昨日の続き。。
人間は、人生から問いかけられている。
人間の欲望は、限りがありません。
ああだったら、こうだったらと常に欲求を追い求めています。
それは、常に欲求不満の状態。
しかし、それも際限があります。
究極は、死にたくないとあがいても死ぬ。
これが不幸だと思うようなことに出会ったら、「なぜ自分がこんなことに。。」と、その運命を呪い嘆きます。
フランクルは、
人間の原点は、「人生から問われているもの」であるところにある。
したがって、人間にできること、しなくてはならないことは、人生の様々な状況に直面しながら、その都度その都度、状況から発せられてくる「問い」に、全力で答えていくことである。そうすることで自分の人生に与えられている「使命(ミッション)」を全うすることにある
といいます。
収容所の出来事。
そこでは自殺は、日常茶飯事で自殺をしようとしている人を助けてはいけないという決まりすらあった。
あるとき、フランクルのもとに、自殺を考えている二人の仲間が相談にきた。
フランクルは、その二人に向かって、言いました。
「あなたは、あなたを待っている誰かが、どこかに居ませんか。あるいは、あなたによって、実現しようとされていることを待たれている何かがありませんか。よく探してみてください。必ずあなたを必要としている誰か、あなたを必要としている何かがあるはずです。」
すると二人は考えました。
一人は、自分には、外国に子供が一人いる。その子は自分を待っているはずだ。自分が死ねが肉親はこの世ぬ誰もいなくなる。
もう一人は、自分は科学者で、書きかけの原稿がある。それを完成するまでは死ねない思いがある。
そして、自殺を思いとどまったのです。
人間は、自分の内部から湧いてくる意志の力で生きているような気がしますが、本質は、自分ではない誰か、自分ではない何かとのつながりによって生きる力を得ていることがあります。
幸福それ自体を追い求めるのをやめて、仕事にただ夢中になって没頭したり愛する人を心を込めて愛し続けていけば、結果として、おのずと幸福になってくるものだといいます。
他者からの、あるいは世の中からの問いかけにこたえようと、人が無心に何かに取り組んでいる時、その結果として、幸福や自己実現は自然と生じてくるものだと考えました。
私は、無我夢中で働き、人生を送ってきました。
今となっては、仕事に忙殺されていたとか思い、なんだったのか、何の意味があったのかと後悔するときがあります。
今、こういうことがあったんだ、こんな考えがあったんだなど学べば、また、そうで黄な方時間を思う時、一層悔しい思いになります。
しかし、他でもない自分自身が、患者さんに向き合い、学び、仲間と喜んだり悲しんだり、人を愛したり、その人生を送った事実は自分の中に残されています。
ピッチャーが、大きな目標をなし終えた時、よく「一球一球、夢中で投げただけです」なんていうのがありますが、本当にそうだなあと思います。
楽しいとか、苦しいとか、思うのも忘れて、ただ、夢中で投げる。
「無」みたいな感じです。
それの連続のような感じ。
そんなことの積み重ねが、人生なのでしょうか。
そして、人間は、そんな思いを自分の胸に抱いて、一人でこの世の生をまっとうしていくのでしょうか。
人生から問われていることに、夢中になって答えていく、「自分が、自分が」と、まるで自分の力だけで生きているようにだけ思わない。
その時、おのずと、幸せがやってくる。
夜と霧は、3.11の東日本大震災の後に、たくさん読まれたそうです。
その極限の状態は、収容所の状態と酷似していて、多くの人に希望を与えたと言われます。
正直私は、読むと具合が悪くもなります。
それほどの過酷さ。
人生は夢幻のようなもの。
傲慢な私は、今、やっと、少しずつ問われていることに応えていくことをしようと思えてきました。
諸富義彦著 フランクル 夜と霧 NHK出版 から、引用させていただきました。