今日は久しぶりに良い本を読んだ。森鴎外の「ヰタ・セクスアリス」を読んだのである。昔の本だが、作者の淡々とした気迫が伝わってくるすばらしい本であった。そういえば、前にも横光利一の「花園の思想」を読んで、感激した事があった。今回もそれと同様である。私はあまり、日本文学に詳しくない。しかし良い本科、悪い本かの区別は出来る。これは理性的ではない。直観的に分かるものなのである。大抵の日本文学を読んでも、ぴんとは来ない。だが今回は違って、思わず深く読み込んでしまった。何が良いというのは説明するのが、難しい。したがって、私は良いか、悪いかを判断するのを感覚にまかせている。私はあらゆるものに鋭敏である。反対に「鴈」はあまり読む気にはなれなかった。同じ作者でもその時、その時の心情がある。情熱をこめて作品を書けば、最初は認められなくても後に認められる。だから、残る本は純文学や哲学書などになってしまうのである。人々もさすがに鈍感ではない。きっと、売れ行きの良い本をたくさん読んでいて、疑問がわいてくるだろう。そして、残るのはすばらしい本だけである。どこかの国の格言にこうある。「読まれざるために、永遠に読まれない本を書く」と。純文学などは一気に売れるものではない。次第に浸透してゆくものである。シェイク・スピアだって、彼が存命中、認める人は少なかった。実際、他人に認められることに意味はない。その人物が元々卓越した人物ならば、次第にその功績は認められ、その本は長い事読みつがれるのである。そして、やはり森鴎外の作品もそうであろう。自分に自信があれば、何も怖い事はない。それより、よっぽど怖いのが自分の作品に対する客観的な意見である。その意見を他人に言われても、さほどの恐怖は感じない。しかし自分で自分の本を見て、批評してみると、悪い部分ばかりが目に付き途中で怖くなってしまうのである。だから、私は校正をした自分の本を読む気にはなれないのである。だが自分の事を自ら批評する事は重要な事なのである。自分の特質を知れば、おのずと道は開かれるのである。しかしそれでも怖い。自分としては買ってそんな無い本を立派に作ったと、自負しているが、それでも自分の悪い部分を見るのは怖いのである。その繰り返しが始終行われる。すると、段々と自分の事が分かってくる。人間とは所詮、そんなものである。人々は人生の中で輪廻が起こっているの気づかない。前にも考えた事を再度考える。それからまた他の考えた事をまた批評してみる。所詮、人間とはこんなものである。輪廻する魂が現世にただよっている、人間とはそんな感じの生き物なのである。
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