今日の産経新聞の 朝晴れエッセーに戦災に遭った方の
優しい女学生に感謝の気持ちが載っていました。
東京の下町から、千葉へそして熊本へ行く時の
事でした。さぞ皆さんご苦労なさったでしょう。
東京の小松川に住んでいた私たちは火に追われてなぜか
亀戸方面に逃げたのです。
橋を渡ったら大勢の人がこちらに走ってきます。
私たちは川に沿って逃げました。私は大勢の人が
風に追われて走っているように見えました。
馬が興奮して道をパカパカ走っていました。怖かった
我が家は両親姉3人私、隣のおばさんと小さな子ども達3人
父はリヤカーを引っ張り、18歳の姉が後ろを押しました。
自転車は、途中の神社においてきました。
途中橋を渡りました。橋の欄干が燃えていました。
橋を渡り終えたら、警防団の人が学校に案内してくれて
みんなぼーっとしていました。母はそこが船堀だと分かって
従姉の家の屋号を言いました。伯父さんが迎えに来てくれて
そこでお世話になりました。総勢10人無事でした。
渡った船堀橋は私たちが渡す達が渡った後焼け落ちたそうです。
間もなく隣のおばさんとサダオちゃん、良子ちゃん、トシ坊は
おばさんの実家の房総に行きました。
私たちは焼け残った空き家を借りることが出来てみんなで
住みました。そこでも毎日空襲でした。
艦載機が怖かった。凄い爆弾が落とされて、100年は草木が
生えないと聞かされました。そのうち敗戦。
それからが大変な生活でした。
両親は苦労したと思います。
でもいつも思うのは何故父は小松川橋という立派な橋を
渡らず、小さな橋を渡って亀戸に行ったのかです。
あの頃はそんなことを考えませんでした、母に聞いておけば良かった
と思います。
両親、長兄(ニューギニアで戦死)次兄(水兵)横須賀から無事復員
兄姉たちは皆仲良く旅だって、私一人になりました。
残った私は、朝夕お不動様、お釈迦様、靖国神社、にお祈りしています。
昨年は2月27日咲きましたが今年は3月10日に咲きました。
ヒヨドリが花を食べていました。
大変でしたね。
でも、橋が落ちる前に渡ることができて良かったです。
大きい橋だと敵機の標的になるから、敢えて小さい橋になさったのでしょうか?
戦争の体験を父や祖母から聞きました。
祖母はリヤカーを引っ張っているときに爆風が起き、川向こうまで飛ばされた、と話していました。
貴重な体験を次世代に伝えていかなければなりませんね。
次第であります。
その上で、本当の意味で我国の平和と安全を考える事
が、亡くなられた戦没及び戦災犠牲の各位への供養と
心得ます。
確かに、東京大空襲を含む「泥沼戦争」の繰り返しは
なりませんが、我国の独立と尊厳を護る為の 必要
な警察力、防衛力行使は意味が違い、しっかり区別
する心がけが必要と心得ます。
日本国憲法 9条といえど、必要な自衛力まで否定は
しないというのが定説です。我々日本人は、その辺
りもしっかりと見据える必要があると信じる者です。
お祖母さまはリヤカーと共に吹き飛ばされたのですか。
あの怖ろしい爆弾でしょうか。
父とは母はあの道を選んだことで言い争った様子が
なかったです。
とにかく10人が無事だったことが、何よりでした。
コメント有難うございます。
精神的にこんな丸裸状態で良いのでしょうか。気がかりでなりません。
田邊聖子さんが、
正義なき力は暴力、力なき正義は無効。とあるとき
仰っていました。
みんな目覚めて欲しいです。