これでいいのダ

心をラクに生きましょう。どんな日々もオールOKです!

色々なことに気づくとき 2

2020-08-01 11:00:00 | 天地の仕組み
私たちは、自ら積極的に観る立場にあります。
観させられるという受け身の立場にはありません。

与えられることに慣れてしまうと、まわりの景色が何も見えなくなります。
与えられた情報、与えられた悦楽は、与えられた世界を作ることになります。

本当の世の中とは何なのか。
本当の悦びとは何なのか。

世の中には情報や悦楽が溢れかえっています。
そうしたものをシャワーのように浴びていると、私たちはあちこち心が移ろい、見知らぬ誰かに身を任せる根無し草となっていきます。

しかしそれが、コロナによって世界中で強制的に自宅に籠らされました。

それまで自由を謳歌していると思っていた身にとっては、まるで座敷牢にでも入れられたような鬱々とした気持ちになりました。
しかし、それこそは自分の景色を直視させられた瞬間だったわけです。

これまでの自分の生き方、過ごし方がどういうものだったのか。
当たり前と思ってきたことがどういうものだったのか。

私たちのまわりに溢れていたものは、与えられたものだったのではないか。

コロナ前の状態を当たり前と考え、あの日々に戻りたいといつまでもこだわっていると、目に映る世界は変わらぬままとなります。

今は、まさに禅寺のように「(執着できる)自由を奪うことで(執着しないという)本当の自由を得る」状況にあります。

まさかこのような「ただ自宅に居るだけ」という超シンプルな方法で内面が炙り出されることになろうとは誰一人思わなかったことでしょう。

コロナ前に追っていた悦びというのは、本当に自分が求めたものだったのか。
与えられた刺激を悦びと感じ、それを求めていなかったか。

もともと刺激を求めるのは人間の本能なので、それ自体がダメなことではありません。
ただ、本来それは私たちの内面から湧き上がる衝動によってもたらされるものです。

たとえば好奇心や探究心は恐怖や苦労を駆逐します。私たちのご先祖様は、命懸けで狩りをしたり、あるいは未知の世界を開拓したりしてきました。

そうした内発的な刺激と、与えられる刺激とでは天地の違いがあります。

口を開けて流し込まれる日々を過ごすと、そのまま中毒者になってしまいます。

水の中にいる魚は水の存在に気がつけません。
それが非常事態宣言により、私たちは強制的に水から引きずり出されました。

最初はあれが欲しいこれが欲しいと頭に浮かんでいたのが、数ヶ月もクスリを抜かれると健康な体に戻っていきます。
そうして最後、本当に欲したものは何だったか。

それは、人との繋がりだったのではないでしょうか。

離れた両親との連絡。
何十年ぶりの友人との再会。

パソコンを通じたリモートなんちゃらが一気に流行りました。

刺激というのは自分一人では起こすことが出来ません。外との関わり合いの中で生じます。

私たちはこの世に、様々な内的反応を得るためにやってきました。
色々な体験をして色々な思いを発するために、日々を生きているわけです。

そうした私たちや万物が集まったものが天地宇宙なのですから、平たく言えば、内的反応(データ)の集積が天地宇宙の生成発展そのものだと言えます。

正義と悪のどっちが正しいとか、ポジティブとネガティブのどっちが正しいとか、そんなものは浅瀬の話でしかないということです。

もちろんそれ自体が駄目と言ってるのではありません。動機付けとしてそれらは大切なものです。
そこから様々な体験が生じ、様々な内的反応が生まれます。
ただ、大切な要素ではあるものの、絶対視するものではないということです。

イデオロギーや理念、信念といったものは浅瀬のオマケにすぎません。
一方、人と人の交流はもっと根源的なものです。

外部刺激の最たるものは人との交流であるわけです。

いい人ばかりではなく、苦手な人、嫌な人との交流が避けられないのはそれだからです。

好きとか嫌いというのは極めて浅瀬にある判断基準に過ぎません。
様々な交流、様々な体験をすることがこの世での本来の務め。

するとこれまた、バンザイして諦めるしかないのかもしれません。





(つづく)




色々なことに気づくとき

2020-08-01 10:59:00 | 天地の仕組み
日々の暮らしというのは様々なものに囲まれ、無意識のうちにあれやこれやと心が飛びまわります。
仕事に追われてる時もそうですし、家にいる時もそうです。

目まぐるしく変わる景色。
湯水のように流れ込む情報。
そんなこんなに振りまわされ翻弄される自分。

そうなると週末はとにかく家から出て、どこか遠出しようとするのは人間の本能だと言えるでしょう。

目が回るような日々のまま土日も家の中で悶々としていては、体は休めても心は休めず、エネルギーが枯渇していくばかりです。
気持ちの切り替え、リフレッシュはとても大事なことです。

そうしたリセットの一つに、たとえば喧騒を離れ山奥の禅寺に籠るというものがあります。

寺に行って何をやるかというと、特別なことをするわけでなく、ごく当たり前の生活を繰り返すだけです。
炊事や掃除、坐禅といった単純な作業を黙々と繰り返すだけ。

山の禅寺に入ると携帯電話も何もかも没収されてしまいます。
そうすると、あれをやらねばこれをやらねば(=あれをやりたいこれをやりたい)という強迫から解放され、目の前のことしか存在しなくなります。

LINEをやりたい、メールをやりたい、ネット情報をチェックしたい…
携帯を奪われるとウズウズするものですが、最終的にはそれが実は「やりたい」ではなく「やらねば」だったことに気がつきます。

普段、私たちは、押し寄せる波、その次の波、その次の次の波と、際限なく考えてしまいます。

なぜそうなるかというと、どこまでも続く波に対処していかないと平穏は訪れない、落ち着くことができないと思い込んでいるからです。

外が落ち着かないと自分も落ち着かない。
平穏を求めるあまり平穏を失ってしまっているわけです。



ただ、それも意識を変えればガラリと変わります。
今ここに来ている波が一つだけであることに気がつくのです。

次々と押し寄せる波が連なっていたとしても、たとえばその映像を一時停止すると、それらが単に遠くの景色に過ぎないことが分かります。
停止画面の中では、足元に来ている波は一つだけです。

たとえ複数のトラブルが同時に起こったとしても、今この瞬間というのは一枚絵です。

今ここに存在する私たちにとって、今できるのは、その一枚を見ることだけです。
ですから、私たちはその一枚だけに集中すればいいのです。

何枚も先の絵のことは、そのときに任せておけばいい。
今は、今の絵だけを見ていればいいのです。

また、目が移ろいやすい理由の一つに、今この一枚絵と、次に寄せてくる一枚絵が、ほとんど同じものに見えるということもあります。
似たような作品があるとチラチラ目移りしてしまう。
それらが全く別の作品であることをしっかり理解すれば心も落ち着いていきます。

美術館でモナリザとピカソの絵が並んでいた時に、隣の絵に目移りすることはないはずです。
一つ一つじっくりと鑑賞するでしょう。

今のこの一枚絵も先ほどの絵とは全くの別物です。一からすべてが新しいものです。
映画フィルムの一コマ一コマはそれぞれ独立して存在していますが、それと同じです。

人生というのは、まさに私たちが美術館に行って一つ一つの絵画を鑑賞していることに喩えることができます。

目の前の一枚絵を見る。
一歩あるいて、隣に飾られている一枚絵を見る。
その連続が一秒となり一日となるわけです。

本当の美術館を想像してみましょう。
ある絵画を鑑賞している時に、何枚も向こうに飾られている絵画をチラッチラッと横目に観ている姿は、なんとも残念なものではないでしょうか。

いや、目の前の絵画が落ち着かないから落ち着く作品を探しているだけだ。
何かは分からないが今ここに無い名画があるはずだ。

確かにそういう入館者も美術館には居るかもしれません。
でもそれは素人であることが丸わかりです。

私たちは誰しもみな、美術館巡りのエキスパートです。
何百回、何千回も美術館を訪れて色々な作品を堪能してきました。

私たちの本体というのは、見ため派手な作品だけに飛びつくような初心者ではないのです。
色々なジャンルの作品をじっくり鑑賞する、目の肥えたプロです。

私たちは、人生の達人、生きることのプロフェッショナルなのです。

そもそも美術館の中というのはシーンとした静けさに満ちています。
物凄い大嵐の絵画がそこにあったとしても、美術館の中は静かに落ち着き払っています。
それを観る私たち自身も落ち着いています。

私たちはじっくり落ち着いて作品を鑑賞しています。

世界というのはバタバタと大波のように揺れているように見えますが、実際はシーンと落ち着ききった世界です。
私たち自身も落ち着ききった存在です。

だからこそ、その一枚をじっくりと味わえる。
目の前の一枚に、驚いたり悲しんだり、素直な心になれる。

でも私たちは、先々の波に心が揺れに揺れ、まるでまわりの世界が激しく揺れてるように感じている。
そんな自らの心の揺れに、驚いたり悲しんだりしています。

ここは美術館。作品を観る場所です。
フト我に帰れば、そこは静かな世界であることに気がつきます。

目の前には先程と同じ、嵐の一枚絵が存在していますが、どこまでも静かな世界が広がっています。



禅寺では、世界をシンプルにさせることでそのことに気づかせてくれます。

次々と押し寄せる波にアタフタと翻弄されるのではなく、いま目の前に来た波に黙々と対処する。

私たちが自分の心をどこに置くかで、私たちの心は大きく変わります。

押し寄せる波に置けばアタフタとなりますが、今ここに置けばシーンとなります。
縛られた心になるか、自由な心になるか分かれるわけです。

社会から分断された禅寺というのは「何もできない」世界ではなく「何でもできる」世界だと言えます。

私たちの日常というのは、テレビやパソコンから様々な情報を自由に得られるし、携帯電話で誰とだって繋がるし、また交通手段でどこにでも行けるため、何でもできる自由な世界だと思っています。
しかし実際は、そのように押し寄せる波に追われアクセクする日々となっています。

いくらでも選択はあるのに、一歩横にズレる心の余裕がない。
もし今そうしようものなら、次々と押し寄せる波に一気に飲み込まれてしまうだろう、、、
そのようにして、私たちは結局同じことを選択し続けています。

しかし心ひとつで、今この瞬間から「何でもできる世界」になります。

流れ込む情報、携帯やテレビ、そうしたものは遠くに見える波に過ぎないわけです。

一日で何百人も感染者が出ました、ワーワー大変だー
指導者がまた悪いこと企んでる、私たちは被害者だ、ワーワー

そんなのは赤の他人が描いた、遠くの波でしかない。そんな雑音にいちいち心を置く必要はない。囚われる必要はないのです。

それでもどうしても遠くの波まで気にしてしまうのは何故なのか。そこを理解しないとこのイタチごっこは終わりません。

その理由は、あの波にやられたら大変なことになるかもしれないという不安にあります。

あの波が自分の足元に来た時にツラい状況になるかもしれない、だから前もって身構えておこうと。

ツラい状況、苦しい状況、悲しい状況、そういうのは嫌だ!というのはエゴの条件反射によるものです。
この肉体を存続させることがエゴの使命ですから、少しでもそれを危うくさせることに過剰反応を示すわけです。

そして「最悪の場合、命を危うくさせるかもしれない」という遠大なストーリーを作りだして、自らを正当化します。

この「ツラくなるのは嫌だ!」という思いこそが、私たちを縛りつける全ての元凶となっています。

ツラい状況になりたくないという思いが、私たちをツラい状態に貶めているわけです。

そうなると、この解決法はたった一つしかありません。まったくもって単純明快。シンプルこの上なし。

それは、、、

「ツラい状況は嫌だと拒絶しない」ことです。

ツラい状況をツラいと思うな、ということではありません。
ツラいことをツラいと思う、嫌だなぁと思うのが素直な心です。

要は、ツラい状況は嫌なんだけども、でもツラい状況になったらなったでそれはもう仕方ないと、諦める、バンザイしまうということです。

なんだそりゃ?という話です。
まったくもった当たり前の話ですが、それしかないのです。
すべては、そこからになります。

それができれば世話ない、それができないからツラいんだ、となるでしょう。
方丈記の頃からそうでしたし、仏陀の頃からそうでした。
遥か昔から私たちは、この世というのは生きにくい世界だと悩み苦しんできました。

でも、理屈として分かることですが、ポツポツと新たに現れる波に対して、心を向けてジーッと気にし続けたところで、その波が消えるようなことはありません。

波自体がどう変化するか風まかせなのですから、こちらがどう舵を切ったところで、ぶち当たるものはぶち当たりますし、当たらないものは当たらず通り過ぎていくのです。

とんでもない大波が遠くに見えたら、そりゃ回避しようと足掻くのが正直というものです。
ギリギリまで足掻く。

でも結局はどんな波であろうと自分の足元に届くまでは、いまだ自分には縁の無いものであるわけです。
逆に、足元に届いた波はすべて縁あってぶち当たった。

来るべくして来た。
嫌は嫌だけれども、仕方ないわけです。

生きるために必死に足掻き、回避しようとしつつも、そうなったら仕方ないという割り切りの心を持っていることが、先々の波に囚われないコツとなります。

そうなると先々の波は、絵画に描かれている遠くの景色となります。
無視するということではなく、冷静に眺められる状態となります。

そうして初めて、足元に集中となります。

遠くの波が命を危うくするような大きさならば、回避のためにいま出来ることに集中します。
連なる波が単にストレス程度のものならば、ただ足元のいまやること、いま出来ることに集中します。

いま出来ること。
いまやること。
この世界に存在するのはそれだけです。

これに気づかせるため、禅寺では無意味なことに没頭させます。

綺麗な廊下なのにこれ以上雑巾をかけて何の意味があるのか?
何も落ちていない庭なのにこれ以上ホウキを掃いて何の意味があるのか?

意味や理由というものをとことん排除するために逆のことをやり尽くす。これも方便です。

綺麗にするため雑巾をかけるというのは、逆算の行動です。
落ち葉が積もってからホウキで掃くというのは、綺麗になった庭を目的とした行動です。

今というのは、将来の姿から逆算して決まるのではありません。
将来の何かのために今を縛るということでは無いのです。

磨くこと自体が目的。掃くこと自体が目的。
未来を見て歩くのではなく、今を見て歩く。
今のために、今やる。

そうしているうちに心は落ち着き、広がっていきます。
すると不思議なことに、大切なことが見えてくるようになる。これまで気づかなかったことが心に映るようになってきます。

特別な何かをやって特別な何かを得るという話ではありません。
当たり前のことをやって当たり前のことを知るのです。

天地宇宙には「今」しかありません。
未来も過去も、本当の意味で「今」の中にあります。
だから心配しないでも、いや、心配するのであれば尚更のこと、「今」の目の前だけに集中です。




(つづく)





天の恵み♾大地のエネルギー

2020-03-10 08:47:00 | 国を常しえに立てます
今年は近年まれに見る暖冬となりました。
一月には大阪で19℃超え、東京でも18℃超えを記録し、17℃を超える日が続きました。

とりわけ、一月後半から二月前半にかけての暖かさはコートを脱ぐ人が続出するほどでした。
あまりの暑さに、自分も体調を崩した記憶があります。

また、今年の冬は雨の日も多かったと言えます。
例年ですと乾燥で喉がやられるところですが、今年は加湿器なしでラクラク過ごせました。

見過ごされがちですが、春節の前後はかなり気温の高い日が続き、また適度な雨も降っていたのでした。

毎年この時期になるとインフルエンザが流行しますが、それはウィルスが寒冷乾燥を好むからです。
逆に高温多湿になるとウィルスは生存できなくなります。

湿気があると空気を舞えずに落ちるというのは何となく分かりますが、高温だとなぜ生存できなくなるのか。
実は熱に弱いのではなく、そこでもやはり水分が影響しています。

空気中に含まれる水分量は温度によって変化します。
温度が高いほど飽和の上限が高くなりますので、より多く水分を含むことができるようになります。

普段、湿度何パーセントと言っているのは、その日の気温で含有できる最大水分量を100とした時に、実際の水分量がどれだけかを示すものです。
ですから湿度30%と言っても、夏場と冬場では空気に含まれる水分量は違うということになります。

このため雨が多い時はもちろん、気温が高い時もまたウィルスにとっては生きにくい環境となるわけです。

そう考えると今年はコロナが騒がれ出した一月後半から今に至るまで、ほとんどどちらかの状態が続いています。
こんな年はこれまで無かったと思います。
先週も今週も、東京では晴れて暖かい日と、寒いけども雨の日が入れ違いで続いています。



日本では昔から疫病退散のため様々な祈りが行なわれてきました。
祇園祭など有名なお祭りの殆どは、疫病を鎮めるために始まったものでありました。

疫病退散や雨乞いというと、非科学的かつ原始的で幼稚な発想だと思いがちですが、これは全く間違っています。
実際のところ人々の思い、天地の恵み、様々なエネルギーが働くと、人知れず今回のようなことが起こっているのです。

もちろん、私たち人間の力だけでそうなるものではありません。

もとより国を護るエネルギーというものがあって、絶えずこの国を包み込んでいます。
私たちの思いが散らかっているとそのノイズにより国を包むエネルギーは滞っていきますが、私たちの思いが一つに清らかになると、それらが本来の姿を現すようになります。

しかし苦しみや悲しみのまま必死の懇願で疫病退散を祈ったり雨乞いをしたりすると、ノイズを散らすことになり逆効果となることもあります。
非情なようですが、それが自然の理なのでどうにも仕方ありません。

思いというのはシンプルなほうが清らかな流れとなります。

ですから、祭り神輿などは意図せず最高の儀式となっているということです。
もう楽しんだもん勝ち、はしゃいだもん勝ちなのです。

私たちが氏神神社で日々の感謝をお伝えしたり、あるいは部屋の神棚に手を合わせるのも、こうしたことへ繋がっていきます。

ちなみに、元来の祭りというものは、神様に喜んでもらうためのもの、楽しんでもらうためのものでありました。
誰かを喜ばせたい、楽しませたい、と心から思った時、余計な邪念は消え去ります。
今も神社で行われる御饌や御神楽というのはその精神を継いでいます。

透き通った思いは清らかなエネルギーとなって天地へ通じます。

今この状況一つとっても日本だけが圧倒的にヒイキされてるように見えますが、これは私たちのご先祖様の貯金によるところが大きいと言えます。
それはノイズで汚しっぱなしにせず綺麗にしてきたという貯金です。
私たちの代で使い果たしてしまわないように、できるかぎり感謝をお伝えしていきたいところです。

さて、疫病退散を最優先に私たちの思いを受け取って天の恩恵が現れていますが、天地・陰陽の裏腹で、それとはまた別の兆候が大地に現れることになります。

雨のあとに一気に気温が上がると、勢いよく天地の氣が流れます。

大地においては日頃マントルの深層からエネルギーが湧き上がっていますが、特に断層などの切れ間ではその湧出が大きくなります。
あるいは立派な山々なども、そうした深層から湧き立つエネルギーと、天からのエネルギーが繋がる場所と言えます。
それらエネルギーの触媒として、昔の人は巨石を磐座としました。



大地はどこであろうと地の底からエネルギーが湧き出ています。

ただ、埋立地などではどうしてもそれが弱くなります。
逆に、中央構造線やフォッサマグナといった大地の切れ目では溢れるように湧き立ちます。

そうしたところでは力のある温泉が数多く湧出しています。
あるいはまたパワースポットと呼ばれる場所になったり、お社が存在することになります。
神社仏閣に関しては、それら龍脈の滞りを無くす(鎮める)ためという理由もありました。

切れ目から溢れ出るエネルギーは、まるで谷を駆ける龍のように見えます。

龍のように連なる割れ目に滞り(詰まり)があると、そこが堰となり圧が掛かり地鳴りが起こることになります。

私たちも無意識のうちに寝起きに伸びをすることがありますが、それは滞りを無くすためのものであります。
ちょっとした凝りならばすぐ取れますが、ガチガチの凝りがある時に無理に伸びをするとグキッと痛めてしまいます。

身体の凝りというのは血流の滞りによって生じます。

この時、適度な温泉に浸かったり、あるいは軽い運動をしたりすると血流がよくなって、その緩やかな流れによって凝りがほぐれていきます。
しかし、ガツンと強い温泉に入ったり、激しい運動をしたりすると、血液は激しい流れとなって凝りにぶつかり、体を壊すことになります。

雨上がりに気温が急上昇するとエネルギーが一気に流れますので、大地でもこれと同じようなことが起こります。

天地の采配により、暖かい日と雨の日が続き、疫病退散がいま目の前で現在進行形となっていますが、一方で地震の危うさが裏腹となるのでした。



2月初頭、たまたま大阪へ行く用事があったのでその帰り道、天香久山の頂上、奈良の大神神社、檜原神社で手を合わせました。

翌週は徳島出張の帰りに阿波国一ノ宮の大麻比古神社へ行き、翌日は東京から信濃国一ノ宮の諏訪大社へ参りました。

大神神社の御神体は三輪山で、大麻比古神社の奥宮の御神体は大麻山です。
そして諏訪大社の上社本宮の御神体は守屋山です。

山というのは大地のエネルギーが持ち上がって出来たものです。
エネルギーは大地から沸き立ち、天からもエネルギーが降り注いでいます。

地球規模でも、例えば磁力線というものが天から地へ、地から天へと流れています。

天地宇宙はエネルギーが流れ流れ、交流しています。

宮島の厳島神社にしても手を合わせると実はその先の弥山を遥拝する形になります。
弥山の山頂(二つ前の写真)には巨石群があり、何千年何万年も祈りの場でありました。

ただ、そんな巨石崇拝やアミニズム(自然崇拝)の形のままでは原始的だと鼻で笑って、現代まで祈りが受け継がれることは無かったでしょう。
全くもって神社を建てた人たちの凄さというか、建てさせた存在の凄さを思い知らされるばかりです。

一ノ宮というのは、図ったかのように大地のスポットに置かれています。
神社そのものが要石(かなめいし)となって、経絡のツボの上に置かれているようなものです。

ツボというのは面白いもので、ある一点をスッと刺すだけで全身の離れた先端まで一気に氣が通るようになります。

私たちが日頃そうとは知らずに神社へ足を運び手を合わせると、それはそういうことになるのです。
だから、神社で個人の願いをするなんて野暮中の野暮であるわけです。

感謝を伝えればそれは地の流れに乗って天へと上がり再び地に降りて自分に還ってきます。

一人一人の感謝は小さな小石に過ぎずとも、それが集まり集まると巌(いわお)となります。

龍脈の一つに中央構造線があります。
九州熊本から四国徳島、紀伊水道を通り、奈良の上を通って伊勢へ抜け、長野の諏訪湖の先でV字ターンして茨城へと抜けていきます。

大麻比古神社、諏訪大社はこの上にあり、天香具山や大神神社もほぼこの上にあります。

そしてこの経絡の「ここゾの一点」は、やはり伊勢神宮ということになるのでしょう。
今では、お伊勢さんでは個人の願いをしてはいけない、と観光ガイドにも載るようになりました。
伊勢神宮に限らずどの神社であってもそれは同じことですが、龍脈のヘソたる伊勢でそれが浸透するのはとてもいいことです。
一年前の予約がこのタイミングとなりましたが、私も手を合わせに参りたいと思います。



大地の滞りというのは自然由来のものもありますが、人々の心の乱れによるものもあります。

抜け落ちた髪が絡まって吹き溜まるように、私たちの雑念が大地の風通しを悪くします。

古来、人心が乱れると天災が起こりました。
それほど私たちの心というのはパワフルなものです。
逆を言えば、感謝や祈りというのもそれだけのエネルギーがあるということです。

誰か一人の力で何かの奇跡が起こるというものではありません。
私たち一人一人の思いが重なって大河となります。

感謝や祈りといってもアレコレややこしいことをするのではなく、純粋にシンプルに、感謝の思いを置くだけです。

それは別に中央構造線の上で無くとも、家の近くの氏神様でも、自宅の神棚でも、すべては一つに繋がっています。

私たちの体にも縦横無尽に経絡が張り巡らされているように、一軒一軒の神棚も、各地の氏神神社も、すべてが一つに繋がっているのです。

シンプルな感謝の思いというのは、あれこれ単語を並べる必要はありません。
言葉を並べるほど心は固まります。
型にハメようとするほどガチガチになります。
ああだから感謝だとか、こうだから感謝だとか、そんなものは本当に要りません。

 今この瞬間、生きている
 今こうして生かさせて頂いている
 ありがたいなぁ…

それ!
最後のそれ!

せっかく来たのだからと長々と祈り倒すのは逆効果にしかなりません。
ノイズ・セレクション金賞受賞です。
たとえ一瞬であろうと真心が大事なのです。
深さこそがすべて。

第一、時間なんてものは私たち人間の幻想でしかないのですから、そこにこだわる時点でアウトとなります。
この世の仕組みとして、一瞬も永遠も同じものです。
安心してその一瞬にかけて大丈夫です。
信じる勇気。サッと立ち去るのが粋というものです。

 なんだかんだいっても、
 ありがたいよなぁ…

この最後の余韻。
そこに身を投じる。
あとの余計なことは何も要りません。

余韻に浸って、手を合わせ、あとは何もしない。
何も考えない。
ほっておく。

それが天地無限へと響く一陣の風となります。




(おしまい)


  

真面目もほどほどに 3

2020-01-18 23:46:00 | 心をラクに
人は誰でも、無意識のうちに自分の身を守ろうとします。
生きるための本能としてそれは当然のことです。

それが根源から湧き上がる衝動によるものであれば何の問題もないのですが、損得勘定や価値観と結びついてしまうと、たちまち我執の暴走が始まってしまいます。

タチが悪いのが、そうなったとしても私たちは生き残るための本能だと信じてしまい、歯止めが効かなくなるところです。

理想や信念に真面目気質が注ぎ込まれると、もう誰も止められなくなります。

善と悪。
正しさと間違い。

対極となる相手ができると、我執の垂れ流しが始まります。

褒められたいがための真面目。
安心したいがための真面目。
否定されない・怪我しないための真面目。

「魔が刺す」という言葉がありますが、「真面目」は「魔自滅」にもなります。

そしてこの仕組みをうまく使い、正義の旗を振って大衆を導く手法があります。
本当の手練れともなると、美しく綺麗な音色を奏でるようになります。

冷静な大人は違和感を覚えますが、真面目を信じる子どもたちはコロッと騙されます。

極東に現われる「永遠の未成年者集団」というのを予言した指導者も居ました。

夢見心地に鼻高々に歩みを進め、その先に待ち受けていることが分からない。気がつけない。
いざその時になって泣き喚いても、なお、それが自ら招いたものだと気が付かない。

ハーメルンの笛吹きは今この時も綺麗な音色を奏でています。

正義のメロディーを奏でれば簡単に騙される。
だから、真面目すぎるのは危険なのです。


世界の国々はお互いが「自分こそ正しい」と信じて最後の戦いに向かいます。

様々な国の言い伝えでも、この世の終末は白と黒の闘いだとされます。

正義と悪との最終決戦。
それは天使と悪魔にも喩えられたりします。

しかし、誰もが自分こそが白い存在だと思っています。
本気でそう思っている。
そして、相手こそが悪だと思っている。
お互いがそう思っている。

それが最終決戦、ハルマゲドンの正体です。

白黒はっきりさせない日本は優柔不断だと馬鹿にされてきました。
しかし和合を目指すのはまさしく天地宇宙の姿そのものです。
海外の評価ばかり気にして、海外の価値観を日本に導入しようとする行為は、破壊行為以外の何物でもありません。

世界を救うのは日本であるという言い伝えもまた世界中にナンボでもあります。
その理由は、この世界というのは拮抗と和合が対になっているからでしょう。
自然界を見れば分かるように、拮抗の先にあるのは共倒れか、和合(融合)のどちらかです。

しかしながら、自らの勝利を信じる者にとって共倒れなんて発想は微塵もありません。
そのため日本の存在は目の上のタンコブとなります。
真の平穏は衝突とカタストロフィ無くして訪れないと本気で思っている人たちにとっては、それこそが正義なのです。

もちろん、破壊と創造という視点からすれば、その考えにも正しさはあります。
但し、そこに勝者は居ない、という条件が付きます。

カタストロフィというのは何も残らなくなることです。
野焼きによって草一つなくなった大地から新たな息吹が次々と芽生える。
まさに、もののけ姫のエンディングです。
私たち人類はこれまで何度もそれを繰り返してきました。

当事者である彼らがそこまで達観した志を持っているのかというと、多くはそうではないでしょう。
自分たちは白き存在、正義の存在であると信じて勝利は自分たちの上にあると思っている。
それが双方のモチベーションとなっています。


そんなやる気マンマンの気持ちにザバーッと水をかけて丸く収めようとする日本の存在は、ある意味脅威でしょう。

そのため、そうはさせじと日本を貶めるラッパの音が高らかに鳴り響くのです。
それを知らぬ永遠の子供たちは、笛の音に導かれ、国を貶めたり皇室を絶やすような道を、鼻息荒く進んでいきます。

ただそれとて全否定して排除すべきかというと、そんなことはないのですから世の中というのは本当に面白いものです。

それどころか広い視点で見れば、そうした反日行動が国を護るための一つのピースに成っているとも言えます。

本気で自衛隊を解体させよう、国を骨抜きにしようとする、その暴走モードによって、最終決戦における自衛隊の本格介入が阻まれ、その手前までは行けても、結局どっちつかずの状態のまま生殺しにされる。

各国からは後ろ指を差され、さげづまれながらも、敵対的立場に立たず、一歩引いた場所に身を置くことになります。

この位置に居なければ、最終局面で登場することはできないわけです。

ですから、あるところまでは永遠の子供たちも必要な役目を為していると言えます。
ただ、これまでがそうだったというだけで、あとわずかはそうであるものの、今がギリギリの瀬戸際です。

全否定が無いように、全肯定というのもない。
そろそろ良い加減にとどめなければなりません。

今までがそうだったからといって、それが将来の保証にはなりません。
真面目すぎる日本人は憲法を変えることでもヒステリックになりますが、だからこそ真面目はほどほどに止めないと身を滅ぼすことになります。

ラッパの音がさらに強さを増していく時に、今までのように何も考えず付いていってしまうと、それこそ本当にハーメルンの笛吹きの結末
になってしまいます。

自分のことばかり求めていると、まわりが見えなくなります。

安心を求める人は常にウロウロしてないと落ち着きません。
ドッシリとどまってまわりをゆったりと見ることなどできないのです。
そのため、前に進むための原動力として、信じられるものを求め続けます。
信じるものが無ければ前には進めないと思い込んでいるのです。

そして正義や大義はそういったものに使われやすい。

終戦の時も、ヒステリックに極端な右に突っ走っていた人ほど、情勢が変わるとともに極端な左に突っ走ることになったのはそのためです。

いま極端な左に暴走している人はこの点要注意です。
我が身に危機が訪れた瞬間、豹変する恐れがあります。

そのことをよく分かった上で、その奏でる音色を聞く必要があるということです。

信念というものは凄い原動力と成ります。
宗教にもそれは現れています。
政治的思想に燃える人たちが宗教信者と似てくるのは、モチベーションの仕組みが同じだからだと言えます。



新約聖書のマルコ伝には、終末が近づくと偽メシアが数多く出現すると書かれています。

これを単なる宗教指導者の類いと思っているとすっかり騙されることになります。

宗教家でもない、ごく普通の人が発する耳触りの良い言葉に、スッカリ心奪われ、この鬱屈した世界を変えてくれるのではないかと期待を寄せる。

政界でも、言論界でも、TVの世界でも、環境の世界でも、精神世界でも、本当にありとあらゆるところにハーメルンは現れます。

綺麗事だけを言っていれば誤魔化せる時代は終わりました。
すでに政治の世界でもそういった手法はボロが出るようになっています。

肩の力を抜いて、頭の力を抜いて、心の力を抜いて、気持ちを楽にすれば、景色がよく見え、耳の聞こえも良くなります。

この世というのは玉石混淆です。
見た目を追うとどれが本物か分からなくなります。

一流芸能人の格付けチェックという人気番組が有りますが、あれよりもこの世のほうが遥かに難易度は高いのです。
あの番組では知識や経験がモノを言いますが、この世では逆にそうしたものを捨てるところに目利きの道が開けます。

本物というのは上っ面を加工するものではなく内側から滲み出るものです。
ですからいくら知識や経験を頼りに外側からアプローチをかけても、中身の判別はかえって難しくなります。

もともと私たちは誰もが天地宇宙そのものです。
根っこはみんな同じです。
芯の部分に身を置けば等しく天地宇宙。
優劣なんてものは存在しません。
上っ面の音色など、どこ吹く風です。

自分は天地宇宙そのものだから大丈夫。
それを信じきれるか、それを事実として受け入れられるか、そこに尽きます。

自分の芯の部分に立ち返れば、まわりのものも、その芯の部分を感じ取れます。

誰にとっても正しさというものはあります。
それを全て捨てろというのは無理な話でしょう。
それでも、決してこれが絶対のものではない、と思うことならできるはずです。

同じ会社の中でも、職場が変われば正しさは全く変わります。
ましてや会社が変われば尚更です。

同じ日本でも土地が変われば正しさは変わるわけですから、国が変われば尚更でしょう。

家庭によって正しさは異なりますし、個々人においてもそうです。

違う家庭(過程)で育った人間同士が同じ場所で暮らすようになれば、それぞれの正しさがぶつかり合うことになります。

家庭では、掃除はこうやるもんだ、片付けはこうだ、と。
職場では、仕事はこうやるもんだ、段取りはこうだ、と。

そんな時「何を言ってんだ、こうやればいいじゃないか」と思うのは、それはこちらの正しさだということです。

相手は相手の信じる正しさに依っているのです。

理解する、受け入れる、許容する。

誰もが自分の正しさこそ、一番正しいと思って生きています。
自分の正しさが何の根拠もないものだと知れば、私たちは相手だけでなく自分自身も許せるようになります。

ただ、最後の最後まで油断は禁物です。
ここでまた「正しさなど持たないのが正しいのだ」となると、またまた囚われの世界に片足踏み入れることになってしまいます。

真面目は終わり!
何でもエエわい、くらいの気持ちでちょうどいい。

少しは自分としての正しさを持ちたいというのがあれば、そこは大目に見る気持ちこそ大切です。

自分も含め、人それぞれに依るところが無いと不安になるのです。
それは標識なのだと割り切って、大切にしてもいいところです。

日本では昔から、どこか憎めない悪党というのが好かれてきました。
ジブリ映画にしてもガンダムにしても、相手を悪者にして終わりにはしませんでした。
敵も味方もそれぞれの信念があり、正義があり、そこに向かって必死に生きる姿がありました。

戦国時代にしても、関ヶ原にしても、幕末にしても、お互いの正義がありましたし、何よりそうしたことを日本国民が当たり前に受け入れています。

そして太平洋戦争の敗戦があればこそ、双方の義がぶつかる哀しさと虚しさは私たちの細胞の奥にまで染み込んでいるのではないかと思います。

欧米も中国も、海外の多くの国々は、その時その時の敵対相手を悪役にすることで現政権を正当化してきました。
だからこそ映画にしても物語にしても、あるいは遥か昔の神話にしても宗教にしても、善と悪との対立を背景とした勧善懲悪ものが主流となっています。

しかし、旧約聖書の創世記やエノク書には、もともと悪魔も天使も同じ存在だったと書かれています。
人間を愛したことで天使が悪魔になった。
つまり、二つの存在の差はわずかにそれだけのものでしかないということなのです。

一切の妥協を許さない完全なる真面目存在が天使で、ある意味自分に正直な存在が悪魔だったわけです。

悪魔というのは、いま描かれるような極悪非道な存在なんかでは無かったのです。
そんなものは、たとえば地獄で人を切り刻む鬼などと同じく、私たちの妄想でしかなかったということです。

「ハルマゲドン」「天使と悪魔の最終決戦」などと言うとやたらおどろおどろしいものをイメージしてしまいますが、何のことはない、
単に正義を追求する真面目人間が、自分の意に沿わない相手を悪魔呼ばわりして、差別して排除しようとするものでしかなかったわけです。

真面目が過ぎると、自分は天使になって相手が悪魔になってしまう。
これは私たちにもあてはまることです。

こうなると本当にもう、この言葉しかありません。

「真面目もほどほどに」

もっとチャランポランでいいんです。
もっと自分に素直でいいんです。

なぜ日本神話があれほど自由奔放なのか。
八百万の神々たちがすでに示されているではないですか。
寛容性とはそういうことです。

そして、私たちの御先祖様たちはすでに何千年も前からそのことを理解していたわけです。



(おわり)


  

真面目もほどほどに 2

2020-01-18 23:45:00 | 心をラクに
正しさを追いすぎると泥沼に落ち入る危険があります。

そもそもこの世には間違いなど無いと知れば、気に食わないからといって目くじらを立て過ぎることもなくなります。

とはいえ、いざ、そう考えようとすると、これまで私たちの背中を押し続けてきた信念がワーワー騒ぎだしてそれを許しません。

そうした時には、信念そのものを疑いの目で見る必要があるのですが、信念というのはなかなかの手練れでして、ありとあらゆる手を使い、もっともらしい理屈で自分の正当化を図りに来ます。

しかも、私たちは彼らが発するその言葉がまるで自分が発しているように感じるため、自問自答しているような錯覚に陥ります。
もともと自分の考えなのだと思ってしまうと、一人相撲をしてることが無駄な労力に思えて面倒くさくなってきます。

大概はここで諦めてしまいますが、そこでもう少し踏ん張り、思い切って彼らを手放そうとすると、そのこと自体を思いとどまらせるような上手い理屈を騒ぎ立て、様々に角度を変え、あの手この手で私たちを諦めさせようとします。

たとえば冒頭のケースでいえば、「この世がすべてを許容しているなら好き勝手やったもん勝ちではないか、そんなのは許されない、やはり正しさは必要なんだ」というようにです。

一つが正しいから全部が正しい、もしくは一つが間違っているからすべて間違い、と騙して私たちを思考停止に陥らせるのは彼ら(信念)の得意技です。

そしてこの方法で騙されることに慣れてしまうと、マスコミや宗教や指導者や詐欺師など、現実でも同じやり方で騙されてしまいますので要注意です。

ちなみに先ほどの「好き勝手やったもん勝ち」との反論に関しては、そもそも好き勝手というのも私たちの物差しであって、その結果もそれと同じ物差しによって測られるわけですから、問いかけの前提からしてオチは決まっている、つまり自分(信念)の正しさへ導くための出来レースと言えます。

何が得で、何が損か。
何が勝ちで、何が負けか。
詰まるところ「価値判断を追う限り、価値判断で苦しむ」という話なわけです。

物差しを使って反論証明してる時点で違うだろーってなもんです。

しかも、やったもん勝ちだとか、勝ち逃げだとかいう話は、この世が全てを許容しているという話とは何も関係のないものです。
こうした論点外しも信念が使う常套手段です。
ただここではこのままその土俵に付き合って続けたいと思います。

私たちが独自の判定器(信念、価値観、人生観、損得勘定など)を使って道を選ぶなら、その先はその道に応じた展開となります。
そしてその先に繰り広げられる展開も同じ判定器で観測されるので、苦しみは終わらない。
そのような仕組みになっています。

これは今の人生だけにかぎらず、輪廻転世にも当てはまる話です。


このような無限ループに陥るとなかなか抜け出せなくなります。
なぜなら、そこから抜け出すには道の選び方を変えるしかなく、選び方を変えるためには測定器を手放す(もしくは変更する)しかないからです。

ただ先ほども触れたように測定器は自身を手放さないように様々な理屈を組み立てます。

もちろんその測定器はそれ自身の価値観や損得勘定に基づいた理屈しか作り出せないのですが、その測定器を信じている状態ではそれが真実にしか思えなくなるわけです。

他人から見ればザルな理屈であっても、彼女に首ったけの状態では恋は盲目なのです。

そのため余程のことが起きない限り、我に帰ることは難しい。
ただ、だからこそ人生は様々なイベントが起きるようになっている、と。
そこに繋がってくるわけです。
(もちろんイベントの理由はそれだけではありませんが)

病気だったり、事件だったり、人との出会いだったり、ショッキングな出来事によって測定器を手放せる(変更する)、という仕掛けです。

昔の人はそれを御縁と言いました。

今世でループから抜け出せた人は幸いです。
それが出来ないと、また生まれ変わって再チャレンジとなり、そこでもまた囚われて同じことを繰り返すと、また生まれ変わって再トライ、ということにもなりかねません。

これをもって輪廻転生そのものが不幸であるかのように説かれることがありますが、そうではなくて、せっかく自ら望んでリトライをしたのに、同じ囚われから抜け出せずに延々と繰り返すことが不幸であるわけです。

輪廻転生は楽しいから好きでやるものです。

私たちは遊園地のフリーパス状態ですから、絶叫系で発散するのも平和系でホンワカするのも自由です。
いつだって遊園地を去れますし、夜中まで楽しむことも出来ます。

遊園地はみんなが思い思いに楽しむ場所です。
こうでなければいけない!なんて野暮の極みです。

何度も何度も絶叫系に乗りたがる人が居たところでそれを見下す人なんて居るでしょうか。
むしろサッサと退園する人のほうこそ、勿体ないと思われるでしょう。

解脱が正解で、輪廻から逃れられない自分たちは不幸だなんて思うことはこれっぽっちもありません。
しっかり叫んで、泣いて、笑って、楽しめばいいのです。

ですから、もし不幸という表現を使うならそれは、我知れず判定器にしがみつき、無自覚で絶叫系ジェットコースターに乗り続けていることこそ当てはまるでしょう。


やったもん勝ちという発想も、結局は判定器の生み出したものに過ぎません。

本人が善悪や損得といった判定器を使わず過ごしていれば、仮にそれが他人の判定器では悪事となるようなことをやったとしても、その人は自業自得の結果にはなりません。
(少なくとも本人はその結果をネガティブに受け止めない)

そうでなければ、捕食動物はみんな罪深い生き物になってしまいます。
生きながらにして悪行を重ねて、不浄を背負うなんてことがあるはずありません。

良い悪いという判断基準など、この世に存在しないのです。
ですからジャッジも存在しません。
当然、罪や罰なんてものも無いのです。

もちろん日常生活においてそんなことを言ってしまうと身も蓋もなくなるかもしれません。
ですから、判定測定器がすべてダメとは言いません。
転ばないための杖というのはそれなりの意味を持ちます。
ただ、頼りすぎると大怪我をしてしまうというだけです。
そのため、その杖というものを冷静に観察することが必要となるわけです。

そうしてしげしげと観察されると、判定器は自らを手放させまいと必死に理屈を編み出します。
ここまでこうして書いてきたのは、その必死の屁理屈に籠絡されないためのものです。


少し本題から逸れてしまいましたので元に戻したいと思います。

正義や正論を追って自分を縛るのは、自らを鳥かごに閉じ込める行為に他なりません。
せっかく色々なことを味わいに来ているのに、それは命の無駄遣いになってしまいます。

縛りつけられた自分を選ぶわけですから、縛られた現実が創造されていきます。

人生に夢も希望も無くてニートになるというのは、まさにこのパターンです。
理想と現実の折り合いがつけられず、理想に縛られた結果、縛られた現実を選んでいるわけです。

好き勝手の我執や我欲にまみれた人たちがいつまでも安息の地を得られないように、正義や正論にまみれた人たちもまた、いつまでも安心の境地に辿り着くことは出来ません。

国会議事堂に向かって拡声器で叫ぶ。
アメリカに向けてデモ行進をする。
それなのに野党の落ち度は責めず、ロシアや中国を非難することもない。

明らかに安全な相手しか批判しない。
それは本当に現実を変えたいのではなく、ただ己の不満を吐き出したいだけです。
しかしそれでは格好悪いので、依って頼れる正論を探し出す。
正論が見つかなかったら、嘘を捏造してでも必死に己のよるべを求める。

正義・正論といってもピンキリですが、いずれにしても、かくも都合のいいように作ることのできるものなのです。

いや自分の場合そんな低レベルなこととは違うと誰もが思うところですが、ここで言いたいのはその中身の話ではなく、正義や正論というものはそうやって驚くほど簡単に作られていくものだという、その仕組みのことなのでありました。

見た目どれほど凄くても、簡単に作られたものは、簡単に壊れるものです。

そこさえ押さえておけば、冷静さを失わず、耳触りのいいセリフに騙されたり囚われたりすることもなくなるでしょう。

そもそも、そのような外部からの甘言に飛びつくか否かは自分次第です。
やはり自分の心の持ちようというものが大きな要因になってくるわけです。

そんなとき「だからこそ自分に厳しく他人に迷惑をかけない!」という、これが危ない。

それは人として立派なことですが、何ごともちょうどいい加減というものがあります。
猪突猛進にやり過ぎてしまうと、何もやらない方がマシということにもなりかねません。

自分自身をクソ真面目に縛ることは、自分自身に甘く怠惰に流されることと本質的には変わりません。
我執を暴走させるという一点においては同じであるわけです。
単に名目があるか無いかの違いでしかないのです。

さらに言えば、探究心というのも一歩間違えれば迷宮に迷い込んでしまう恐れがあります。

真理を追おうとするのは根源的な衝動です。
先の見えない荒波に放り出された(ということにしている)幼子にとっては、真理というものが唯一の羅針盤です。

しかし、だからこそ、そこで間違いが起こりやすい。

真理を追うのは絶対的に正しい、それは我々の存在証明だから、と成ると、もうそれに依って頼って、己を顧みずに突っ走ってしまいます。
錦の御旗のもと、自らを籠の中に縛りつける危険があるということです。

お花畑に憧れてキラキラ輝いた目をしているのはまさしくこのパターンです。

もちろん、理想というものが進化や発展を引っ張る牽引力になっているのは間違いのないところです。
しかし、あまり一人歩きをさせすぎると現実から乖離して、ついには何処へ向かうか分からなくなります。
キラキラ輝く目は現実逃避の現れです。

いま目の前にある理想というものが、歪んだ価値観や縛られた価値観に因るものでないか、私たちはよくよく冷静に考える必要があります。

明らかな私利私欲なら誰にでも気がつきやすいですが、厄介なのはそうではないケースです。

一見すると正論であり正義であることこそ注意が必要ということです。

水中の魚は自分が水の中に居ることに気が付けないように、すでに自分は正しいと信じてしまっている状態にあると自らを客観視することが非常に難しくなります。

最初は清らかな心でスタートしていても、我執に囚われ盲目になってしまっていることがあるということです。


もし自分がどうなっているのか分からない時には「寛容性」によって判別することができます。

相手の存在を大目に見られるか、それとも決して見過ごせないか、ということです。

自分が正しいと思うことでこの世を埋め尽くしたい、それ以外のものは駆逐排除したいというのは明らかに我執の垂れ流しです。
そうしたことは、正義や理想を掲げた世界中の国々、西方の大国、あるいは隣国もしかり、また国内の左右どちらにも見られることです。

確かに自分の正しさに満たされた世界は、安心安泰に過ごせるかもしれません。
でもそれでは正しさではなく、自分の安心を求めていることになります。

こうした傾向が、特に知識階級などに多いのは、他人から認められたい、守られたい、安心したいという思いが人一倍強いというのもあるでしょう。
 
あるいは、理屈が立つほど正論・正義という隠れ蓑はより強化なものになっていきますので、頭のまわる人ほど自分で自分をますます騙して
しまっている、策士、策に溺れる」なのかもしれません。

そうした隠れ蓑は、それが崇高であればあるほど危険度が増していきます。
ですから正義や正論もしかり、ましてや真理を追うとなると、より一層の慎重さが必要となるのです。

崇高なものは高みにあるものだと思い込むと、本当の景色が見えなくなります。

落とし穴はあらゆるところにあります。
たとえば「道端の雑草にも真理が現れている」などというのも、表現の美しさに酔ってるだけということにもなり得るのです。

見た目の崇高さを追うと足元からすくわれてしまいます。

崖の上や地の果てに行かずとも、この世というのがすでに真理そのものです。
特別なもの、凄いものを探して背伸びする必要はありません。

認めたくないかもしれませんが、嫌いなアイツもダメダメな自分も、真理そのものなのです。

天地宇宙というのは、すべてを許容する世界です。
こうでなければダメというものは何一つありません。
絶対的に正しいものなど存在しないのです。  

にも関わらず、私たちは正しさというものを信じて追い続ける。
そうなると、自分は正しい、間違っているのは相手だとなる。

正しさを求める目的が自己防衛にあると、尚更それは顕著なものとなります。
絶対非難されることのないセーフティーゾーンを確保したいがために、正悪の区別をハッキリつけたがるということが起こります。

そして、ひとたびそうなると相手の言い分は一切認めなくなります。

それを認めてしまうとそのぶん自分の主張(=安心・安全)が目減りすると感じてしまうからです。
だからこそ一歩も譲らず相手を組み伏せようとする。
それは天地の理とは対極にある不寛容そのものでしょう。


見通しの悪い横断歩道なのに青信号だからと左右も見ずに無防備に渡る人がいます。

私の権利だ、私が正しい、と正義や権利を主張することが染み付いていると当たり前のことも分からなくなります。

そこに無謀な運転をする車や自転車が突っ込んでくることだってあるでしょう。
それに対して、悪いのは相手だと睨みつけて終われば幸いですが、万が一大怪我をしたり、まかり間違って命を失ったらどうなるでしょう。

もちろん悪いのは相手です。
その相手は断罪されるでしょうし、賠償金も払わされるでしょう。
でも自分の痛みや命は元に戻りません。

相手を糾弾して恨み続けたところで自分は少しも救われないわけです。
まわりに同情され、貴方は少しも悪くないと慰められても何一つスッキリするはずがありません。

正しさに寄り掛かり、外に向かっては不寛容の声をあげる。
得体の知れないものに思考も判断も預け、安心しきって無思考に生きる。

誰も責任を持たないフワフワしたものに我が身を差し出すのは、自らを「未だ目覚めぬ人類」へと貶める行為に他なりません。

私たちは、本当の本当に自由です。
すべて自分で選択できるという自由があります。
そして選択するためには判断が必要です。
そして選択した結果には責任が伴います。

自分で判断したくないから選択しないとか、責任を負いたくないから選択しないとかいう逃げ口上は通用しません。

「選択をしない」というのも私たちの選択ですし、「誰かに判断を預ける」というのも私たちの選択です。

どんな選択をしようとも、その責任はすべて私たちが負うものとなるのです。
どんなことになろうと、全てを受け入れることになるのです。

思考停止をしようとも、その結果は全て受け入れることになります。
受け入れたくなくとも、受け入れることになります。

何故なら、この世は「わたし」が主役だからです
「わたし」による「わたし」のための映画が、今まさに放映されているからです。

今この目の前の景色は、それがどんなものであろうと「わたし」のためのものです。

だから、私たちは本当の本当に自由なのです。

受け入れたくないも何も、生まれた時から、すでに上映開始なのですから「何をか言わんや」です。

料理にしてもそれぞれの美味しさがあるからこそ、私たちは色々なメニューを楽しみます。

出るもの出るものケチばかりつけて、自分は三食とも大好きなハンバーグしか食べない、なんていうのは哀れな話ではないですか。


(つづく)