やあ、いらっしゃい。
8月最後の日曜日、家族で遠出した人も多いだろう。
暑い中、混雑に巻き込まれて、汗をたっぷり流されたのではないかな?
そんな貴殿に、一服の清涼剤をお届けしよう。
今夜お話しするのは、小泉八雲の『破約』……脅かす訳じゃないが、氏が著した作品中で、最も恐い話に思える。
恐がりな方は、この先、極力お聴きにならない方が良いだろう……
「私、死ぬのは厭いませぬ」と臨終の妻が言った。
「今、ただ1つだけ、気に懸かる事が有ります。
私の代りに、何方がこの家に来られるのか、知りたいのです。」
「ねえ、お前」と、悲嘆に暮れて、夫は答えた。
「誰もお前の代り等、この家に入れはしないよ。
私は、決して再婚等はしないから。」
こう述べた時、夫は本心から話したのであった。
死に掛けている妻を愛していたからである。
「武士の信義に懸けて?」と妻は、弱々微笑みながら尋ねた。
「武士の信義に懸けてもだよ」と夫は、蒼白くやつれた顔を撫でてやりながら答えた。
「では、貴方」と妻は言った。
「私を、お庭の中に埋めて下さいますね。
――宜しいでしょう?
――あの向うの隅に2人で植えた梅の木の傍にね。
私、ずっと前から、この事をお願いしたかったのですけれど、また御祝言でもなさるような事が有れば、そんな近くに墓が在るのは、お嫌だろうと思ったものですから。
所が今、私の代りに、誰もお迎えなさらないと、約束して下さいました。
――それで、躊躇わずに、お願い申しても良いと思うのです。
……私を本当に、お庭に埋めて下さいますね。
そうすれば、時々、お声も聞かれましょうし、春になれば、花も見られましょうから。」
「お前の望み通りにしてあげよう」と夫は答えた。
「しかし、今葬いの事なんか言うのは、止そうではないか。
全く望みが無いという程、病気が重い訳ではないのだからね。」
「いいえ、駄目」と彼女は答えた。
「この朝の内に死にます。
……でも、お庭に埋めて下さいますわね?」
「良いとも」と夫は言った。
「2人で植えた梅の木陰にね。
――そして、立派な墓を建ててあげよう。」
「それから、小さな鈴を1つ下さいません?」
「鈴だって?」
「ええ。
小さな鈴を1つ、棺の中へ入れて頂きたいのです。
――巡礼が持っているような小さな鈴ですよ。
そうして頂けます?」
「では、小さな鈴をあげよう。
――それから、他に何でも欲しい物が有れば。」
「他に、欲しい物は御座いません」と妻は言った。
「ねえ貴方、貴方は何時も私に、大変優しくして下さいましたわね。
で、今、私、幸福に死ねますわ。」
こう言って、妻は目を瞑って死んだ。
――疲れた子供が寝入る様に、安らかだった。
美しい死顔で、顔には微笑が浮んでいた。
妻は、庭の中の、生前好きだった木の陰に、埋められた。
そして、小さな鈴も、一緒に埋められた。
墓の上には、家の定紋の付いた立派な墓石が建てられ、それには「慈海院梅花照影大姉」という戒名が刻まれた。
しかし、妻が死んでから1年と経たぬ内に、侍の親戚や朋輩達が、しきりに再婚を勧め出した。
「あんたはまだ若い」と彼等は言った。
「それに1人息子で、子供も無い。
妻を持つのは、侍の義務である。
もし子供が無くて死んだら、誰が祖先を祭ったり、供え物をしたりするのか。」
幾度もこのような忠告を受けた末、侍はとうとう再婚を納得した。
花嫁は僅か17歳だった。
庭の中の墓に、無言の内に責められる思いはしたけれど、新しい妻を、心から愛する事が出来た。
結婚してから7日目迄は、若い妻の幸福を掻き乱す様な事は、何も起らなかったが、その日の夜、夫は城中に出仕せねばならぬ最初の晩の事、彼女は言い様の無い不安な気持ちになって、理由は解らないけれど、何となく恐ろしかった。
床に就いても、眠られなかった。
辺りの空気が妙に重苦しく、嵐の前に時折有る様な、何とも名状し難い重苦しさが漂っていた。
丑の刻の時分に、外の闇の中に、チリンチリンという鈴の音――巡礼の鈴の音が、聞えて来た。
それで花嫁は、こんな時刻に、武家屋敷を、何の巡礼が通るのかと、訝しく思った。
やがて、暫く途絶えた後、鈴はずっと近くで響いた。
明らかに巡礼は、家に近付いて来ているのであった。
――それにしても、どうして道も無い裏手から来るのであろうか。
……突然、犬が何時もと違った恐ろしい声で、鳴いたり吠えたりした。
そして花嫁は、夢の恐さに似た様な、恐ろしい気持ちに襲われた。
……その鈴の音は、確かに庭の中だった。
……花嫁は召使を起そうと思って、立ち上ろうとした。
しかし、起上がれなかった。
――身動きも出来なければ、声も出なかった。
……そして鈴の音は、段々近く、更にずっと近くなって来た。
――そして、ああ、その犬の吠え方といったら!
……やがて、忍び込む影の様に、1人の女が――どの戸も堅く閉ざされ、どの襖も動かないのに――1人の女が、経帷子を纏い、巡礼の鈴を持って、すっと部屋の中に、入って来た。
入って来た女には、目が無かった。
――死んでから、余程になるからである。
それに、乱れた髪の毛は、顔の辺りに降掛っていた。
そして、この女は、乱れた髪の間から、目も無いのに眺め、舌も無いのに物を言った。
「この家の中に、
――この家の中に居てはならぬ。
此処では、まだ私が主婦なのだ。
出て行っておくれ。
だが、出て行く訳は、誰にも話してはならぬ。
もしあの人に話したら、そなたを八つ裂きにしてしまうぞ!」
そう言って、幽霊は消えた。
花嫁は恐ろしさのあまり、気を失ってしまった。
そして、明け方迄、花嫁はそのままになっていた。
にも拘らず、麗かな日の光の中では、花嫁は自分が見たり聞いたりした事が、果して事実だったかどうか疑った。
それでも、戒められた事の記憶は、尚重く心に圧し掛かっていたので、幻の事は、夫にもその他の誰にも、思い切って話せなかった。
しかし、自分では、ただ嫌な夢を見て、その為に気持ちが悪くなったのだと、どうにか納得出来るようになった。
しかしながら、次の晩には、最早疑う事は出来なかった。
またもや丑の刻になると、犬が吠えたり、鳴いたりし始め、またしても鈴が鳴り響き、ゆっくりと庭の方から近付いて来た。
――またもや、これを聞き付けた花嫁は起上がって、声を立てようとしたが、駄目だった。
今度も、死人が部屋に入って来て、シュウシュウいう掠れ声で言った。
「出て行っておくれ。
だが、何故出て行かねばならんか、誰にも話してはならぬ。
たとい、そっとあの人に話しても、そなたを八つ裂きにしてしまうぞ!」
今度は、幽霊は、寝床の直ぐ傍までやって来て屈み込み、ぶつぶつ言って、顰め顔をした……
明くる朝、侍が城から帰ると、若い妻は、夫の前にひれ伏して嘆願した。
「お願いで御座います」と妻は言った。
「こんな事を申上げるのは、恩知らずで失礼で御座いますが、里に帰りとう御座います。
直ぐに、里に帰りたいと存じます。」
「此処で、何か面白くない事でも有るのか」と、夫は心から驚いて尋ねた。
「わしの留守の間に、誰か辛く当りでもしたのか。」
「そんな事は御座いません――」と彼女は、啜り泣きながら答えた。
「こちらでは、何方も、この上無く優しくして下さいました。
……でも、このまま、貴方の妻になっては居られません。
――お別れせねばなりません……」
「お前」と、夫は酷く驚いて叫んだ。
「この家の内で、お前が面白くないという、何かの謂れが有るのは、真に心苦しい。
だが、何故お前が出て行きたがるのか、想像さえ出来ないのだ。
――誰もお前に、辛く当りもしないのに。
まさか、離縁して貰いたい、と言うのではないだろうね。」
若妻は身を震わせて、泣きながら答えた。
「離縁して下さらなければ、命が無くなります。」
夫は、暫くの間黙っていた。
――どうしてこんな思いもかけぬ事を言い出したのだろうかと、その訳を思い浮かべてみようとしたが、解らなかった。
そこで、何の感情も顔に出さずに答えた。
「お前の方に、何の落度も無いのに、今親元へ帰しては、誠に不都合な仕打ちの様に思われる。
お前のそうした願いのしかとした訳――わしがその事を立派に弁明出来る様な理由を、話してくれるなら、離縁状も書けようが、しかし、お前の方に理由が無ければ――はっきりとした理由が無いのでは、離縁する訳には行かぬ。
――家の家名が、傷付けられないようにせねばならんからね。」
そこで、若妻は、話さねばならぬという気持ちになった。
そして、何もかも打ち明け、恐ろしさのあまり、こう付け加えて言った。
「貴方にお知らせした以上、あの人は私を殺します。
――きっと、私を殺します……」
勇敢な男で、幽霊等殆ど信ずる気になれなかったが、侍は、一時は酷く驚いた。
けれども、この事柄を簡単で自然に解決する方策が、直ぐ心に浮んで来た。
「ねえ、お前」と夫は言った。
「お前は今、大層神経が高ぶっているが、誰かに、つまらぬ話を聞かされたんだろう。
ただ、この家で、悪い夢を見たからと言うだけで、離縁する訳には行かぬ。
だが、わしの留守中に、そんな風に苦しめられていたのは、本当に気の毒だった。
今晩もまた、わしは城に詰めていなければならんが、お前1人にしてはおかないよ。
家来2人に言い付けて、お前の部屋を張り番させよう。
そうすれば、お前も安心して眠れるだろう。
2人とも立派な人だから、出来るだけ気を付けてくれるよ。」
こうして、夫がひどく思い遣り深く、優しく言ってくれたので、新妻は恐がったのを恥しく思い、家に留まる事に決めた。
若い妻を任されて、家に留まった2人の家来は、勇敢で誠実な大男で、女や子供達の保護者として、経験の有る者達だった。
2人は、花嫁の気を引き立てようと思って、面白い話をして聞かせた。
花嫁は、長い間彼等と話したり、陽気な冗談に笑ったりして、恐い事等、殆ど忘れてしまった。
とうとう花嫁が横になって眠りに就くと、2人の武士は、その部屋の片隅の、屏風の後ろに座を占めて、碁を打ち始めた。
そして話も、花嫁の邪魔にならぬように、小声でした。
花嫁は幼児の様に眠った。
しかし、丑の刻になると、花嫁はまたもや、恐ろしさに呻き声を立てながら、目を覚ました。
――鈴の音が聞えたからである。
……それはもう近くに来ていた。
そして、段々近付いて来た。
花嫁は跳ね起きて、悲鳴を上げた。
しかし、部屋の中には、何1つ動く物は無かった。
――ただ死の様な沈黙だけで、
――沈黙は広がり、
――沈黙は深まるばかりだった。
――花嫁は武士の所へ飛んで行った。
彼等は碁盤の前に坐っていた。
――身動きもしないで、互いに、じっと目を据えて、見詰め合っていた。
花嫁は、大声で2人に呼掛けた。
2人を揺す振った。
が、彼等は凍り付いた様に動かなかった。
後で、2人の語る所によると、彼等は鈴の音を聞いた。
――花嫁の叫び声も聞いた。
――彼女が自分達を揺起そうとしたした事さえも、解っていた。
――にも拘らず、彼等は身動きも出来なければ、口も聞けなかった。
その瞬間から、聞く事も、見る事も出来なくなって、妖しい眠りに取り憑かれたのであった。
明け方になって、侍が花嫁の部屋に入ってみると、消えかかった灯火の光で、若妻の首の無い死体が、血溜りの中に横たわって居るのが、目に付いた。
2人の家来は、まだ打ち掛けの碁の前に坐ったまま、眠っていた。
主人の叫び声に、2人は跳ね起き、床の上の惨たらしい光景に、呆然と目を見張った……
首は何処にも見当らなかった。
――そして、その物凄い傷から見ると、それは斬り取られたものではなくて、もぎ取られた事が判った。
血の滴りは、その部屋から縁側の角まで続き、そこの雨戸は、引き剥がされた様になっていた。
3人は血の跡を辿って庭へ出た。
――一面の草地を越え――砂場を通って――周りに菖蒲を植えた池の岸に沿って行き、
――杉や竹の陰気な木陰の下へ出た。
そして、角を曲ると、ふいに、蝙蝠の様な声を立てる魔物と、面と向ってまともにぶつかった。
埋めて久しくなる女の姿で、墓の前に突っ立ち、
――一方の手には鈴を掴み、もう一方の手には、血の滴る首を掴んでいた。
……ほんの、暫くの間、3人は痺れた様に立ち竦んだ。
やがて、家来の1人が、念仏を唱えながら、刀を引き抜き、その姿目掛けて斬り付けた。
忽ち、それは地上に崩れ落ち、
――ぼろぼろの経帷子と骨と髪の毛との、空しい破片となった。
――そして、その残骸の中から、鈴が鳴りながら転がり出た。
しかし、肉の無い骨ばかりの右手は、手首から斬り落されながら、尚ものたうち、その指はまだ、血の滴る首を掴んで、黄色い蟹の鋏が落ちた果物を掴んで離さぬ様に、引き毟り、ずたずたにしていた……
「これは酷い話だ」と私は、この話をしてくれた友人に言った。
「その死人の復讐は、
――いやしくも復讐するのなら――男に向ってやるべきだったと思います。」
「男達は、そう考えるのですが」と彼は答えた。
「しかし、それは女の考え方ではありません……」
友人の言う事は、正しかった。
…最後の氏と友人との会話が、妙な説得力を持って響きく。
そういえば四谷怪談のお岩さんも、女の方から祟り殺していたね。
「前妻が死んでる旦那の元には、三回忌を過ぎるまでは嫁に行かぬ方が良い」と、私の田舎でも実しやかに話されていた。
旦那の居る前では化けて出ようとしない辺り、前妻の女心が透けて見えるようだね。
自分の醜い姿を、愛する人には見せたくなかったのだろう。
約束は安易にするものではない…そういう教訓を含んでいる様にも思えるね。
余談だがこの話を元にして、楳図かずお氏が『おみっちゃんが今夜もやってくる』と言う恐怖漫画を描いている。
今夜の話はこれでお終い。
…それでは21本目の蝋燭を吹き消して貰おうか…
……有難う……どうか気を付けて帰ってくれ給え。
いいかい?……くれぐれも……
……後ろは絶対に振り返らないようにね…。
『怪談・奇談(小泉八雲、著 田中三千稔、訳 角川文庫、刊)』より。
8月最後の日曜日、家族で遠出した人も多いだろう。
暑い中、混雑に巻き込まれて、汗をたっぷり流されたのではないかな?
そんな貴殿に、一服の清涼剤をお届けしよう。
今夜お話しするのは、小泉八雲の『破約』……脅かす訳じゃないが、氏が著した作品中で、最も恐い話に思える。
恐がりな方は、この先、極力お聴きにならない方が良いだろう……
「私、死ぬのは厭いませぬ」と臨終の妻が言った。
「今、ただ1つだけ、気に懸かる事が有ります。
私の代りに、何方がこの家に来られるのか、知りたいのです。」
「ねえ、お前」と、悲嘆に暮れて、夫は答えた。
「誰もお前の代り等、この家に入れはしないよ。
私は、決して再婚等はしないから。」
こう述べた時、夫は本心から話したのであった。
死に掛けている妻を愛していたからである。
「武士の信義に懸けて?」と妻は、弱々微笑みながら尋ねた。
「武士の信義に懸けてもだよ」と夫は、蒼白くやつれた顔を撫でてやりながら答えた。
「では、貴方」と妻は言った。
「私を、お庭の中に埋めて下さいますね。
――宜しいでしょう?
――あの向うの隅に2人で植えた梅の木の傍にね。
私、ずっと前から、この事をお願いしたかったのですけれど、また御祝言でもなさるような事が有れば、そんな近くに墓が在るのは、お嫌だろうと思ったものですから。
所が今、私の代りに、誰もお迎えなさらないと、約束して下さいました。
――それで、躊躇わずに、お願い申しても良いと思うのです。
……私を本当に、お庭に埋めて下さいますね。
そうすれば、時々、お声も聞かれましょうし、春になれば、花も見られましょうから。」
「お前の望み通りにしてあげよう」と夫は答えた。
「しかし、今葬いの事なんか言うのは、止そうではないか。
全く望みが無いという程、病気が重い訳ではないのだからね。」
「いいえ、駄目」と彼女は答えた。
「この朝の内に死にます。
……でも、お庭に埋めて下さいますわね?」
「良いとも」と夫は言った。
「2人で植えた梅の木陰にね。
――そして、立派な墓を建ててあげよう。」
「それから、小さな鈴を1つ下さいません?」
「鈴だって?」
「ええ。
小さな鈴を1つ、棺の中へ入れて頂きたいのです。
――巡礼が持っているような小さな鈴ですよ。
そうして頂けます?」
「では、小さな鈴をあげよう。
――それから、他に何でも欲しい物が有れば。」
「他に、欲しい物は御座いません」と妻は言った。
「ねえ貴方、貴方は何時も私に、大変優しくして下さいましたわね。
で、今、私、幸福に死ねますわ。」
こう言って、妻は目を瞑って死んだ。
――疲れた子供が寝入る様に、安らかだった。
美しい死顔で、顔には微笑が浮んでいた。
妻は、庭の中の、生前好きだった木の陰に、埋められた。
そして、小さな鈴も、一緒に埋められた。
墓の上には、家の定紋の付いた立派な墓石が建てられ、それには「慈海院梅花照影大姉」という戒名が刻まれた。
しかし、妻が死んでから1年と経たぬ内に、侍の親戚や朋輩達が、しきりに再婚を勧め出した。
「あんたはまだ若い」と彼等は言った。
「それに1人息子で、子供も無い。
妻を持つのは、侍の義務である。
もし子供が無くて死んだら、誰が祖先を祭ったり、供え物をしたりするのか。」
幾度もこのような忠告を受けた末、侍はとうとう再婚を納得した。
花嫁は僅か17歳だった。
庭の中の墓に、無言の内に責められる思いはしたけれど、新しい妻を、心から愛する事が出来た。
結婚してから7日目迄は、若い妻の幸福を掻き乱す様な事は、何も起らなかったが、その日の夜、夫は城中に出仕せねばならぬ最初の晩の事、彼女は言い様の無い不安な気持ちになって、理由は解らないけれど、何となく恐ろしかった。
床に就いても、眠られなかった。
辺りの空気が妙に重苦しく、嵐の前に時折有る様な、何とも名状し難い重苦しさが漂っていた。
丑の刻の時分に、外の闇の中に、チリンチリンという鈴の音――巡礼の鈴の音が、聞えて来た。
それで花嫁は、こんな時刻に、武家屋敷を、何の巡礼が通るのかと、訝しく思った。
やがて、暫く途絶えた後、鈴はずっと近くで響いた。
明らかに巡礼は、家に近付いて来ているのであった。
――それにしても、どうして道も無い裏手から来るのであろうか。
……突然、犬が何時もと違った恐ろしい声で、鳴いたり吠えたりした。
そして花嫁は、夢の恐さに似た様な、恐ろしい気持ちに襲われた。
……その鈴の音は、確かに庭の中だった。
……花嫁は召使を起そうと思って、立ち上ろうとした。
しかし、起上がれなかった。
――身動きも出来なければ、声も出なかった。
……そして鈴の音は、段々近く、更にずっと近くなって来た。
――そして、ああ、その犬の吠え方といったら!
……やがて、忍び込む影の様に、1人の女が――どの戸も堅く閉ざされ、どの襖も動かないのに――1人の女が、経帷子を纏い、巡礼の鈴を持って、すっと部屋の中に、入って来た。
入って来た女には、目が無かった。
――死んでから、余程になるからである。
それに、乱れた髪の毛は、顔の辺りに降掛っていた。
そして、この女は、乱れた髪の間から、目も無いのに眺め、舌も無いのに物を言った。
「この家の中に、
――この家の中に居てはならぬ。
此処では、まだ私が主婦なのだ。
出て行っておくれ。
だが、出て行く訳は、誰にも話してはならぬ。
もしあの人に話したら、そなたを八つ裂きにしてしまうぞ!」
そう言って、幽霊は消えた。
花嫁は恐ろしさのあまり、気を失ってしまった。
そして、明け方迄、花嫁はそのままになっていた。
にも拘らず、麗かな日の光の中では、花嫁は自分が見たり聞いたりした事が、果して事実だったかどうか疑った。
それでも、戒められた事の記憶は、尚重く心に圧し掛かっていたので、幻の事は、夫にもその他の誰にも、思い切って話せなかった。
しかし、自分では、ただ嫌な夢を見て、その為に気持ちが悪くなったのだと、どうにか納得出来るようになった。
しかしながら、次の晩には、最早疑う事は出来なかった。
またもや丑の刻になると、犬が吠えたり、鳴いたりし始め、またしても鈴が鳴り響き、ゆっくりと庭の方から近付いて来た。
――またもや、これを聞き付けた花嫁は起上がって、声を立てようとしたが、駄目だった。
今度も、死人が部屋に入って来て、シュウシュウいう掠れ声で言った。
「出て行っておくれ。
だが、何故出て行かねばならんか、誰にも話してはならぬ。
たとい、そっとあの人に話しても、そなたを八つ裂きにしてしまうぞ!」
今度は、幽霊は、寝床の直ぐ傍までやって来て屈み込み、ぶつぶつ言って、顰め顔をした……
明くる朝、侍が城から帰ると、若い妻は、夫の前にひれ伏して嘆願した。
「お願いで御座います」と妻は言った。
「こんな事を申上げるのは、恩知らずで失礼で御座いますが、里に帰りとう御座います。
直ぐに、里に帰りたいと存じます。」
「此処で、何か面白くない事でも有るのか」と、夫は心から驚いて尋ねた。
「わしの留守の間に、誰か辛く当りでもしたのか。」
「そんな事は御座いません――」と彼女は、啜り泣きながら答えた。
「こちらでは、何方も、この上無く優しくして下さいました。
……でも、このまま、貴方の妻になっては居られません。
――お別れせねばなりません……」
「お前」と、夫は酷く驚いて叫んだ。
「この家の内で、お前が面白くないという、何かの謂れが有るのは、真に心苦しい。
だが、何故お前が出て行きたがるのか、想像さえ出来ないのだ。
――誰もお前に、辛く当りもしないのに。
まさか、離縁して貰いたい、と言うのではないだろうね。」
若妻は身を震わせて、泣きながら答えた。
「離縁して下さらなければ、命が無くなります。」
夫は、暫くの間黙っていた。
――どうしてこんな思いもかけぬ事を言い出したのだろうかと、その訳を思い浮かべてみようとしたが、解らなかった。
そこで、何の感情も顔に出さずに答えた。
「お前の方に、何の落度も無いのに、今親元へ帰しては、誠に不都合な仕打ちの様に思われる。
お前のそうした願いのしかとした訳――わしがその事を立派に弁明出来る様な理由を、話してくれるなら、離縁状も書けようが、しかし、お前の方に理由が無ければ――はっきりとした理由が無いのでは、離縁する訳には行かぬ。
――家の家名が、傷付けられないようにせねばならんからね。」
そこで、若妻は、話さねばならぬという気持ちになった。
そして、何もかも打ち明け、恐ろしさのあまり、こう付け加えて言った。
「貴方にお知らせした以上、あの人は私を殺します。
――きっと、私を殺します……」
勇敢な男で、幽霊等殆ど信ずる気になれなかったが、侍は、一時は酷く驚いた。
けれども、この事柄を簡単で自然に解決する方策が、直ぐ心に浮んで来た。
「ねえ、お前」と夫は言った。
「お前は今、大層神経が高ぶっているが、誰かに、つまらぬ話を聞かされたんだろう。
ただ、この家で、悪い夢を見たからと言うだけで、離縁する訳には行かぬ。
だが、わしの留守中に、そんな風に苦しめられていたのは、本当に気の毒だった。
今晩もまた、わしは城に詰めていなければならんが、お前1人にしてはおかないよ。
家来2人に言い付けて、お前の部屋を張り番させよう。
そうすれば、お前も安心して眠れるだろう。
2人とも立派な人だから、出来るだけ気を付けてくれるよ。」
こうして、夫がひどく思い遣り深く、優しく言ってくれたので、新妻は恐がったのを恥しく思い、家に留まる事に決めた。
若い妻を任されて、家に留まった2人の家来は、勇敢で誠実な大男で、女や子供達の保護者として、経験の有る者達だった。
2人は、花嫁の気を引き立てようと思って、面白い話をして聞かせた。
花嫁は、長い間彼等と話したり、陽気な冗談に笑ったりして、恐い事等、殆ど忘れてしまった。
とうとう花嫁が横になって眠りに就くと、2人の武士は、その部屋の片隅の、屏風の後ろに座を占めて、碁を打ち始めた。
そして話も、花嫁の邪魔にならぬように、小声でした。
花嫁は幼児の様に眠った。
しかし、丑の刻になると、花嫁はまたもや、恐ろしさに呻き声を立てながら、目を覚ました。
――鈴の音が聞えたからである。
……それはもう近くに来ていた。
そして、段々近付いて来た。
花嫁は跳ね起きて、悲鳴を上げた。
しかし、部屋の中には、何1つ動く物は無かった。
――ただ死の様な沈黙だけで、
――沈黙は広がり、
――沈黙は深まるばかりだった。
――花嫁は武士の所へ飛んで行った。
彼等は碁盤の前に坐っていた。
――身動きもしないで、互いに、じっと目を据えて、見詰め合っていた。
花嫁は、大声で2人に呼掛けた。
2人を揺す振った。
が、彼等は凍り付いた様に動かなかった。
後で、2人の語る所によると、彼等は鈴の音を聞いた。
――花嫁の叫び声も聞いた。
――彼女が自分達を揺起そうとしたした事さえも、解っていた。
――にも拘らず、彼等は身動きも出来なければ、口も聞けなかった。
その瞬間から、聞く事も、見る事も出来なくなって、妖しい眠りに取り憑かれたのであった。
明け方になって、侍が花嫁の部屋に入ってみると、消えかかった灯火の光で、若妻の首の無い死体が、血溜りの中に横たわって居るのが、目に付いた。
2人の家来は、まだ打ち掛けの碁の前に坐ったまま、眠っていた。
主人の叫び声に、2人は跳ね起き、床の上の惨たらしい光景に、呆然と目を見張った……
首は何処にも見当らなかった。
――そして、その物凄い傷から見ると、それは斬り取られたものではなくて、もぎ取られた事が判った。
血の滴りは、その部屋から縁側の角まで続き、そこの雨戸は、引き剥がされた様になっていた。
3人は血の跡を辿って庭へ出た。
――一面の草地を越え――砂場を通って――周りに菖蒲を植えた池の岸に沿って行き、
――杉や竹の陰気な木陰の下へ出た。
そして、角を曲ると、ふいに、蝙蝠の様な声を立てる魔物と、面と向ってまともにぶつかった。
埋めて久しくなる女の姿で、墓の前に突っ立ち、
――一方の手には鈴を掴み、もう一方の手には、血の滴る首を掴んでいた。
……ほんの、暫くの間、3人は痺れた様に立ち竦んだ。
やがて、家来の1人が、念仏を唱えながら、刀を引き抜き、その姿目掛けて斬り付けた。
忽ち、それは地上に崩れ落ち、
――ぼろぼろの経帷子と骨と髪の毛との、空しい破片となった。
――そして、その残骸の中から、鈴が鳴りながら転がり出た。
しかし、肉の無い骨ばかりの右手は、手首から斬り落されながら、尚ものたうち、その指はまだ、血の滴る首を掴んで、黄色い蟹の鋏が落ちた果物を掴んで離さぬ様に、引き毟り、ずたずたにしていた……
「これは酷い話だ」と私は、この話をしてくれた友人に言った。
「その死人の復讐は、
――いやしくも復讐するのなら――男に向ってやるべきだったと思います。」
「男達は、そう考えるのですが」と彼は答えた。
「しかし、それは女の考え方ではありません……」
友人の言う事は、正しかった。
…最後の氏と友人との会話が、妙な説得力を持って響きく。
そういえば四谷怪談のお岩さんも、女の方から祟り殺していたね。
「前妻が死んでる旦那の元には、三回忌を過ぎるまでは嫁に行かぬ方が良い」と、私の田舎でも実しやかに話されていた。
旦那の居る前では化けて出ようとしない辺り、前妻の女心が透けて見えるようだね。
自分の醜い姿を、愛する人には見せたくなかったのだろう。
約束は安易にするものではない…そういう教訓を含んでいる様にも思えるね。
余談だがこの話を元にして、楳図かずお氏が『おみっちゃんが今夜もやってくる』と言う恐怖漫画を描いている。
今夜の話はこれでお終い。
…それでは21本目の蝋燭を吹き消して貰おうか…
……有難う……どうか気を付けて帰ってくれ給え。
いいかい?……くれぐれも……
……後ろは絶対に振り返らないようにね…。
『怪談・奇談(小泉八雲、著 田中三千稔、訳 角川文庫、刊)』より。