旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

台南~安平古堡秘話

2020-02-17 11:31:15 | 台湾
《手造の旅》台湾五日~日本とのかかわりに注目して旅する 第二回 三日目
オランダの商館長ヌイツを捕え人質にして長崎に連れてゆくとは、濱田彌兵衞というのはかなり胆のすわった人物だったのだろう。
今は「安平古堡」と刻まれた石碑になっているが↓かつては濱田彌兵衛への顕彰碑だった↓※日本統治時代の大正13年に設置

大正時代に贈られた官位と共に刻まれている「贈従五位濱田彌兵衛武勇之趾」

館内の解説板では、濱田の行動について一行だけ言及してあった↓

オランダは1624年に膨湖島そして台南(当時は「大員」と表記されていた台南と周辺地域)を占領し、西欧流に10%の交易税を徴収しはじめた。オランダのやってくる以前から交易所を開いていた日本の商人たちはそれを拒否。濱田はせっかく持っていった高価な品を税としてとりあげられ、命がけの反撃にでた。
↓ヌイツが捕えられるところを描いた江戸時代の絵※ウィキの写真より

この事件は完全解決まで四年かかり、ヌイツは1636年まで長崎に留め置かれた。
解放されたきっかけは、後任の商館長フランソワ・カロンが江戸にきて将軍家光に拝謁した際に解放を願い出て許可されたとされている。
その際にオランダから贈られた葵の紋入り回転燈籠が日光東照宮にある↓
↓2010年に訪れた時に自分で撮影した写真を見つけた↓こんな話は全く知らずに撮っておりました。

↓燈籠の葵の紋が上下逆さになっているだがこれは意図的ないじわるかしらん?

説明板には1643年に贈られたとあるが、それでは年号が合わない…

カロンは七回も江戸に行っているし、贈られた年と奉納された年が同じともかぎらない。
…と考えていると、台湾のガイドさんから別の燈籠の写真が送られてきた
↓2015年に台湾からのグループを連れて訪問した時に撮影したそうだ

↓これは1636年と解説されている↓こちらの方がフランソワ・カロンが贈った灯籠だと推察される

日光東照宮には他にもオランダがもたらしたと思える燭台がある↓

↑こちらも2010年に小松が撮影したもの

**
オランダのゼーランディア要塞は1662年に鄭成功によって陥落し、鄭成功の故郷の街にちなんで「安平」と名付けられた。
オランダから鄭成功時代のレンガの壁が残されている↓オランダ時代三十八年、鄭成功時代も二十三年でしかなかった。

そこにはヨーロッパの家屋によく見られるウォールアンカーの跡が見られる↓

↓実際にここにはまっていたのだろう実物も展示されている

鄭政権を攻め滅ぼした清は引き続き水軍の基地として使用した。
その時代のものがこれ↓


★安平古堡の部屋の奥に壁いっぱいに飾られた巨大な絵が展示されていて、オランダ支配時代のもう一つの秘話を知った↓

↑1661年、4月4日、もうひとつのオランダ人の砦だったプロビンキア(現「赤崁楼」)が陥落。
※鄭成功は二万五千の兵で3月23日から二つの砦を包囲していた
囚えたキリスト教牧師のアントニウス・ハムロックをゼーランディア城に籠城するオランダ人に降伏を呼びかける使者にたてることにした。
ハムロックの三人の息子と妻は鄭成功に人質として捕えられていたが、
二人の娘はゼーランディア城の方にたてこもっていたからである。
注:プロテスタントの牧師は結婚できる
↑画かれたシーンはこう解説されている
「ゼーランディア城に入ったハムロックは降伏をよびかける代わりに徹底抗戦して援軍を待つことを勧めた。それは鄭成功のもとにもどれば確実に殺されることを意味している。ゼーランディア城にいる二人の娘は父にどうかもどらないように懇願した」
なるほど。と、いったんは納得して絵を見ていたが、帰国してから調べているとアムステルダム国立美術館が元絵と思われるものを所蔵しているのが分かった↓

二枚を見比べると、下の方が歴史的な事実をしっかりふまえているように見える。
だとすると、安平古堡にあったものは誰かが画きなおしたコピーだということになるが、人物を変えてしまっている。
不思議である。

さらに調べていくと、オランダ東インド会社の記録ではゼーランディア城の徹底抗戦を主張したのは最後の総督となるフレデリック・コイェットで、ハムロックはそのために刑死したことになっていた。
1776年の版画がウィキの頁にあった↓

↑黒い服を着ているのが牧師のハムロック
↑娘が跪いてお願いしているのがコイェット総督
同じ処刑される結果になるのならば、ハムロック牧師が徹底抗戦を呼びかけたことにした方が「オランダ人の勇気」を喧伝できる。
歴史は人々が「こうあったらより感動できるよね」という方向に悪意なく改竄されていくものなのだろう。

それは、この絵が1810年に(ヤン・ウィリアム・ピエネマンというオランダ人画家によって)画かれたと知ると、より納得できる。
1810年は、オランダという国がナポレオンによって消滅させられており、世界中でオランダ国旗がひるがえっていたのは出島だけだった時代にあたる。
「オランダ人の勇気」を画いて同胞を勇気づけたかったにちがいない。

次にアムステルダム国立美術館に行ったら、この絵のことを訊ねてみるとしよう



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