アートプラス京めぐり

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京都市外も始めました 先ずは京都南部から

建物下007  輪違屋・わちがいや  かつて置屋だった

2017年12月20日 14時47分06秒 | 建築物・明治・大正など

 2017年12月の記事

輪違屋は元禄年間(1688~1704)の創建と伝える置屋で、島原では揚屋である角屋(重要文化財)と並び古い由緒を持っています。平面は、通りニワを南端にとってその北に居室を2列に並べ、通りニワは中戸・結界によって玄関土間、内玄関土間、台所土間に3分されます。居室は土間寄りを表から玄関、内玄関、台所とし、その後方の2室は大きく改造して現在は店舗となっており、さらに後方に仏間が配されています。2列目は板間と居間で、板間には一間幅の階段が付きます。この北西隅には座敷4室からなる客室棟が接続し、また北面には囲いが付きます。2階は傘の間、紅葉の間などの客室9室が配されています。傘の間は12畳で、南面に1間の床と2間の棚を構え、北及び東面の襖には傘が張り付けられています。また紅葉の間の土壁には、赤や黒の押し型の紅葉を散らしています。

この2室は当建築の中で最も凝った座敷となっています。平面構成は複雑ですが、大きくは1階南半分を占める居室部と、1階の北半分及び2階の各部屋で構成される客室部とに2分され、それぞれ動線を分けています。

建築年代については、安政4年(1857)に再建された後、明治4年(1871)に改造が加えられたと伝えます。事実、復原すれば当初は桁行14.8m、梁行10.7mで背面に通りニワが突出する規模となって、客室棟はなくなり、さらに板間の幅一間の階段や紅葉の間の後の改築によるものと判明します。

いっぽう、明治7年の祈祷札が残り、また明治4年8月の「町中絵図」(当家所蔵)に描かれている建物の外形が現況に近いことから、このときにはほぼ現在の姿になっていたことがうがわれます。したがって、客室棟等の増築時期は材の古さなどから見て明治4年をあまり遡らない時期、おそらく明治時代初年で、板間の階段や紅葉の間もおそらくこれと同時期に改築されたものと思われます。輪違屋は、古い置屋の遺構として貴重であり、建築的にも質が高く、その座敷の斬新な意匠には目を見張るものがあります。

 

 

2015年9月の記事

 

 瓦の文字は  高 か

 

 

輪違屋(わちがいや)

輪違屋は、太夫や芸妓をかかえていた由緒ある置屋で、元禄年間(1688~1704)の創業と伝える。

現在の建物は、安政4年(1857)に再建されたといわれるが、その後増築改築がなされて、

明治4年(1871)にはほぼ現在の姿になっていた。

平面構成は複雑だが、大きく分ければ、1階南半分の居室部分と、

1階北半分及び2階を占める客室部分からなる。客室は全部で十数室あり、

なかでも2階の傘の間と紅葉の間が主要な座敷で、

その襖や壁の斬新な意匠には目を見張るものがある。

輪違屋は、建築的に質が高く、また古い置屋の遺構として貴重であり、

昭和59年6月1日 京都市指定有形文化財に指定された。 京都市の駒札

 

 

 

 

南側の駐車場から見えるところ 

建物 前回の記事  ➡  建物左006 旧三井家下鴨別邸  望楼がユニーク

五七五

大雪となりけり関の戸ざし時 /蕪村

ことわざ

闇の夜に灯火を失う

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石碑下0146 平安宮021  東鴻臚館跡

2017年12月19日 21時42分48秒 | 石碑

 

鴻臚館は,外国使節を接待するための施設。平安京では,羅城門北側に朱雀大路をはさんで左右に東西鴻臚館が建てられたが,弘仁年間(810~24),東西市の設置に伴い七条北のこの付近に移転した。渤海国の賓客をもてなし詩会などが行われたが,同国の滅亡(927)により鴻臚館も衰微した。 

平安時代、京の中央を南北に朱雀大路が貫き、その七条以北の東西にふたつの鴻臚館が設けられていたが、この島原付近は東鴻臚館址にあたる。当時この館を利用したのは、唐ではなく、渤海国の使節に限られた。時の政府は渤海客を大いに歓待し、日本の国威を示すために林邑楽を演奏したり、詩文の会などを催してしたが、延喜20年(920)頃には廃せられた。そうした由緒ある顕客接待の場が、江戸時代の島原にもてなしの文化の場として蘇ったことは意味深いことといえる。平成13年11月吉日

島原伝統保存会

白梅や 墨芳しき 鴻臚館  /蕪村

 

此附近   東鴻臚館址

此附近   東鴻臚館址               

寄附者   中川徳右衛門

 大正四年十一月建之   京都市

石碑前回の記事 ➡ 石碑伏0145 淀城址に 石碑・道標 3本

五七五

酒のめばいとど寝られぬ夜の雪 /芭蕉

ことわざ

矢も楯もたまらず

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まち歩き下0663  中央市場  賑いは終わりました 今 昼です

2017年12月18日 19時11分34秒 | まち歩き

 

まち歩き 前回の記事 ➡ まち歩き伏0662 淀で古くからの醤油やさん 200年前から

五七五

初雪や水仙の葉のたはむまで /芭蕉

ことわざ

瘦せ馬に鞭

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祠下033  島原の弁財天  大銀杏

2017年12月18日 05時49分46秒 | 町内の小さな祠

 平成29年1月 撮影

祠が小さくなっています  

 

2015年9月の記事

 

 

 

 

 

島原の大銀杏 島原住吉神社の旧境内地 北端に植わっていたこの大銀杏は、

明治維新後の廃仏毀釈により、社格株 ない住吉神社が廃社になるも、神木として遺された。

その後、明治36年(1903)に神社は再興されたが、境内はこの大銀杏のところまで

拡大されるには至らなかった。

昭和5年(1930)にこの樹の根元に弁財天が祀られることにより、

さらに神木として崇められ、今では樹高20m、幹回り3.5mともに

樹齢300年相応の島原一の巨木となっている。

 

平成13年11月吉日  島原伝統保存会

 

嶋原の 外も染るや  藍畠  嵐雪

 服部嵐雪(俳人 1654~1707)

 

昭和5年11月建立

八大 王 と書かれています

祠 前回の記事 ➡ 祠伏032  淀 にあります 高倉大神

五七五

大雪や婆々ひとり住藪の家

ことわざ

禍を転じて福となす

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神社下0124 綱敷行衛天満宮 2つの天満宮が合併

2017年12月17日 07時14分03秒 | 神社

2017年12月8日の記事  平成29年1月撮影

 

菅原道真と天神さん

 

学問の神さまとして知られる菅原道真。下京区だけてなく京都市内には菅原道真を祭神とする天満宮が数多くありますが、なかでも北野天満宮(上京区)は広く知られています。北野天満宮のことを京都の人々は親しみを込めて「天神さん」と呼んでいます。

 

幼いころから類まれな才能の持ち主で、秀才の誉が高かった菅原道真は、32歳で文章博士(もんじょうはかせ)となりました。その後57歳のとき従二位右大臣に任じられましたが、左大臣であった藤原時平の讒言(ざんげん)で太宰権帥として九州の大宰府へ延喜元年(901)左遷となり、うちひしがれた毎日を送った道真は、左遷から2年後の延喜3年(903)、にこの世を去りました。

 

その後、道真を陥れた張本人の藤原時平も延喜9年(909)、39歳の若さで亡くなったり、京都に飢饉(ききん)などの異常気象や疫病が流行るなど異変が続いたことを、怨霊となった道真のなせる業と恐れた藤原氏は、道真の死後20年たった延長元年(923)に正二位の位を追贈しました。

 

名誉を回復された道真は天満大自在天神として祭られ、生前の業績や才能から学問の神として人々から信仰されるようになりました。

 

 

綱敷行衛天満宮

 

もともとこのあたりにあった「綱敷天満宮」と西にあった「行衛天満宮」が合併され「綱敷行衛天満宮」と呼ぶようになりました。「綱敷天満宮」は、道真が筑紫に左遷され博多に上陸したとき、船の綱を敷いて御座とした一夜にして白髪となりました。道真のその相を画にし、綱敷天神像とか一夜白髪の御影と呼び、社名はその神像を祭ったことが由来とされています。

 

「行衛」天満宮には「靭負(ゆきえ)」が正しいとされ、右京の西靭負小路に面してしたことから社名となったようです。

 

西靭負小路は「猪隅通」とも呼ばれ、北野天満宮の南門から南区の唐橋を経て、吉祥院天満宮に通じる道で、道真はこの道を利用して吉祥院ほ通ったといわれています。

 

火尊天満宮(かそん)

 

火尊天満宮には、祇園祭の山「油天神山」のご神体となる菅原道真の木像が祭られています。普段は静かな町並みですが祭りの時期は賑います。中世以来、この町の東北角に愛宕神社があり、火伏の社といったのが名前の由来のようです。

 

 

 

文子天満宮(あやこ) ➡   文子天満宮 天神信仰発祥の神社  

 

社名の「文子」は、菅原道真の乳母「多治比文子」が由来です、この地に多治比文子の住居があり、道真は大宰府へ左遷されるに際し、文子に別れを伝えるためにこの地を訪れ、道真手彫りの御像を与えたといわれています。後に道真が亡くなったことを聞いた文子が、庭前に祠(ほこら)を造り御像を祭ったのが神社の起源とされています。

 

 

 

菅大臣神社・北菅大臣神社 ➡  神社下0023 菅大臣神社

   紅梅殿・・ 菅原道真です

 

菅大臣神社の社地は、平安期初期に菅原道真の邸と菅家廊下と称する学問所があり、道真誕生の地とも伝えられています。また、境内には産湯に使われたという井戸も保存されています。「東風吹かば にほひおこせよ梅の花 主なしとて 春なわすれそ」と大宰府に左遷された道真は詠みました。その後、梅の一枝が一夜にして筑紫に飛んだという飛梅発祥の地でもあります。北菅大臣神社には道真の父是善を祭り、別名

 

紅梅殿と呼ばれています。これに対して菅大臣神社は白梅殿と呼ばれています。

 

 

 

千喜万悦天満宮  西念寺境内

 

この天満宮のご神体は、菅家ご繁盛(繁昌)の絵図と尊像です。

 

絵図は道真が宇多天皇から寛平元年(889)、右大臣に任ぜられ、寛平3年(891)には、御簾中(貴婦人の総称)、御公達や重臣など一族が神殿に列座することを許されたとき、喜びの余りこの慶事の様子を道真自らが指示し絵図に表現したものです。これが、社名である千喜満悦(千万は無量という意味の語呂合わせの当て字)の由来となりました。

 

 

 

匂天神社

 

東洞院通と烏丸通の間、高辻通から仏光寺通までの鉤型の辻子が通る町に匂天神社があります。

 

このあたりは、もともと大政所の御旅所の敷地で、いくつかのおてら神社がありました。その一つに清光庵があり、匂天神社を祭っていたといわれています。

 

祭社は菅原道真で勧請の月日ははっきりしませんが、明治時代には洛中25社の一つになっていました。

 

周辺の開発でいったん取り壊されましたが、昭和47年(1972)に社殿が新しくなり、以後町内でお祭りされています。

 

 

 

火除天満宮 ➡  神社下0035  火除天満宮

 

織田信長と信忠親子の菩提を弔うため、貞安上人が開山した大雲院の鎮守社として、慶長2年(1597)に烏丸通御池付近に建立されました。豊臣秀吉が京の都を再編した「町割り」によって大雲院とともに今の地に移りましたが、大雲院は後に東山区に移転しお宮だけが残っています。「火除」の名は、幾度かの大火から類焼を逃れたことからついたといわれています。

 

 

2015年7月12日の記事   

もともとこのあたりにあった「綱敷天満宮」と

西にあった「行衛天満宮」が合併し

「綱敷行衛天満宮」と呼ぶようになりました。

道真が筑後に左遷され博多に上陸したとき、

船の綱を敷いて御座としたら一夜にして白髪になりました。

道真のその相を画にし 綱敷天神像とか 一夜白髪の御影と呼び、

社名はその神像を祀ったことが由来とされています。

「行衛」は「靱負(ゆきえ)」が正しいとされ、

右京の西靭負小路に面していたことから社名となったようです。

西靭負小路は「猪隅通」とも呼ばれ、

北野天満宮の南門から南区の唐橋を経て

吉祥院天満宮に通じる道で、

道真はこの道を利用して吉祥院へ通ったといわれています

幕末のころこのあたりは湿地が多くあったようです

左が 西門 右が 南門

 

西門  石鳥居  昭和8年12月 建立

 

南門  社号標 昭和9年3月建立    右には 愛宕灯籠

本殿

川勝寺  大正元年  とある

末社 

手水舎

 

末社  白太夫大神  末吉大明神

 

奉納額  文字がほとんど消えて 内容は 不明

 平成27年7月11日 撮影

1輪だけ咲いていました

 

 関連記事 ➡ 天神・天満宮

神社 前回の記事 ➡ 神社下0123  松尾神社 御旅所 西七条

五七五

駅に立つ 墓だけが待つふるさとへ /森

ことわざ

門前の小僧習わぬ経を読む

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神社下0123  松尾神社 御旅所 西七条

2017年12月16日 19時02分57秒 | 神社

 

 

 

 

 

富岡百錬 書

関連記事 ➡ 関連0014  富岡鉄斎

神社 前回の記事 ➡  神社伏0122  凉森神社  淀の美豆町  城があった

五七五

初時雨これより心定まりぬ /虚子

京ことば  アカンタレ 弱虫。意気地なし。

 


関連0014  富岡鉄斎

2017年12月16日 06時21分40秒 | 人物数々

 

1  まち歩き左0549 京都一周トレイル 東山コース 58-1  石碑左0123 白幽子厳居之跡

2  寺院西0169  是住院 浄土宗 富岡家墓所 

3 石碑山0059  逢坂山関址 碑  

4  神社西0059  大原野神社 社号標 ここにもあった

5   石碑5  車折神社碑

6   右書き看板64  堂月桂

7  小川 千甕  京に生まれ、富岡鉄斎に憧れ、仏画を描き、浅井忠に洋画を学び、ルノワールに会い・・・

8  圓光寺  臨済宗南禅寺派

9   身内をすべて失った女性 太田垣蓮月 美人で陶器・「蓮月焼」が人気になった

10  丹という女性

11  霊光殿天満宮

12  富岡鉄斎 旧宅跡

13  神社右0012-6 車折神社 表参道 第3鳥居まで 

14  神社右0012-2  車折神社  表参道 第3鳥居から 本殿まで

15  神社右0012-1 車折神社(くるまざき じんじゃ) 南参道入り口

16   神社下0123  松尾神社 御旅所 西七条

16


まち歩き伏0662 淀で古くからの醤油やさん 200年前から

2017年12月15日 21時01分41秒 | まち歩き

大きな 蔵のような 倉庫が目立っています   そこへ 行ってみます

 

醤油 みそ 醸造所   本田醤油株式会社

額には 

200年の伝統 手づくり  しょうゆ  みそ  もろみ  

小売り 500~ 700~  

と書かれています

まち歩き 前回の記事 ➡  まち歩き伏0661  淀  宇治川の堤からの ながめ

五七五

空の青 君の心にうそはない /南里

ことわざ

我が物と思えば軽し笠の雪

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祠伏032  淀 にあります 高倉大神

2017年12月15日 12時53分24秒 | 町内の小さな祠

 

 

 

祠 前回の記事 ➡ 祠伏031  八大龍王弁財天

五七五

いつかまた細くなります捨てません /喜久永

ことわざ

柳眉を逆立てる

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まち歩き伏0661  淀  宇治川の堤からの ながめ

2017年12月14日 19時50分22秒 | まち歩き

南方面を見る  男山八幡

 

宇治川  左が上流

まち歩き 前回の記事 ➡  まち歩き伏0660  運送屋さん さすが淀だけあるなぁ

五七五

空の青 深くて広くて泣けてくる /谷

ことわざ

葉をかいて根を断つ

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神社伏0122  凉森神社  淀の美豆町  城があった

2017年12月14日 18時29分48秒 | 神社

 遠景

 

凉森神社

林之元樋門  昭和2年1月竣工  施行 藤田組

美豆城跡

美豆城跡

戦国時代この地に美豆城があった。場所は凉森神社の西側に接し、広さは約100m四方と云われている。

古文書「春聞御記」に次のように記せられている。

応永廿五年十一月一日(1418年)『当国守護代、三方山城入道(範忠) 今日国に入部。・・・美豆に城郭を構え居住云々。』

又「足利季世記」にも 『三好三人衆ハ・・・・其勢一万余人、永禄十二己己正月三日(1569年)堺ヲ打立・・・・三日ハ山城ノミヅト云処ニ陣取。』と記せられている。明治時代には城郭四辺のうち南辺と、西辺の南半の堀が存在、北辺は細い水路として存在していた。大正時代には東側の堀が存続していた。築城は三方山城入道(範忠)であるかは不明。終末期の城主も不明である。 淀南地誌の会

 

昭和9年10月 建立

 

石鳥居は    享保5(1720)

 

境内には  石清水八幡宮 神領守護入之・

拝殿と本殿

 

忠魂

昭和52年1月 氏子中

 

文字が読めない

 

井戸手押しポンプ  がありました

狛犬

由緒書き

凉森神社 由緒

社格は明治6年に村社として指定されており、祭神は白髭大神も神速須佐之男命、大国主命、事代主神、菅原道真朝臣である。由緒(縁起)として元禄年間火災に罹り、社記悉く焼失いるとあるようにこの宮の記録は無い。しかし時代の資料から、次のように言われている。

第18代仁徳天皇から高津の宮に都を移されたとき、この地に安在所(行宮、頓宮、御旅所)を造られた際、この近くに神社を造られたのが肇まりと言われている。

水律野神社(水律森)という。ここは樹木が繁茂し大変涼しかったという事で、凉森神社と言われるようになった。別名、夕凉宮とも云った。

又、菅原道真が九州へ流される時、この神社に立ち寄り、鈴を献上されたと云われたことから、「鈴ノ森神社」ともいわれる。

又、「凉宮」(石清水八幡宮)と云われたり、雀が多かったのか「雀宮」「スズメノ宮」(石清水八幡叢書)とも云われている。昔は桧皮葺きの立派な神社であったが、昭和36年度の第ニに室戸台風で損壊しね一時仮宮であったが今のコンクリートの建物になった。

大祭は10月23日である

宮司 奥村博記

凉森神社  総代会

 

本殿

 

遥拝所

 

摂社

関連記事 ➡  関連0009  手押し井戸ポンプ

 神社 前回の記事 ➡  神社伏0121  天満宮  淀

五七五

どの席もスマホと戯れる通勤車 /田村

ことわざ

馬齢を重ねる

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寺院伏0419  淀の 円通寺 浄土宗

2017年12月13日 20時23分39秒 | 寺院

 

 

寺院 前回の 記事 ➡ 寺院伏0418   淀の 西岸寺  西山浄土宗

五七五

ああ言えばこう言う妻と五十年 /東谷

ことわざ

針ほどのことを棒ほどに言う

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蔵のある風景伏0362回  淀 美豆町 付近

2017年12月13日 13時49分52秒 | 蔵のある風景

 

向うの山は 男山八幡

蔵のある風景 前回の記事 ➡ 蔵のある風景伏0361回  淀・北城堀町 付近

五七五

ポン菓子が来ると並んだ昭和の子 /梶村

ことわざ

蛤で海をかえる

 


寺院伏0418   淀の 西岸寺  西山浄土宗

2017年12月12日 09時21分23秒 | 寺院

 

 

寺院 前回の記事 ➡ 寺院伏0417  東運寺 曹洞宗 鳥羽伏見の戦い 東軍戦死者埋骨所

五七五

朝採りの旬野菜みな長寿食 /樋口

ことわざ

行き大名の帰り乞食

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