有松絞の源流は1600年関ヶ原の戦い後に始まる
奈良正倉院には奈良時代からの絞りの染織があるが、一般に広まったのはかなり後、そして有松では庄九郎絞りが始まった。
東海道ができ有松の絞りは一気に全国区になった
その後本家の庄九郎は医師や学者になり絞りから遠のき、分家の嘉兵衛が絞りを受け継ぎ開業したのが1750年
このころ尾張徳川家の殿様たちは、領土の文化復興を盛んにするべく、有松全体に五万石の税金を与えて繁盛させていたらしい
税金を郷土の文化発展に使っていたようだ
特に徳川宗治の時はジャンジャン作ってどんどん日本中に売りさばこうという姿勢で、作る技術を磨く有松、その製品を売りさばく鳴海という具合にそれぞれの町の生き方を整理して、絞りの発展を促進させていた
今回分かったのだが
藍も盛んだったようで、更に熱田辻が花染というのもあったようだ
兼ねてチャ子ちゃん先生は家康の胴服、武田信玄、秀吉などの胴服の辻が花染めは、通常に認知されている辻が花染めとどうも違うように感じていたので、熱田神宮の美術館にいらした学芸員さんが、辻が花染めも尾張で出来たのではないかという主張に深くうなずくのである
その証拠に熱田神宮のそばの町名「辻が花町」とか「織町」あったらしい
鳴海はもともと宿場町だったので、ここで有松絞や辻が花染めは販売されていたのだろう
旧東海道に沿った家並みは今も美しい
それぞれの絞りの店は400年の歴史を持つ。江戸時代の天明の大火で燃えたけど、技術力販売力がありすぐ復興
大東亜戦争で熱田神宮さへ爆弾が落ちているのにこの地は落ちていない
それはこの有松に「捕虜収容所」があったせいではないかといわれている
同胞をむざむざ死なすわけにはいかなかったのだろう
旧東海道の町並みは私たちの歴史の宝