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天地の心は、素朴さの中に

2015-04-22 21:11:10 | 国を常しえに立てます
小さい頃、子どもの世界には「真面目はカッコ悪い」という空気がありました。
今にして思えばそれは純粋に、エエかっこしいを指したものであり、他者からの評価を求める姿を
醜いと感じていたのでしょう。
もしかしたらその背景には、戦後の社会が、外からの評価に染まっていることがあったのかもしれ
ません。
純粋な子供の心からすれば、不自然なことに、ものすごい違和感を覚えたのだと思います。
ただ残念だったのは、真剣な真面目さも、そうした打算的なものといっしょくたにされて、カッコ悪い
ものとされてしまったことでした。

何故、そうなってしまったのでしょう。

それはやはり、この国に漂うフワフワした空気感に原因があったのではないかと思います。
地に足つかぬ、中心点の無い状態です。
そうした背景には、日本人の美意識が曖昧にされてしまったことがあると思います。
道徳心とはどういうものか、否定するのではなくあえてそれに触れさせないことで、干上がらせて
しまったのです。
その結果、分別がつかずに味噌クソ一緒になって、全否定するようになってしまったということです。

何千年もの間、私たちのご先祖さまは、当たり前のように「忠孝」というものを子どもたちに教えて
きました。
その確かな流れは、ついほんの最近まで、脈々と繋がっていたのです。
例えば、今や闇に葬られつつある教育勅語にも、それは現れていました。
読まれたことがない方が多いと思いますので、意訳を書かせて頂きます。
原文は漢文です。
こんなに短いというのも、意外に思われるかもしれません。

その前に、もう一言だけ付け加えさせて下さい。
戦前・戦中の話となると、即座に悪いもので右翼思想だと条件反射するように、私たちは植え付け
られてしまっています。
でも、右翼や左翼といった、あと付けのカラーに関係なく、良いものは良いですし、悪いものは悪い
わけです。
短絡的に全否定したり全肯定するのは、無思考そのものです。
昔から私たち日本人は、見た目のイメージやカラーなどに惑わされず、自分の心の目で、本質を
ありのままに見てとれる寛容さと聡明さを持ってきました。
良い部分を見極めて、それを抽出して純度を高め、より良いものにする。
それが日本人の歴史です。
どうか、中心を自分に置いて、真っさらな心の目で読んでみて下さい。


『教育勅語』

 ◎皇室は徳を尽くし、国民は忠義と孝行を尽くし、心を一つにして幾代にもわたり、
  立派な行ないをしてきました。
 ◎これは我が国の優れたところであり、教育の根本もそこにあります。
  そのためには、
  ・親孝行をしましょう
  ・兄弟は仲良くしましょう
  ・夫婦は仲睦まじくしましょう
  ・友だちとは信じ合いましょう
  ・行動は慎み深くしましょう
  ・他人に博愛の心を向けましょう
  ・勉学に励み、職を身につけましょう
   ・知能を開き、徳と才能を磨きましょう
  ・世のため人のためとなることに尽くしましょう
  ・憲法や法律を重んじ、秩序を守りましょう
  ・危急の事態が生じたら公のために奉仕して、皇室が天地とともに続くよう
   助けましょう
 ◎これは祖先が残した良い風習(遺風)を褒めたたえることでもあります。


いったいどんなことが書かれているのかと思いきや、あまりに当たり前のことすぎて拍子抜けした
かもしれません。
私も初めて読む前は、もっと重々しいことや難しいことが書かれているのかと思っていました。
でも、そんなおためごかしの装飾などは必要がないわけです。
躾(しつけ)というのは、そういうものかもしれません。
もっともらしい論理展開をしてガチガチに縛っても、子供の心には何も残りません。

教育勅語は、これ以上ないほどシンプルです。
しかしそれらは、どれもが核心を伝えています。
そして着飾ったりすることなく、素の姿に光をあてることで、それを誰にとっても正々堂々としたアタリ
マエのものとしたのです。
でも今の時代は、そのシンプルさをつたないなどという浅はかな判断しかせず、もっともらしい単語を
使って美辞麗句を並べるものだから、子供たちはそのシンプルな気持ちが必要となる場面で照れが
出たり、カッコ悪いものだと思ってしまったりするのです。

ここに書いてあることを押さえずして、小難しい文章を羅列させても何の意味もないのです。
言葉や表現というものは、着飾れば着飾るほど、中身は薄っぺらなものになっていきます。
逆に言えば、ここに書いてあることさえ押さえていれば、あとはそれに照らして自ずと規範が定まっ
てくるのです。

なにより、教育勅語は「親孝行」を第一にもってきています。
そして、最後は「遺風」で締めてます。
お蔭さまへの感謝をとても大切にしていることが伝わってきます。

それにしても、「遺風」というのはなんて美しい言葉でしょうか。
これは、雰囲気とか風習とかそういう意味ですが、意訳せずそのまま「風」としたほうが遥かに深い
味わいを感じます。
フワーッと、ご先祖さまたちの遺した風が漂ってきます。
その心、その温かさ、その優しさ、その苦労、喜びや悲しみ、そうしたすべてを称賛しているのです。

教育勅語は悪の権化のように思われていますので、私たちは、あまり触れる機会がありません。
でも書いてあることは、こんなに素晴らしいことだったのです。
そして世界の国々が、この教育勅語を絶賛していました。
真髄といえるものを、これほど簡潔にまとめているのですから、当然のことかもしれません。
なぜこれをGHQが必死に潰そうとしたのか、その方がビックリではないでしょうか。

確かに、戦後教育を受けた私たちからすれば、最後に書かれている“皇室を助けよう”という部分に
反応してしまうところです。
しかし、日本の皇室は、過去において一度として、国民を自分の下に見たことはありません。
そのような上から目線など、一度たりと思われたことがないのです。
それは、私たちの勝手な被害妄想や妬みが作り出した幻想でしかありません。
日々のお務めを知るだけでも、それがあり得ないことが分かるでしょう。
むしろ、そうしたものとは最も対極の場所におられるとさえ言えます。

歴代の天皇は、この島と国を己が身とし、民を「おおみたから」(大御宝)と呼び、天地へ祈りを
捧げてきました。
国を我が身とするというのは、所有という意味ではなく、霊的な意味です。
たとえば、私たちにとって、足の小指の先も、自分自身であることに変わりありません。
小指も心臓も、分け隔てなく同じ心を向けています。
それと同じです。
つまり、その天地の心を、この国の隅々にまで向けているということです。
これは本当にすごい境地です。
その透明なこころのままに、この国とこの国に住む人たちの安寧を願って、祈りを続けています。
今の御身では、文字どおり命を削る行ないです。
感謝を捧げることがそのまま生きることになられています。
まさに天地宇宙と一つ、神ながらの道です。

それだからこそ、国民もついてきたのです。
無償の愛、目に見えない陰徳は、間違いなく伝わってきます。
何をなされているのかを知らされなくても、それが伝わってくるのです。
そのような天皇陛下を国の中心に置くことで、全体がブレることなく定まり、私たち国民は気張る
こともなく自然体のままで、心を一つにして、こうして続いてきたのです。
ちょうどそれは、私たち自身も、自分の内に中心を置くことで全体がスッと統一されて落ち着くのと、
相似形を成しています。
それがいいとか悪いとか、好きだとか嫌だとか、そういう次元ではないのです。
私たちの国はそういうやり方で、実際に今に至るまで続いてきたという、その事実が全てです。

戦前とて、本当の神様だと信じ込んでいた人は、殆んどいなかったと聞きます。
ただ、そのあまりに透き通った心を思えば、まさしく神様のような人だと誰もが思っていたこと
でしょう。
実際、いわゆる『人間宣言』の時にも、国民はその意図がよく分からなかったといいます。
考えてみれば当然のことです。
「本当の神様ではないんだよ」だなんて、どこかのカルト教団ではあるまいし、いくらなんでも
日本人を馬鹿にしすぎです。
それはGHQだけでなく、その発想がベースの教科書で育った今の私たちも同じです。

戦前戦中の日本人は小さい頃から洗脳されたのだろうとか、可哀そうに情報が足りなかったんだ
ろうとか、勝手な思い込みで決めつけて、分かったような顔をするのはあまりに大人げありません。
ご先祖さまも私たちと同じ人間ですし、むしろ私たちよりも勤勉で慎み深く、遥かに聡明だったこと
を忘れてはいけません。
自分たちと異なる環境の人たちのことを思う時は、まず自分たちが謙虚に真っさらになることが
必要です。


「神様」と「神様のような人」というのは全く違います。
この国の誰よりも私心を捨て公に尽くす姿を見ればこそ、尊敬の念を抱くのです。
そして、自分たちも襟を正そうと思うのです。
皇室というブランドだけで尊敬したのではなく、そのような姿を何千年も続けてこられたことへの
敬意と感謝なのです。
決して服従とか神格化とか、そういうお仕着せのものではないのです。

そういうことを知れば、教育勅語の最後の文章も、何らおかしなものではないことが分かると思い
ます。
本当に洗脳や軍国の香りが強かったなら、そもそもヨーロッパ各国で絶賛されるはずがありません。
当時イギリスで火がついたあと、仏語、独語、中国語にも翻訳されて世界に広まったのです。
それは国際的に見ても、この文章が何もおかしくないことを示しています。
そしてさらに、それは過去の話ではなく、今でも何ヶ国かで使われているのです。
もはや言わずもがなでしょう。

当然GHQも、そうしたことは分かっていました。
私たちが戦後に刷り込まれた悪のイメージは、彼らがあれこれと練って作り上げたものですから、
彼ら自身が本当にそのように思っていたわけではありません。
私たちにとっての常識は、世界の中で私たちだけが勝手に思っている(思わされている)ものだと、
割り切る必要があります。

GHQの影は、教育界だけでなく、新聞やテレビといったメディアに、未だに色濃く残っています。
たとえばGHQ規制であるプレスコードは今でもそのまま生きており、事なかれ主義の下地となって
います。
こうしたものこそ、私たちがリセットしなくてはならない固定観念でしょう。
情報を色づけしたり、矮小化させたりしたものを、日々、私たちは目にしています。
私は、別に陰謀論などを話すつもりはありません。
すでにGHQの手を離れたはずなのに、自分たちで勝手に自分たちを縛ってしまい、囚われている
というだけです。
ですから、何でもかんでも疑う必要はありませんが、素直な天地の心をもって見極める必要があり
ます。
言われた通りに、無思考のまま自動的に飲み込むのは非常に危険です。
しかも今はテロップも同時に流れていますので、聴覚と視覚のダブルで刷り込まれる状況です。
そうしたものに慣れてしまうと、いつも頭で考えずそのまま無条件に信じる癖がついてしまいます。
まさに洗脳です。
ですから、たとえセリフが流れてきても、もっと大きな視点や、違う角度からそれを観るのです。
心を自分の中心に置き、真っさらに広げた状態で聞いていれば、おかしいものはすぐに分かります。

話を戻しますと、GHQはそれだけ日本人の教育というものを恐れたともいえます。
日本人を骨抜きにしないといけないので、教育勅語や修身教育を廃止したわけです。
それこそが、この勅語の正当性を証明することにもなります。

それは、天地の心へと導く一つの道標でありました。

聖徳太子の有名な『十七条の憲法』も同じものです。
これまた内容が深いので、詳しくは次の機会にしたいと思います。

戦後の学校教育は、私たちの国の過去の偉業を、ほとんどマトモに伝えていません。
尾ヒレを付けて過大に伝えることではありませんが、抹殺することもないのではないでしょうか。
私も、十七条憲法は「和をもって貴しと為す」しか知りませんでしたし、そういう学級ルール的な
お題目が並んでいるだけだと思っていました。

先人の知恵や知能を軽んじてはいけません。
冷静に比べてみますと、今の私たちが、いかに愚民化させられているかを痛感します。
自分たちはマトモで賢いと思い込まされているうちに、ドンドンと身ぐるみ剥がされ、それにも
気づかず自尊心だけ膨らましているというのでは、それこそ本当の愚かものになってしまいます。
ご先祖様は劣るものだとして、せせら笑って見下すように子供たちに植え付けている戦後教育は、
最低最悪というよりも、ただ、下品としか言えません。
そうやって先人たちへの敬意と感謝の心を奪うことで、この国の柱が腐るように仕向けられています。
それこそ、教育勅語で最後に書かれた言葉の、真逆を行っていることが分かるかと思います。
そこには「国が無くても自分たちは生きていける」「先祖は先祖、自分は自分」という傲慢(ごうまん)
な考えがあります。
自分たちは、自分たちの力で生きていると思っているのです。
だから、国への敬意もなければ、ご先祖様たちへの感謝もないのです。

私は、こういう人たちと心中したくはありません。

そのためには、知らないことを知るというのがとても重要なことだと思います。
知ることによって、本当の意味で、心からの感謝が芽生えるからです。

私たちの国とご先祖さまたちは、常に、天地と一体であろうとしました。
その流れを引き継いで守っていくことが、私たちの果たすべき責任です。
これは、理屈ではありません。
世界中でこれほど長く続いた国はないのです。
続いたということが重要なのです。
それこそが、この国のすがたが、天地の理にかなっている証拠だと思います。
伝統というのは、そういうものです。
伊勢の式年遷宮にしても、伝統芸能や伝統工芸にしても、男系男子の皇位継承にしてもそうです。
何故そうやるのか?という理屈は、まったく意味がありません。
これまでそうやってきたことで現に、今この瞬間まで続いて来れているということが最重要なのです。
絶えていないということが、人間の小さな心で考える以上に、説得力を持つわけです。
天地自然の流れに矛盾ないものは続くわけですし、そこに不自然な考えが混じれば絶えるのです。

戦後は、その流れを断ってしまいました。
今ここまでは、過去のご先祖さまの貯金だけで、何とかもったと言えます。
まさに、お蔭さまでもっていただけなのです。

いま一度、教育勅語を読み返してみて下さい。

ご先祖さまへ心を向けることは、天地へ心を向けることにもなります。

そして敬意と感謝の心こそが、私たちの国の柱をふたたび立て直すことになります。



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