国憲法前文にのっとり、有権者だ、国民だ、として自分が最高権力者だと考えて国会をウォッチしているから、書き続けられるし、一定のご支持もいただけるのだと思います。その「上から目線」をけっして忘れることなく、続けていきたいと思います。少なくとも第46回衆院選までは、このブログを続けることでしょう。
そういった「何にも分かっていないのに、自分がイチバンだと思い込んでいる」という若さの狂気を持ち続けられるか。ともすれば「けっこう国会のこと分かってきたから、後でビデオライブラリーでチェックすればオッケー(^_^)v」というたぐいの慢心を持ってやしないか。歳はとるものではなく、重ねるモノ。知らず知らずのうちに、自分を老いさせ、船出をしないシンドバッドになってやしないか。そういう初心を確認するために、きょうは、参議院の一番小さい委員会の一つを傍聴させていただいた次第です。「上から目線」には自信が必要です。
政権交代ある政治の完成に向けて、青春の志と澄んだ瞳そのままに、さあいよいよ、5年目に突入です!
会員制ブログ
「今後の政治日程 by 下町の太陽・宮崎信行」
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国政を理解し、自分の意見を反映させる上では、「日程感」をつかむことが大事です。「今後の政治日程 by 下町の太陽」では、今後予想される政治日程のうち、政局に影響を与えるものに絞って紹介していきます。ぜひご活用ください。