これでいいのダ

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All you need is now.

2017-07-14 00:00:38 | 天地の仕組み
この世が一瞬一瞬の連続ということは、頭では分かっていても実感として湧きにくいものです。

この現実というのが、流れというもの、変化というものを体験するために作り上げられたものだとすれば、ここまで見事に騙されるというのは
まさにドッキリ大成功だと言えます。

ただ、そもそもの成り立ちを考えれば、騙されたままでいるのが健全であり、疑うことなく素直に過ごすのが最良となります。
たとえ人生に悩み苦しんだとしても、悩み苦しみもまたこの世を楽しんでいることの一つであるわけです。

とはいえ、ものには限度というものがあります。
物質的に満たされきって明日の生活が保証されてしまうと、生きることそのものが薄くなってしまいます。
喜びも悲しみも苦しみも、全てが薄まっていく。
そうすると刺激を求めて自我が肥大していくことになります。

先史文明にせよ、古代ローマにせよ、今この現代にせよ、飽食の時代には必ずそのような状況が訪れます。
それというのは結局は、この現実世界に騙されたままで生きていくことの行き詰まりだと言えます。

自我に囚われず健全に生きていける素直な人たちには、このような小賢しい話は無用でしょう。
ただそうではない場合は、現実の騙し絵を知る時かもしれません。

飽食の時代というとネガティヴなイメージを抱いてしまいますが、そのような状況に置かれて初めて新しいものが見えるという側面もあります。
そこで意識が変わらなければ、これまで同様また振り出しに戻って一から文明の築き直しということにもなるでしょう。

では、生き詰まりに直面している、まさに今ここでの意識転換とは何か。
それこそが冒頭にも書きました、一瞬一瞬の実在にあります。

子供の頃に落書きしていたパラパラ漫画を思い返しますと、ノートの一枚一枚に絵を描き込んでいました。

当たり前の話ですが、そこには一枚一枚のノートが実在するだけで、一枚一枚の間にはイラストもノートも無い「ただの空間」が広がっている
だけでした。
そしてそれは本当の私たちが存在する場所でもありました。

ノートをゆっくりめくれば、そうした一枚一枚を実感できましたし、本当の私たちが暮らす空間も目に入ってきました。
ノートの白地やザラつき感、あるいはノートの端っこ、ノートのまわりの景色、そういった全景が認識できたわけです。


パラパラめくるのが早くなっていくにつれて、イラストは滑らかに動き出し、ノートの中を走り出しました。
すると私たちの心はその走り出したキャラクターへフォーカスされていき、ノートの存在は消え去っていきました。

この世もまたそれと同じで、ノートに描かれた自分だけでなく、そこで動き出した他人や風景へと意識がフォーカスされていくうちに、ノートの
存在や本当の私たちが居る世界はすっかり薄れていき、ノートの世界が勝手に動いているように思うようになりました。

パラパラのノートの中で、何かが起きて、何かを感じる。
この世というのは、様々な変化を体感することで感情を味わう仕組みになっているということです。

しかし、そうしたことが当たり前になりすぎて、この世界や私たちは勝手に存在して勝手にパラパラ動いていくものだと思うようになると、
私というキャラクターにさえ心を向けることがおろそかになり、ただパラパラとノートだけがめくられていくようになってしまいます。

つい先日の大祓いの時にもハタと気づくのは、普段忘れてしまっている様々な臓器の存在でした。
その存在を忘れて心が通らないままでいると、その臓器は病気になってしまいます。
そうした氣枯れ(けがれ)を避けるために、その存在に心を向けて、感謝して氣を通すのが大祓いでした。

私たちやこの世界の存在というものもまた同じで、私たち自身の氣枯れによって大きな揺り返しを起こします。
病気や災害事故というのは、私たちの心が薄れたところに氣を通わせるための自浄作用という側面もあるということです。

パラパラ漫画の中で走り出した自分に心を向けず、ついついノートに描かれていないことに心を向けてしまう。
これが嫌だという不満や、これが羨ましいという欲望といったものは、今この一枚には描かれていない夢想に心が奪われた状態です。

目の前にあるノートの一枚がこの世の全てです。
それ以上でもそれ以下でもない。
過去の後悔にせよ、未来の不安にせよ、物足りぬ不満にせよ、今ココには存在しないただの夢想でしかありません。

身体でも、国土でも、私生活の出来事でも、そこに起きるハプニングというのは、今ココ、この目の前の一枚に心を向けさせるための助け舟と
なります。
忘れた頃にやってくるとはこの理によります。

心が薄れる、心が届いていないというのは、ノートの一部に囚われている状態、あるいはノートからソッポを向いて夢想世界に囚われている
状態と言えます。

そうした囚われがなくなり全景が映っている時というのは、心は縛られず四方八方へと広がっていきます。
広げようとするのではなくハナから広がっている。縛りをなくせば勝手にそうなる。

何故ならば、そもそもこの天地宇宙を包むように広がっているのが私たちだからです。

とはいえ、囚われというのを無くすのは一朝一夕にできるものではありません。
だからこそ病気や事故、災害というものは私たちの心をリセットさせるための着付け薬の役目となってくるわけです。

逆説的に言えば、それらを回避するには日頃からこのノート全景に心を広げればいいということになります。

ただその領域に常に在り続けようとすればするほど、それ自体が囚われとなって悩み深くなっていきます。
ですから、時々ハタと気付いた時に心で手を合わせて感謝を思うことが大切ということです。
その瞬間、穢れ(氣枯れ)は祓われて再びこの世界は活き活きとしていくことでしょう。




本当に余計なことを何もしなければ、私たちの心は自然にノートの全景に広がっていきます。
描かれたキャラクターにフォーカスしないということではなく、それは私たちやまわりの人たちがしっかりと見えた状態です。

常に目の前の一枚にしっかりと心を向けることが、次の一枚の変化を味わい切れることになります。

そもそも今に心を向けることが難しくなってしまう一番の原因は「今」というものの捉え方にあります。

私たちは何処かへ向かう時、そのゴールへ行くために一歩一歩を歩いていきます。
駅やスーパーへ行くために一歩一歩を歩いていくという、その一歩です。
この時、一歩というのは、私たちにとってゴールにたどり着くための一歩と成ります。

ゴールを設けるとすべて逆算の心となり、今の積み重ねがゴールへの過程と考えるようになります。
つまり、今そのものへの集中は薄れ、今を透き通してその向こうの未来を見るようになってしまうということです。

それでも、今というのがゴールに向けて必要な時間だと考えるならば心のフォーカスは今に対して向けられるためまだ大丈夫ですが、ゴールに
着くためには仕方のない時間だと考えるようになってしまうと今というのはただ通り過ぎるだけのものと化してしまい、全景どころか今そのもの
が目に映らなくなってしまいます。

掃除にしても綺麗にしようと思いながらやれば気持ちよく今に集中できますが、早く終わらせて休みたいとか、ラクになりたいとか思いながら
やると、心は今を離れて別のどこかへと飛んでしまいます。

目の前のパラパラ漫画にどんなものが描かれていようと、それがこの世の全てです。
今この時この瞬間が世界の全てであり、それがこの先のどこへ繋がるかなどは本来何の意味も持たないわけです。

目の前にある一枚は天地宇宙そのものです。
あれこれ優劣判断をつけること自体、畏れ多く、愚かしいということになります。
前後の一枚と関連づけて価値判断するのは、脳内の夢想でしかないということです。

今この時が全て。
どこか先にゴールがあってそこへ向かうための一歩なのではなく、ココにはただ今があるだけ。

たまたまそれが数珠繋ぎになって何らかの因果が生じるために私たちは前後左右と比較しながら色づけをしてしまいますが、そんな色なんてのは
後づけのものでしかありません。
天地宇宙には、常に今この一枚しかない。
悩みも苦しみも、今ココとは違うものとの比較でしか生まれません。


それを身体に焼き付けるため、禅や修験道では作務や回峰行を行ないます。

作務というのは心を掃除するとも言いますが、もうすでに綺麗なお堂や庭を掃除することは一見無駄に見えるがゆえにその無駄を通して囚われを
なくすというものです。

無駄という言葉の裏には、何かの為にならないのならやる意味が無いという思い込みが隠れています。
何をやるにしても、必ず何かの為の行ないになっているという決めつけが無意識のうちに私たちの中にはあります。

常に何かの意味を持たせることに慣れてしまっている私たちは、「今」それそのものに対して透明な状態で接することが出来なくなっています。

何時まで掃除をするとか、綺麗にするため掃除をするというのは、まず目的がありゴールがある考え方です。
そうした目的やゴールを無くすと、そこにはただ目の前を掃除するという時空だけが存在することになります。

ゴールなど無くして掃除自体を目的にしてしまうと、逆算の心は無くなり、今の一枚に没頭できるようになります。

「目の前を綺麗にすることで自分の心を綺麗にする」というのは、要するに移ろう心を今に向けさせて我執を祓うということであり、結局それは
今ココと一つになるということに他ならないわけです。

同じく回峰行にしても、山の頂やお堂などをゴールにするのではなく、ただ歩くことを目的とすることによって「道」というものを心の中
から消失させて、今の一歩一歩に集中させるための方便となっています。

いつまでとか、何処までとか、先を決めてしまうと私たちの心は無意識のうちにその未来と今を結びつけてしまいます。
そうしますとゴールという幻影が頭に刷り込まれた状態で、今を過ごすことになっていきます。
無色透明であった一歩一歩に、ゴールへ着くための一歩という色づけすることになるわけです。

目の前に映る一つ一つのイラストは、本来それ以上でもそれ以下でもないのは分かりきったことのはずなのに、無意識のうちに様々な意味づけ
がされてしまう。

スーパーに行くために自転車に乗ったり、会社に行くために電車のラッシュに揉まれたりしますが、それらは本当はそれそのものでしかありません。
「スーパーに行くための」ペダルひと漕ぎでもありませんし、「会社に向かうための」ラッシュ通勤でもないのです。
それらは、それそのものでしか無い。

ペダルひと漕ぎが天地宇宙のすべてであり、ラッシュ通勤のひとコマが広大な一枚絵なのです。

それが今ココに生きるということです。


パラパラ漫画を極限までスローにし、前後の繋がりを断ち切ってただの一枚絵にしてしまいますと、今この瞬間というものがとてもよく
見えてきます。

チャカチャカと動いている自分しか見えなかったのが、それ以外のものも見えるようになります。まさにパラパラ漫画のそれです。

未来のゴールや過去の出来事に向いていた心がココに戻り、今の全景がよく見えるようになってくる。
武道家や高僧、職人など、今に集中しきった人たちの落ち着ききっている状態、深くまで広がっている状態とはまさにこのことです。

先の手を読んで勝とうとしたり、反射速度を上げて勝とうとするのは初歩の初歩。
今ココに在り続ける人には絶対に勝てません。
それは速度や腕力とは別次元の話です。

ノートに囚われず、今という一瞬を広く大きく受け入れている状態。
常に今ココにある状態。

それを、氣が広がっている状態と呼んだり、天地と一体になっている状態と呼んだりもします。
そうなろうとしているのではなく、結果としてそうなっている状態です。

それは、次の変化を誰よりも早く感じ取り、そして誰よりも早く受け入れる状態ということでもあります。
常に目の前の今と溶け合って一体になっているため、先ほどとのわずかな違いが我が身そのものとして感じられる。
そして、その違いもまた完全に受け入れきっている。

受け入れられてしまっている相手は、勝ち負けという次元を飛び越えて、もう何もできないわけです。


さて、自分がそうであるようにまわりもまた、今このノートのパラパラ漫画を見ている一人であります。
途轍もない数の人たちがパラパラ漫画を観ているのがこの世ということです。
そうして、それぞれがその中の「自分」に心奪われ身も心も入り込んでいるということです。

今だけを味わいきろうとした時、私たちはこの天地宇宙を広く深く感じられるようになります。
そしてそれは目の前の今をありのまま受け入れている状態ということでした。

目の前の全てを受け入れている状態とは、その景色に映る人も物も無条件に包み込んでいる状態です。
その場に居る人たちは心地よさにホッコリとした優しく温かい気持ちになるでしょう。
まさに赤ちゃん最強伝説の所以です。

今と共に在る。

それこそは天地の心であり、大御心であるわけです。