A collection of epigrams by 君塚正太

 君塚正太と申します。小説家、哲学者をしています。昨秋に刊行されました。本の題名は、「竜の小太郎 第一話」です。

自己の存在価値など、現実には存在しない。

2007年01月20日 04時42分22秒 | 思想、警句
 まずこの言葉を聴いて、人々は驚くであろう。なぜなら自己の存在価値血を持たない人間は、孤立無援の状態に陥るからである。しかしそこに一体何の意味があるのだろうか?人々は過剰に自分を誇示しすぎる。これは悪癖である。つまり、私の述べたい事はこう言うことなのである。存在価値と現実の狭間についての考察である。この考察が厄介なもので、説明にも労を要するが、ぜひとも語らなければならない。私と同世代で自己の存在価値を真剣に考えている若者たちに一石を投じるために私は明解に存在価値の意味とその効用、そして悪癖をここで表明しなければならないのである。
 最初に存在価値の意味を述べたいと思う。いくら専門家が口をそろえて、存在価値の重要性を述べてもそれは徒労に終わる。つまり彼らには現実が見えていないのである。私なら彼らのように長々と話をしなくても明瞭に存在価値の意味を答える事ができる。では、そろそろ前進する事にしよう。
 人がこぞって自分の存在価値を見つけようとする時に起こす行動は、ある程度決まっている。そのもっとも顕著な例が友達を作る、という事である。もともとアリ社会みたいなしっかりとした社会構築ができない人間。また単独で行動するにしてもそれができない人間。ようは人間とはアリと一匹狼の中間に位置する生物なのである。そしてこの見解を踏まえれば、おのずと答えは分かってくる。
 私は手っ取り早く存在価値を得る方法を先ほど挙げた。友達を作れば、自分の居場所が見つかり、安堵する。これが先ほど私が提唱した存在価値を確かめる方法である。では、それが哲学的思索といかほど関わっているのかをここで述べる必要がある。私が先ほど行った区分、アリと一匹狼、そしてこの二つの性質を持ち合わせた人間は時には、片方に、また時には反対の方向に傾く。一匹狼に傾けば、孤独になるであろうし、アリ塚のありになれば、自己の存在価値を見出す必要がなくなる。たいていの場合、人々が傾倒するのは後者である。これだけの論述でも一つの答えが出るはずである。それは存在価値とは、実は本能的行為の所作であり、決して理性で封じ込める事はできないのである。また自分に自信のないものほど、徒党を組みやすい。この原因は彼らがはっきりと自己を認識していないために起こるくだらない行動の一端である。そして徒党を組んだ人々は自己を見失い享楽にひた走り、人生を振り返る暇すらないのである。しかしそれでも良いことは一つでもある。それは安堵感である。この言葉は存在価値の効用にも当てはまる。そしてこの安堵と呼ばれるものが、とてつもなく大きな影響を人々に与えるので、それを受け入れる人が多いのである。
 次に存在価値の悪癖を述べたいと思う。まず断っておくが、自己の存在価値とは常に外界に向けられている。したがって外界と自分との間において、衝突が起きるのは必然なのである。自己を強く見せようとして他人をさげすむ。これはいじめなどの諸問題の原因である。またこういう場合もある。自分の予想とは裏腹に良い結果が出なかった時に、自暴自棄に陥る。さらにその件に関して、上司からぼろくそ言われた、としよう。そんなひどい仕打ちを受ければ、誰であろうとも心は多少揺れ動き、ひどい場合には自己を見失う事になる。
 この二つの例のもともとの原因は同じである。どちらとも自己の存在価値を高揚させようとしている。むろん、後者の場合はより複雑であるから、一言で言い尽くす事はできない。けれども双方とも自己を誇示する傾向を持っていることは確かである。もちろん前者は簡単で自分より弱いものをいたぶって、それに優越感を覚える、という事である。後者は一見、自分を誇示していないように思われるがそれは違う。自分を誇示するとは野心に満ちた言葉でもある。その裏返しで自暴自棄になる事はよくある。だから、私は双方とも同じ起源を持った行動であると述べたのである。
 最後に自己の存在価値など現実には存在しないと述べた私の見解をここで述べる事にしよう。言葉をそのままの意味に取るならば、自己の存在価値を認めざるを得ない。しかしそれは本当であろうか?いや、この見解は本当ではない。人の脳は思春期にもっとも活発になり、頭脳も冴え渡る。そしてその後は、みな決まって平凡な人生を送るのである。よって、ここから自己の存在価値を見出す事はできない。もし個性的な発明や発想をするものが、三十歳になっても存在するならば、多少ともその人を異常と見なさなければならない。そして私はここで個性と自己の存在価値を同意義にとった。これは至極当たり前の事である。ドイツの「ニーベンゲルンの歌」を表した著者は今なお行方不明である。それはなぜであろうか?実はこの問題の答えも簡単なのである。その作品群のほとんどは思春期の独創的な発想によって生み出され、静かに時代の中を闊歩していたのである。
 さて、話を本筋に戻す事にしよう。存在価値が現実に存在しないの明白である。なぜなら人と人との関係は存在価値の上に立つものではなく、ましてや意見や思想が同じだからといって仲良くなるものでもない。これは自明の理である。したがって、ここに一つの結論が見えてくる。ほとんどの存在価値を追い求める人々は貪欲で手がつけられない。これは当たり前である。つまり極度に高揚された存在価値とは他者との間に激しい紛争を引き起こすからである。そして存在価値を唯一の城壁としている人間ほど危ないものはない。むろん、遠くから見てれば何もしてこないが、いざ城壁に近づくと弓矢が雨のように降り注いでくるのである。これと同じ現象は近年に至っても多くみられる。天皇に追従する臣民。ヒトラーに操られる民衆。この二つが愛国心の極限まで推し進めた結果、生まれた悪癖である。
 ほとんどの人々は自分の存在意義を問わない。もし問うたとしても、あまりの難解さにほとんどの人々が途中で頓挫してしまうのである。これが現実である。長いものに巻かれている民衆は大抵、善し悪しを判断する目を持たない。だから、彼らは安易に身近な国や場所に赴き、存在意義をつかもうとするのである。
 
 
 
 

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