2017年12月の記事
輪違屋は元禄年間(1688~1704)の創建と伝える置屋で、島原では揚屋である角屋(重要文化財)と並び古い由緒を持っています。平面は、通りニワを南端にとってその北に居室を2列に並べ、通りニワは中戸・結界によって玄関土間、内玄関土間、台所土間に3分されます。居室は土間寄りを表から玄関、内玄関、台所とし、その後方の2室は大きく改造して現在は店舗となっており、さらに後方に仏間が配されています。2列目は板間と居間で、板間には一間幅の階段が付きます。この北西隅には座敷4室からなる客室棟が接続し、また北面には囲いが付きます。2階は傘の間、紅葉の間などの客室9室が配されています。傘の間は12畳で、南面に1間の床と2間の棚を構え、北及び東面の襖には傘が張り付けられています。また紅葉の間の土壁には、赤や黒の押し型の紅葉を散らしています。
この2室は当建築の中で最も凝った座敷となっています。平面構成は複雑ですが、大きくは1階南半分を占める居室部と、1階の北半分及び2階の各部屋で構成される客室部とに2分され、それぞれ動線を分けています。
建築年代については、安政4年(1857)に再建された後、明治4年(1871)に改造が加えられたと伝えます。事実、復原すれば当初は桁行14.8m、梁行10.7mで背面に通りニワが突出する規模となって、客室棟はなくなり、さらに板間の幅一間の階段や紅葉の間の後の改築によるものと判明します。
いっぽう、明治7年の祈祷札が残り、また明治4年8月の「町中絵図」(当家所蔵)に描かれている建物の外形が現況に近いことから、このときにはほぼ現在の姿になっていたことがうがわれます。したがって、客室棟等の増築時期は材の古さなどから見て明治4年をあまり遡らない時期、おそらく明治時代初年で、板間の階段や紅葉の間もおそらくこれと同時期に改築されたものと思われます。輪違屋は、古い置屋の遺構として貴重であり、建築的にも質が高く、その座敷の斬新な意匠には目を見張るものがあります。
2015年9月の記事
瓦の文字は 高 か
輪違屋(わちがいや)
輪違屋は、太夫や芸妓をかかえていた由緒ある置屋で、元禄年間(1688~1704)の創業と伝える。
現在の建物は、安政4年(1857)に再建されたといわれるが、その後増築改築がなされて、
明治4年(1871)にはほぼ現在の姿になっていた。
平面構成は複雑だが、大きく分ければ、1階南半分の居室部分と、
1階北半分及び2階を占める客室部分からなる。客室は全部で十数室あり、
なかでも2階の傘の間と紅葉の間が主要な座敷で、
その襖や壁の斬新な意匠には目を見張るものがある。
輪違屋は、建築的に質が高く、また古い置屋の遺構として貴重であり、
昭和59年6月1日 京都市指定有形文化財に指定された。 京都市の駒札
南側の駐車場から見えるところ
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五七五
大雪となりけり関の戸ざし時 /蕪村
ことわざ
闇の夜に灯火を失う
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