年末に体調を崩して以来、今年はどうも体調がすぐれません。
一時は、わずかな距離を歩いただけでも息が切れたり、足が張るような有り様でした。
そういう時に限って仕事も忙しくなるもので、休む間も無くアチコチへと出張が重なり、仕事でも
トラブルが頻発するのでした。
その一方、プライベートでは色々な所へと行かさせて頂き、ヒーコラ言いながら廻ってるうちに
エネルギー当たりでぶっ倒れたりと、何とも慌ただしい数ヶ月でした。
渦中にいる間は必死でしたが、しばらくすると、やはり色々とガタが出てきます。
これまではどれだけヘロヘロになっていても、道場に入ればシャキッと一本筋が通って気力が
蘇ったのですが、
ここ最近はいくら稽古に臨んでも、締まらない状態になっていました。
これではいかん、集中しよう、気を引き締めようと思うのですが、どうにもなりません。
呼吸法をやったり、印を組んでみたり、様々なことを試みても、ピシャっと戻らず。
でも、実際はそうしたものこそ、我欲なのでした。
身体は本当に正直です。
いくらムチをふるっても、ダメなものはダメ。
ならんものはならんのです(笑)
心身の疲れは、しっかり休むことでしか取れない場合もあります。
しかし過去の成功体験があると、グッタリした心身を蘇らせようと、道場に行ってしまうものです。
ただ、それで元に戻れるのは、それなりの元気が残っている時だけです。
心を落ち着けてもなおボンヤリしてる時は、身体が休息を求めているということです。
そんな状態を情けないとは思ったりせずに、そんなもんだと受け入れることが大事です。
若い時や元気な時ならば出来たことも、年齢とともに段々と出来なくなってきます。
昔の自分でしたら、そんなのは気合いが足りないだけだと一蹴していたでしょう。
爺むさい話ですが、年をとると身体を通して少しずつ世界が広がるわけです(笑)
実際、そのようにして人を感じる心も広がっていくものです。
肉体が弱るというのは、心が大きくなることなのかもしれません。
とはいえ、そんな状態で相手に迷惑をかけてしまっては、何の意味もありません。
休んでも迷惑をかけ、出ても迷惑をかけるというのは悩ましいところですが、そういう時こそ
まわりの目ではなく、自分に中心を置く時でしょう。
これは稽古に限らず、会社や私生活にも当てはまることです。
相手は、相手の立場として望むものがあります。
こちらもそれに応えようと食らいつくのは大切なことです。
しかし、無理をした結果、相手に迷惑をかけてしまうのでは本末転倒になってしまいます。
それが我欲であろうと利他であろうと、一線を越えた無理には、シンドさしか残りません。
心がNOしている状態での無理は、心が固まっていきます。
そして心が硬くなってしまうと、体もますます硬くなってしまい、物事はますます上手く運ばなく
なります。
しかしながら、心がYESしている状態での無理は、そうではありません。
必死のバッチは、見るものの心に響きます。
そして、自分自身にも響くのです。
つまり、それは「無理」ではなく「一所懸命」ということになります。
心がYESとは、心が開いている状態なのです。
もしも身体がNOしている時は、一度自分を振り返って見るときなのかもしれません。
今の心は果たして、一所懸命なのか、それとも単なる無理強いなのかと。
実際、無理をしている時は、何をやっても楽しくありません。
どちらかと言えば「もっと上達せねば」とか「上手く対応しなくては」とか、そのような方向に心が行きがちです。
無理やりエンジンをかけている時は、そういうものです。
ハッパをかけなければ動けないのですから、自分で叱咤激励のスローガンを作り出すわけです。
「集中せねば」「気を張らねば」というのも同じことです。
一所懸命やろうとすればするほどに、かえってそのような我執に囚われてしまいます。
そして、囚われに縛られて深みにはまると、心はますます小さくなってしまいます。
その小さくなった心を無理やり動かすために、さらに大きなハッパをかけ、ますます苦しくなって
いく・・・
必死にあがけばあがくほど、余計にシンドくなっていく。
その先は袋小路しかありません。
この状態が一番ツラいところでしょう。
解決手段としては「仕方ない」とすべて諦めることです。
つまり、原点に還るしかありません。
それが頭で分かっててもなお足掻きたい時は、まだこだわりがある時です。
こんなはずではないと思う必要はありません。
上手くやろうなどと思う必要もありません。
一所懸命やろうと思う必要もないのです。
今は今です。
すべてを手放して、ただ楽しむだけです。
上手くできようが、できまいが、そんなことは本当にどうでもいいことなのです。
周りがどう言おうが、関係ありません。
自分自身が何を言おうとも、関係ないのです。
楽しんでナンボです。
この世は楽しむための世界です。
老化というのは、誰の身にもやってきます。
パフォーマンスを求めても限界があります。
大切なのは、そんなことではないわけです。
上手くできたかなどというのは、あくまで表面的なものでしかありません。
大切なのは、自分が楽しめたかどうかなのです。
楽しく感じることに、老化などありません。
自分は、最初どうしてこれを始めたのでしょう?
何故、それをこうして続けてきたのでしょう?
何もが新鮮に見えてたあの記憶。
無我夢中になっていたあの感覚。
驚きと感動に溢れていたあの頃。
誰に何を言われても、気にならなかったのではないでしょうか。
このことは、私たちがここに生まれてきた原初の思いにも当てはまります。
どうにもならない時は、原点に還る時です。
初心はいつでも、今ここに蘇ります。
それは、素直になるということです。
今の体調、今の条件での目一杯を楽しみましょう。
黒の中にも白はあります。
幸せを感じるところに、心を向けてみるのです。
それは、楽しくないのに無理やり楽しもうとすることとは違います。
ただ、楽しかった時の気持ちを思い出すだけでいいのです。
すると、いつの間にか「今」に向けて心が開いて溶けだしていくでしょう。
それこそが、一所懸命の状態なのです。
一所懸命になることと、無理をすることは、違うものです。
それは、あとから結果として現われる状態でしかありません。
楽しい気持ち、心を開いた感覚、まずはそれを追ってみましょう。
自分を覆う囚われが、一瞬にして輝き消えていくのを感じられるかもしれませんよ。
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一時は、わずかな距離を歩いただけでも息が切れたり、足が張るような有り様でした。
そういう時に限って仕事も忙しくなるもので、休む間も無くアチコチへと出張が重なり、仕事でも
トラブルが頻発するのでした。
その一方、プライベートでは色々な所へと行かさせて頂き、ヒーコラ言いながら廻ってるうちに
エネルギー当たりでぶっ倒れたりと、何とも慌ただしい数ヶ月でした。
渦中にいる間は必死でしたが、しばらくすると、やはり色々とガタが出てきます。
これまではどれだけヘロヘロになっていても、道場に入ればシャキッと一本筋が通って気力が
蘇ったのですが、
ここ最近はいくら稽古に臨んでも、締まらない状態になっていました。
これではいかん、集中しよう、気を引き締めようと思うのですが、どうにもなりません。
呼吸法をやったり、印を組んでみたり、様々なことを試みても、ピシャっと戻らず。
でも、実際はそうしたものこそ、我欲なのでした。
身体は本当に正直です。
いくらムチをふるっても、ダメなものはダメ。
ならんものはならんのです(笑)
心身の疲れは、しっかり休むことでしか取れない場合もあります。
しかし過去の成功体験があると、グッタリした心身を蘇らせようと、道場に行ってしまうものです。
ただ、それで元に戻れるのは、それなりの元気が残っている時だけです。
心を落ち着けてもなおボンヤリしてる時は、身体が休息を求めているということです。
そんな状態を情けないとは思ったりせずに、そんなもんだと受け入れることが大事です。
若い時や元気な時ならば出来たことも、年齢とともに段々と出来なくなってきます。
昔の自分でしたら、そんなのは気合いが足りないだけだと一蹴していたでしょう。
爺むさい話ですが、年をとると身体を通して少しずつ世界が広がるわけです(笑)
実際、そのようにして人を感じる心も広がっていくものです。
肉体が弱るというのは、心が大きくなることなのかもしれません。
とはいえ、そんな状態で相手に迷惑をかけてしまっては、何の意味もありません。
休んでも迷惑をかけ、出ても迷惑をかけるというのは悩ましいところですが、そういう時こそ
まわりの目ではなく、自分に中心を置く時でしょう。
これは稽古に限らず、会社や私生活にも当てはまることです。
相手は、相手の立場として望むものがあります。
こちらもそれに応えようと食らいつくのは大切なことです。
しかし、無理をした結果、相手に迷惑をかけてしまうのでは本末転倒になってしまいます。
それが我欲であろうと利他であろうと、一線を越えた無理には、シンドさしか残りません。
心がNOしている状態での無理は、心が固まっていきます。
そして心が硬くなってしまうと、体もますます硬くなってしまい、物事はますます上手く運ばなく
なります。
しかしながら、心がYESしている状態での無理は、そうではありません。
必死のバッチは、見るものの心に響きます。
そして、自分自身にも響くのです。
つまり、それは「無理」ではなく「一所懸命」ということになります。
心がYESとは、心が開いている状態なのです。
もしも身体がNOしている時は、一度自分を振り返って見るときなのかもしれません。
今の心は果たして、一所懸命なのか、それとも単なる無理強いなのかと。
実際、無理をしている時は、何をやっても楽しくありません。
どちらかと言えば「もっと上達せねば」とか「上手く対応しなくては」とか、そのような方向に心が行きがちです。
無理やりエンジンをかけている時は、そういうものです。
ハッパをかけなければ動けないのですから、自分で叱咤激励のスローガンを作り出すわけです。
「集中せねば」「気を張らねば」というのも同じことです。
一所懸命やろうとすればするほどに、かえってそのような我執に囚われてしまいます。
そして、囚われに縛られて深みにはまると、心はますます小さくなってしまいます。
その小さくなった心を無理やり動かすために、さらに大きなハッパをかけ、ますます苦しくなって
いく・・・
必死にあがけばあがくほど、余計にシンドくなっていく。
その先は袋小路しかありません。
この状態が一番ツラいところでしょう。
解決手段としては「仕方ない」とすべて諦めることです。
つまり、原点に還るしかありません。
それが頭で分かっててもなお足掻きたい時は、まだこだわりがある時です。
こんなはずではないと思う必要はありません。
上手くやろうなどと思う必要もありません。
一所懸命やろうと思う必要もないのです。
今は今です。
すべてを手放して、ただ楽しむだけです。
上手くできようが、できまいが、そんなことは本当にどうでもいいことなのです。
周りがどう言おうが、関係ありません。
自分自身が何を言おうとも、関係ないのです。
楽しんでナンボです。
この世は楽しむための世界です。
老化というのは、誰の身にもやってきます。
パフォーマンスを求めても限界があります。
大切なのは、そんなことではないわけです。
上手くできたかなどというのは、あくまで表面的なものでしかありません。
大切なのは、自分が楽しめたかどうかなのです。
楽しく感じることに、老化などありません。
自分は、最初どうしてこれを始めたのでしょう?
何故、それをこうして続けてきたのでしょう?
何もが新鮮に見えてたあの記憶。
無我夢中になっていたあの感覚。
驚きと感動に溢れていたあの頃。
誰に何を言われても、気にならなかったのではないでしょうか。
このことは、私たちがここに生まれてきた原初の思いにも当てはまります。
どうにもならない時は、原点に還る時です。
初心はいつでも、今ここに蘇ります。
それは、素直になるということです。
今の体調、今の条件での目一杯を楽しみましょう。
黒の中にも白はあります。
幸せを感じるところに、心を向けてみるのです。
それは、楽しくないのに無理やり楽しもうとすることとは違います。
ただ、楽しかった時の気持ちを思い出すだけでいいのです。
すると、いつの間にか「今」に向けて心が開いて溶けだしていくでしょう。
それこそが、一所懸命の状態なのです。
一所懸命になることと、無理をすることは、違うものです。
それは、あとから結果として現われる状態でしかありません。
楽しい気持ち、心を開いた感覚、まずはそれを追ってみましょう。
自分を覆う囚われが、一瞬にして輝き消えていくのを感じられるかもしれませんよ。
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