昔のことを振り返ると、様々に思い出が蘇ります。
時間というもののおかげで、嫌な記憶はうまい具合に風化して、何となく全体的には楽しかったような
感じがしてきます。
それでもフトした時に、嫌な思い出が鮮明に浮かび上がってきてツラい気持ちになることがあります。
人それぞれ境遇が異なりますから、ツラい思い出も千差万別です。
そうした嫌な出来事というのは、大きくは2つに分けられると思います。
一つは、誰かに何かをされたというもの。
そしてもう一つは、誰かに何かをしてしまったというものです。
いずれも相手は、親であったり兄弟であったり、妻夫であったり恋人であったり、恩人であったり友人で
あったり、様々です。
しかし、心の傷というのは、結局は自分が自分につけているものであることに変わりはありません。
誰かに傷つけられたケースでは、その時の相手を赦して受け入れること以上に、その時の自分を受け
入れることが大事になります。
ただ、頭で分かったからと言って、すぐにそれが出来るものでもありません。
今それを包み込むにはまだツラく感じるような時は、無理をしないほうがいいと思います。
そのような時は、無理やり過去を直視するよりも、まずは自分の心を解放することが先決でしょう。
これまでも触れてきましたように、少しずつ囚われや思い込みを手離して、楽しくハシャいでラクになる
ということです。
今の自分をそのまま100%自由にしてあげることは、自分をありのままで受け入れることになります。
自分の心が大きくなっていくにつれて、受け入れる幅も広がっていくわけです。
傷ついた自分を優しく受け入れられるようになれば、自ずと、その時の相手に対する見方もニュートラル
(中立)になっていきます。
相手を受け入れることで自分を受け入れられるようになるのではなく、先に自分自身を受け入れることで
相手のことも受け入れられるようになるのです。
さて、このように誰かに傷つけられたというのも大変ツラいことなのですが、一方で、自分が誰かを傷つけて
しまったというのは、それ以上にツラく感じてしまうことかもしれません。
なぜならば、前者の場合は自分さえ相手のことを許せば解決できるわけですが、後者は相手がこちらを
許さないかぎり自分は許されないと思えてしまうからです。
先ほどのような「その時の自分を優しく受け入れることで相手の傷も癒される」と考えるのは、あまりに
身勝手のように感じてしまうでしょう。
そのような時は、このように考えてみるのがいいかもしれません。
誰もがこの世界から去る時には、自分の人生を走馬灯で観させて頂きます。
そこでは自我から解き放されて、思い込みや固定観念なしの真っさらな状態で全てを感じるようになります。
観るとか考えるとかではなく、感じるわけです。
自分の心も、相手の心も。
そして事象そのものが、無色透明なニュートラルであることも感じて分かります。
自分は天地の大いなる心と一つになり、自我が消え去り、相手の心が流れてきます。
すると、たとえば誰かに何かをされてツラく苦しく感じていた出来事は、まるで第三者のように冷静に
眺められているうちに、大抵がそのままに放っておける(=赦せる)ようになります。
一方、自分が何かをして相手をツラく感じさせた出来事は、ニュートラルな心によって、その相手の心や
周囲の状況といったあらゆるものが同時に伝わってきて、鮮明に映るようになります。
自分がやったことを本当の意味で、ありのままに感じるようになります。
自分は天地の心にあるため、言い訳や自己弁護などする我欲も起きずに、それらをそのまま受け入れます。
そして、それを噛み締めて反省をするようになります。
そうして、自分がこれから何をしたいか、何ができるか、考えるのです。
この時、自分がどれだけ沢山の人たちから温かいエネルギーを注がれていたかも感じます。
それを全身全霊に感じることによって、今度は自分がそれをやろうと思うようになります。
それが死後にやることだったり、来世でやろうと誓うものになっていくわけです。
ただ、そのような臨死状態にならずとも、今この瞬間、真っさらになって相手の心を映し観れば、その
悲しみや苦しみは流れ込んできます。
当時そこに居た自分自身よりも、ありありと全体を感じ取れるようになります。
すると、今この時が一番に、過去のその時の出来事をしっかりと味わうことになります。
同様に、たくさんの人たちが自分に注いでくれていた温かい心もありのままに感じ取れるようになるわけ
です。
これはとても大事なことです。
とはいえ、そこで間違えやすいのが、傷つけてしまった申し訳なさを抱え続けてしまうことです。
正直、相手を傷つけた事実がなくなることはありません。
ですから、それを無くしたいと思うこと自体が誤りということです。
その努力は、否定的な意味づけを強めることにしかなりません。
本来それはニュートラルなものでしかありません。
そして、申し訳ないと思ってしまうこともまた、否定的な意味づけを強化していることにしかならないの
です。
その申し訳なさを解消したいと思ってしまうと、相手がそれを今も引きづっているのか、あるいはまったく
気にしていないのかヤキモキしてしまうところです。
しかし実際のところは、そんなのは何の意味も持たないことです。
たとえ相手が気にしていなかったからといって、当時の相手が傷ついたことに変わりようがありませんし、
逆に、相手がそれをキッカケとしてさらにボロボロになっていたとしても、その当時の相手の傷はそれ
以上でも以下でもないわけです。
ですから、相手の状態を気にかけて、それによって自分が救われようとか罰せられようとするアプローチ
では何の解決も生まないということです。
事実は事実でしかなく、増えたり減ったりするものではありません。
対象物それ自体が変わることはありません。
唯一、私たち自身が、大きな器でそれを受け入れるか、小さな器で溢れさせてしまうかによって対象物の
見え方が変わってくるだけです。
そしてその違いを生むのは、過去ではなく、今ここにあります。
今これから何をするかということに尽きるのです。
過去をどうにかしようということではなく、今をどうするかによって、過去も変わってくるわけです。
当時へ心を向けてどんなに後悔したり悶え苦しんだりしても、その事実は変わりようがありません。
むしろ、どうにもならない現実に苦しみ、自責の念を膨らましてしまうだけです。
ですから、焦点を過去に向けず、この今に向けるというのが必要になります。
今に100%心を向けて、そして今のあらゆるものをそのままに受け入れるように、心を開いていくわけ
です。
そうしていくことで、数限りないお陰様から頂いた温かい肌の記憶を思い出して、今度は自分がその感覚
を発現させていくのです。
これはつまり、私たちが死んだ時に来世でやろうと誓うプロセスを、生きながらにして今世のうちにやる
ことになります。
フト、色々な思い出が浮かんできた時には、死の間際の走馬灯を眺めている感覚になってそれを追って
みて下さい。
臨死ですから、自分をしっかり脱いでしまうのが、感覚をより鮮明なものにします。
昨日までの自分や、先ほどまでの自分はもうありません。
死んでしまったのですから、この先それは意味がないわけです。
もう、そこには今の肩書き、今の個性、今の自分はありません。
自分というものはすべて脱ぎおろしました。
ただ、目の前には、過去の出来事が現れているだけです。
フト思い出したそれを、事実のままに、客観的に受け入れます。
その時に、自分が傷つけてしまった人たちの心が流れ込んできます。
まるで自分の気持ちであるかのように、悲しみやツラさが心の内底から湧き出してきます。
その痛みと苦しみを、両手を大きく広げて優しく抱き締めて下さい。
そうして自然に出てきた言葉を外に出してみて下さい。
その時、傷ついていた自分自身の心も、我がことでありながら、我がことでないままに、その悲しみや
ツラさが胸の内に溢れ出ます。
その痛みと苦しみを力いっぱい抱き締めているうちに、ふたたび思いが自然に込み上げてくると思います。
そうしたら、その言葉も素直に口に出してあげて下さい。
それで十二分です。
過去の自分をありのままに抱き締めて受け入れることが全てです。
それ以上、エネルギーをそこに注ぐ必要はありません。
自分を責めてはいけません。
さて、そのようにしっかりと事実を受け入れましたら、今度は一転して、これまで自分が受けた温かい心に
目を向けます。
最期の走馬灯を眺めている感覚になって、過去へ心を開きます。
たくさんの愛情を注いでくれた祖父母、両親、家族、伴侶、友だち、お世話になった方たちの心に、自分を
重ねていきます。
そうして、いつも自分に注がれていた優しい風を全身で感じてみます。
そのおかげさまに触れた時に湧きあがる感覚へ、フルオープンの素っ裸になって自らを投じます。
全身が感謝に包まれ、それがすべての毛穴から一斉に流れ込んできます。
そうするうちに皮膚は消えてなくなり、自分は感謝の心そのものになります。
感謝が自分であり、自分は感謝となります。
これからは、注がれた愛をお返しする番です。
それは天地に満ち満ちているものを、自分の中心を通して、また天地へと発露させることです。
天地に満ちるは、感謝の心であり、優しさであり、温かさであります。
それを、とどめることなく循環させるのです。
私たちはこの世界のポンプです。
私たちは天地宇宙の、まさに心臓です。
天地の循環の中心は、私たち自身なのです。
「一人一人が創造主」というのはそういうことです。
人間は神の一部であるとは、そういうことです。
そして、これは現実世界に実体を持っている私たちだけができることなのです。
人生で何をやりたいか、何を現実化したいか、人にはそれぞれあるでしょう。
あるいは、何かをやりたいけども、それが何かが分からないという人もあるでしょう。
ただ、何かをやるという、実際の見た目の形はあまり重要ではありません。
天地宇宙に満ち満ちている、この温かな安らぎを、自分を通してまた外へと溢れさせることが全てです。
見た目の形は、そうしたものの結果でしかありません。
何だか分からないけど何かしなくてはという焦燥感は、天地自然の循環に参画したいという衝動です。
そうした時に、見た目の形を探そうとすると、ますます混乱が生じ、飢餓感が増してしまいます。
何かをしたいけども具体的に何をすればいいか分からないならば、天地宇宙や人々から頂いた優しさ、
注がれた愛情、安らぎを、心の内から外へ溢れさせてみてはどうでしょうか。
具体的な行動や言葉を考える必要はありません。
ただ、その感覚を思い出して、皮膚の外へ溢れさせるだけです。
私たちは、天地に満ち満ちる温もりのなかに、優しく包まれています。
そして私たちが、自分の中心から同じものを溢れ出させることで、天地もさらに輝き満ちるようになります。
その天地の輝きは、私たちを、ますます溢れる優しさで包みこんでいきます。
その喜びに、私たちの内からさらなる輝きが溢れ出していきます。
それは天地の呼吸そのものです。
私たちは、天地の循環の中心なのです。
温かく優しい心を、自分の外へと溢れ出してみて下さい。
天地が私たちへ注いでいる温もりの、その感覚を真似してみて下さい。
両親や家族、妻夫、恩人、友人、恋人、そうした人たちが自分へ注いでくれた温かさを、今度は目の前の
人たちへ向けてみて下さい。
自分が過去に誰かを傷つけた事実や、傷つけられた事実というものが無くなることはありません。
ただ、そうした天地の呼吸が、自分の過去を優しく包み込んでいくうちに、そのツラさは少しずつ癒されて
いくことでしょう。
それにより、過去の相手だけではなく、過去の自分自身が天地へと溶け込んでいくことになります。
そうして、その時の相手、その時の自分に、心からの感謝を思うようになるでしょう。
今の私たちが、過去の自分を温かく包み込むことで、過去の自分から優しい温もりが溢れ出します。
私たちが、過去の自分を救うのではありません。
私たちが、過去の自分によって、救われるのです。
ツラく傷ついた過去の自分自身によって、フワッと優しく抱き締められるのです。
私たちは、つねに天地宇宙の中心にあります。
本当の私たちというのは、時間や空間の壁もなく、他人や自分の違いもなく、内と外の区別もなく、ありと
あらゆる方向から満ち溢れる優しい温もりに包まれているのです。
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時間というもののおかげで、嫌な記憶はうまい具合に風化して、何となく全体的には楽しかったような
感じがしてきます。
それでもフトした時に、嫌な思い出が鮮明に浮かび上がってきてツラい気持ちになることがあります。
人それぞれ境遇が異なりますから、ツラい思い出も千差万別です。
そうした嫌な出来事というのは、大きくは2つに分けられると思います。
一つは、誰かに何かをされたというもの。
そしてもう一つは、誰かに何かをしてしまったというものです。
いずれも相手は、親であったり兄弟であったり、妻夫であったり恋人であったり、恩人であったり友人で
あったり、様々です。
しかし、心の傷というのは、結局は自分が自分につけているものであることに変わりはありません。
誰かに傷つけられたケースでは、その時の相手を赦して受け入れること以上に、その時の自分を受け
入れることが大事になります。
ただ、頭で分かったからと言って、すぐにそれが出来るものでもありません。
今それを包み込むにはまだツラく感じるような時は、無理をしないほうがいいと思います。
そのような時は、無理やり過去を直視するよりも、まずは自分の心を解放することが先決でしょう。
これまでも触れてきましたように、少しずつ囚われや思い込みを手離して、楽しくハシャいでラクになる
ということです。
今の自分をそのまま100%自由にしてあげることは、自分をありのままで受け入れることになります。
自分の心が大きくなっていくにつれて、受け入れる幅も広がっていくわけです。
傷ついた自分を優しく受け入れられるようになれば、自ずと、その時の相手に対する見方もニュートラル
(中立)になっていきます。
相手を受け入れることで自分を受け入れられるようになるのではなく、先に自分自身を受け入れることで
相手のことも受け入れられるようになるのです。
さて、このように誰かに傷つけられたというのも大変ツラいことなのですが、一方で、自分が誰かを傷つけて
しまったというのは、それ以上にツラく感じてしまうことかもしれません。
なぜならば、前者の場合は自分さえ相手のことを許せば解決できるわけですが、後者は相手がこちらを
許さないかぎり自分は許されないと思えてしまうからです。
先ほどのような「その時の自分を優しく受け入れることで相手の傷も癒される」と考えるのは、あまりに
身勝手のように感じてしまうでしょう。
そのような時は、このように考えてみるのがいいかもしれません。
誰もがこの世界から去る時には、自分の人生を走馬灯で観させて頂きます。
そこでは自我から解き放されて、思い込みや固定観念なしの真っさらな状態で全てを感じるようになります。
観るとか考えるとかではなく、感じるわけです。
自分の心も、相手の心も。
そして事象そのものが、無色透明なニュートラルであることも感じて分かります。
自分は天地の大いなる心と一つになり、自我が消え去り、相手の心が流れてきます。
すると、たとえば誰かに何かをされてツラく苦しく感じていた出来事は、まるで第三者のように冷静に
眺められているうちに、大抵がそのままに放っておける(=赦せる)ようになります。
一方、自分が何かをして相手をツラく感じさせた出来事は、ニュートラルな心によって、その相手の心や
周囲の状況といったあらゆるものが同時に伝わってきて、鮮明に映るようになります。
自分がやったことを本当の意味で、ありのままに感じるようになります。
自分は天地の心にあるため、言い訳や自己弁護などする我欲も起きずに、それらをそのまま受け入れます。
そして、それを噛み締めて反省をするようになります。
そうして、自分がこれから何をしたいか、何ができるか、考えるのです。
この時、自分がどれだけ沢山の人たちから温かいエネルギーを注がれていたかも感じます。
それを全身全霊に感じることによって、今度は自分がそれをやろうと思うようになります。
それが死後にやることだったり、来世でやろうと誓うものになっていくわけです。
ただ、そのような臨死状態にならずとも、今この瞬間、真っさらになって相手の心を映し観れば、その
悲しみや苦しみは流れ込んできます。
当時そこに居た自分自身よりも、ありありと全体を感じ取れるようになります。
すると、今この時が一番に、過去のその時の出来事をしっかりと味わうことになります。
同様に、たくさんの人たちが自分に注いでくれていた温かい心もありのままに感じ取れるようになるわけ
です。
これはとても大事なことです。
とはいえ、そこで間違えやすいのが、傷つけてしまった申し訳なさを抱え続けてしまうことです。
正直、相手を傷つけた事実がなくなることはありません。
ですから、それを無くしたいと思うこと自体が誤りということです。
その努力は、否定的な意味づけを強めることにしかなりません。
本来それはニュートラルなものでしかありません。
そして、申し訳ないと思ってしまうこともまた、否定的な意味づけを強化していることにしかならないの
です。
その申し訳なさを解消したいと思ってしまうと、相手がそれを今も引きづっているのか、あるいはまったく
気にしていないのかヤキモキしてしまうところです。
しかし実際のところは、そんなのは何の意味も持たないことです。
たとえ相手が気にしていなかったからといって、当時の相手が傷ついたことに変わりようがありませんし、
逆に、相手がそれをキッカケとしてさらにボロボロになっていたとしても、その当時の相手の傷はそれ
以上でも以下でもないわけです。
ですから、相手の状態を気にかけて、それによって自分が救われようとか罰せられようとするアプローチ
では何の解決も生まないということです。
事実は事実でしかなく、増えたり減ったりするものではありません。
対象物それ自体が変わることはありません。
唯一、私たち自身が、大きな器でそれを受け入れるか、小さな器で溢れさせてしまうかによって対象物の
見え方が変わってくるだけです。
そしてその違いを生むのは、過去ではなく、今ここにあります。
今これから何をするかということに尽きるのです。
過去をどうにかしようということではなく、今をどうするかによって、過去も変わってくるわけです。
当時へ心を向けてどんなに後悔したり悶え苦しんだりしても、その事実は変わりようがありません。
むしろ、どうにもならない現実に苦しみ、自責の念を膨らましてしまうだけです。
ですから、焦点を過去に向けず、この今に向けるというのが必要になります。
今に100%心を向けて、そして今のあらゆるものをそのままに受け入れるように、心を開いていくわけ
です。
そうしていくことで、数限りないお陰様から頂いた温かい肌の記憶を思い出して、今度は自分がその感覚
を発現させていくのです。
これはつまり、私たちが死んだ時に来世でやろうと誓うプロセスを、生きながらにして今世のうちにやる
ことになります。
フト、色々な思い出が浮かんできた時には、死の間際の走馬灯を眺めている感覚になってそれを追って
みて下さい。
臨死ですから、自分をしっかり脱いでしまうのが、感覚をより鮮明なものにします。
昨日までの自分や、先ほどまでの自分はもうありません。
死んでしまったのですから、この先それは意味がないわけです。
もう、そこには今の肩書き、今の個性、今の自分はありません。
自分というものはすべて脱ぎおろしました。
ただ、目の前には、過去の出来事が現れているだけです。
フト思い出したそれを、事実のままに、客観的に受け入れます。
その時に、自分が傷つけてしまった人たちの心が流れ込んできます。
まるで自分の気持ちであるかのように、悲しみやツラさが心の内底から湧き出してきます。
その痛みと苦しみを、両手を大きく広げて優しく抱き締めて下さい。
そうして自然に出てきた言葉を外に出してみて下さい。
その時、傷ついていた自分自身の心も、我がことでありながら、我がことでないままに、その悲しみや
ツラさが胸の内に溢れ出ます。
その痛みと苦しみを力いっぱい抱き締めているうちに、ふたたび思いが自然に込み上げてくると思います。
そうしたら、その言葉も素直に口に出してあげて下さい。
それで十二分です。
過去の自分をありのままに抱き締めて受け入れることが全てです。
それ以上、エネルギーをそこに注ぐ必要はありません。
自分を責めてはいけません。
さて、そのようにしっかりと事実を受け入れましたら、今度は一転して、これまで自分が受けた温かい心に
目を向けます。
最期の走馬灯を眺めている感覚になって、過去へ心を開きます。
たくさんの愛情を注いでくれた祖父母、両親、家族、伴侶、友だち、お世話になった方たちの心に、自分を
重ねていきます。
そうして、いつも自分に注がれていた優しい風を全身で感じてみます。
そのおかげさまに触れた時に湧きあがる感覚へ、フルオープンの素っ裸になって自らを投じます。
全身が感謝に包まれ、それがすべての毛穴から一斉に流れ込んできます。
そうするうちに皮膚は消えてなくなり、自分は感謝の心そのものになります。
感謝が自分であり、自分は感謝となります。
これからは、注がれた愛をお返しする番です。
それは天地に満ち満ちているものを、自分の中心を通して、また天地へと発露させることです。
天地に満ちるは、感謝の心であり、優しさであり、温かさであります。
それを、とどめることなく循環させるのです。
私たちはこの世界のポンプです。
私たちは天地宇宙の、まさに心臓です。
天地の循環の中心は、私たち自身なのです。
「一人一人が創造主」というのはそういうことです。
人間は神の一部であるとは、そういうことです。
そして、これは現実世界に実体を持っている私たちだけができることなのです。
人生で何をやりたいか、何を現実化したいか、人にはそれぞれあるでしょう。
あるいは、何かをやりたいけども、それが何かが分からないという人もあるでしょう。
ただ、何かをやるという、実際の見た目の形はあまり重要ではありません。
天地宇宙に満ち満ちている、この温かな安らぎを、自分を通してまた外へと溢れさせることが全てです。
見た目の形は、そうしたものの結果でしかありません。
何だか分からないけど何かしなくてはという焦燥感は、天地自然の循環に参画したいという衝動です。
そうした時に、見た目の形を探そうとすると、ますます混乱が生じ、飢餓感が増してしまいます。
何かをしたいけども具体的に何をすればいいか分からないならば、天地宇宙や人々から頂いた優しさ、
注がれた愛情、安らぎを、心の内から外へ溢れさせてみてはどうでしょうか。
具体的な行動や言葉を考える必要はありません。
ただ、その感覚を思い出して、皮膚の外へ溢れさせるだけです。
私たちは、天地に満ち満ちる温もりのなかに、優しく包まれています。
そして私たちが、自分の中心から同じものを溢れ出させることで、天地もさらに輝き満ちるようになります。
その天地の輝きは、私たちを、ますます溢れる優しさで包みこんでいきます。
その喜びに、私たちの内からさらなる輝きが溢れ出していきます。
それは天地の呼吸そのものです。
私たちは、天地の循環の中心なのです。
温かく優しい心を、自分の外へと溢れ出してみて下さい。
天地が私たちへ注いでいる温もりの、その感覚を真似してみて下さい。
両親や家族、妻夫、恩人、友人、恋人、そうした人たちが自分へ注いでくれた温かさを、今度は目の前の
人たちへ向けてみて下さい。
自分が過去に誰かを傷つけた事実や、傷つけられた事実というものが無くなることはありません。
ただ、そうした天地の呼吸が、自分の過去を優しく包み込んでいくうちに、そのツラさは少しずつ癒されて
いくことでしょう。
それにより、過去の相手だけではなく、過去の自分自身が天地へと溶け込んでいくことになります。
そうして、その時の相手、その時の自分に、心からの感謝を思うようになるでしょう。
今の私たちが、過去の自分を温かく包み込むことで、過去の自分から優しい温もりが溢れ出します。
私たちが、過去の自分を救うのではありません。
私たちが、過去の自分によって、救われるのです。
ツラく傷ついた過去の自分自身によって、フワッと優しく抱き締められるのです。
私たちは、つねに天地宇宙の中心にあります。
本当の私たちというのは、時間や空間の壁もなく、他人や自分の違いもなく、内と外の区別もなく、ありと
あらゆる方向から満ち溢れる優しい温もりに包まれているのです。
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