http://action-now.jp/archives/952より転載
ユダヤ人を救った「日本のシンドラー」杉原千畝物語(3)緊迫の欧州へ
BY DN2015 · 2015.08.27
杉原千畝「命のビザ」発給の舞台リトアニアへ
杉原がおよそ6000人ものユダヤ人の命を救う「命のビザ」を発給したリトアニアへついに赴任。
第二次世界大戦の開戦を直前に控え、緊迫の度合いを深めるヨーロッパで、杉原は如何にしてユダヤ人たちの命を救えたのか。
杉原、開戦迫る欧州へ
満州から帰国した杉原は外務省に復職。
1936年(昭和11年)、モスクワ大使館赴任を任命されるが、ソ連がペルソナ・ノン・グラータを発動して杉原の入国を拒否。
ペルソナ・ノン・グラータとは?
外交団員の一員となるには外交官になる必要があり、外交官になるには派遣国にそう認められると同様に、接受国にもそう認めてもらわねばならない。接受国から受け入れを認められた場合は「アグレマン」(仏: agrément)がされるが、逆に拒否されることもある。この外交官待遇拒否が「ペルソナ・ノン・グラータ」である。
この拒否はいつ何時でも一方的に発動でき、またその理由を提示する義務はないが提示してもよい。接受国はいずれかの者がその領域に到着する前においても、対象外交官がペルソナ・ノン・グラータであることを明らかにすることができる。ペルソナ・ノン・グラータの通告を受けた場合には、派遣国は状況に応じて対象者の「本国へ召還又は外交官任務終了」をしなければならない。
対象の外交官に対し、接受国外務省から駐在公館を通じて、「あなたは我が国に駐在する外交官に相応しくないので本国へお帰り下さい。もしくは外交官任務を終了して下さい」と正式に通告することで発動されることが多い。派遣国が「ペルソナ・ノン・グラータ」発動後に対象外交官の「本国へ召還又は外交官任務終了」の履行義務を拒否した場合又は相当な期間内に行わなかった場合には、接受国は対象者の外交官待遇を拒否して一般市民として拘束できる。
「ペルソナ・ノン・グラータ」は接受国が有する唯一の拒否手段であり、これ以外の手段(強制送還、身柄拘束)を用いて外交官の非行を制裁することはできない。
また、本来は入国が当然に許可されるべき要人であっても、経歴や言動などが相手国に問題視された場合には到着地国際空港の制限区域から出場することが認められず、帰国を求められる。この措置をも指す。
(Wikipediaより)
他国の外交官の入国を拒否するという通達はまさに異例中の異例のことであったが、その理由は北満州鉄道譲渡交渉の時に杉原が見せつけた外交官としての手腕をソ連が恐れたためだと考えられている。
1937年(昭和12年)にはフィンランドの在ヘルシンキ日本公使館に赴任し、次いで1939年(昭和14年)いよいよ運命の地、リトアニアの在カウナス日本領事館領事代理となる。
ヨーロッパにおける第二次世界大戦開戦の背景
ドイツは第一次世界大戦の敗北により、海外にあるすべての植民地と本国の多くの領土を失った挙句、莫大な賠償金まで課せられ、ついにはパン一個を買うのに札束の山が必要になるほど極端なハイパーインフレーション(お金の価値が急激に下がる状態)に陥っており、このとき1兆マルク札というとんでもない額面の紙幣まで発行されていた。
そんなドイツに対し、弱り目に祟り目とばかりに襲いかかるアメリカ発の世界大恐慌。ドイツ経済は混乱状態に陥り、500万人もの失業者が発生して社会不安が増大した。
この恐慌に対してアメリカではニューディール政策、イギリス・フランスではブロック経済という対策をそれぞれ行う。
ニューディール政策とは、1929年に始まった世界大恐慌に対処するために第32代アメリカ合衆国大統領フランクリン・ルーズベルトが1933年以降に実施した政策の総称である。
政策の内容としては、失業救済のための大規模な公共事業や農業支援、産業界への統制によって経済復興を図ったこと、後には社会保障制度や労働者保護の制度改革の実施が挙げられる。
それまでのアメリカ歴代政権が実施した政策は、政府は市場には介入せず、経済政策も最低限なものにとどめるという古典的な自由主義的経済政策だった。しかし、ニューディール政策が導入されたことにより、政府が市場経済に積極的に関与する社会民主主義的な政策へと転換した。
その後、第二次世界大戦に参戦したことにより軍需歳出が史上最大の増大率となり、アメリカの経済と雇用は恐慌から完全に立ち直り著しく拡大した。
一方、ブロック経済とは、自国と自国の植民地を1つのブロックとして世界経済から隔離して独自の経済圏を形成し、ブロック外の国からの輸入品には高い関税をかけて輸入を阻止し、自国の製品は植民地間で低い関税で輸出することで、ブロック内の経済交流を盛んにして恐慌を乗り切ろうとした極めて閉鎖的な経済体制のこと。それぞれのブロックは通貨圏ごとに分かれており、植民地を多く抱えた国ほど有利な経済体制であった。
しかし、これらの政策はいずれも植民地や領土をたくさん持っていればこそ有効なのであり、持たざる国にとっては輸出品に高い税金(関税)を掛けられるので貿易収支はさらに悪化の一途をたどるのみであった。
そして持たざる国の代表がドイツとイタリアであり、これらの国では情勢を挽回するべく国民は強いリーダーシップを持った人物を待ち望むことになる。
そこに現れたのがドイツではヒトラー
イタリアではムッソリーニであった。
両国の国民は絶望感と被害者意識を募らせ、ファシズム、ナチズムの運動が勢力を得る下地が醸成されていたのだ。
1937年、まずドイツが動き出す。
ヒトラーは東方に拡大政策をとることを宣言。翌年にはオーストリアを併合。
次にドイツはチェコスロバキアのズデーテン地方の割譲を要求。
チェコスロバキアはこの要求を一度は拒絶するが、イタリアのムッソリーニ首相が仲介に入り、イギリスのチェンバレン、フランスのダラディエ、イタリアのムッソリーニ、ドイツのヒトラーが集まり4カ国首脳会議(ミュンヘン会議)が開催され、当事者であるチェコスロバキア不在のままズデーテン地方のドイツへの割譲が決定される。
この決定はドイツによる領土要求はこれが最後であるということで妥協し譲歩を行ったが、ドイツの要求はこれにとどまらずチェコスロバキアを解体。
そして次にドイツが狙いを付けたのポーランドであった。
ドイツは第一次世界大戦敗戦時にバルト海への出口となるポーランド回廊という地域をポーランドに割譲されており、その回復を要求したことでドイツとポーランドとの間で戦争への緊張が一気に高まる。
ミュンヘン会議でのイギリス、フランスの弱腰な対応に強気に出たドイツに対し、チェコスロバキアの二の舞は避けたかったイギリス、フランスはポーランドに安全保障条約を約束しドイツとの戦いの準備を始める。
このイギリス、フランスの動きに対しドイツはソ連のと間で独ソ不可侵条約を結ぶことに成功。
ついにポーランドへの侵攻を開始する。
そして、イギリス、フランスはポーランドとの約束通り、ドイツに宣戦布告。
ここに第二次世界大戦が開戦した。
外交官杉原の最大の任務とは
上記の通り、当時のヨーロッパは急速に拡大するドイツの勢いに対し、イギリス・フランスは話合いでドイツの望むものを探り、妥協をもって現状の修正を図り、戦争を回避しようとするいわゆる宥和(ゆうわ)政策をとっていた。
しかしながら、小国を犠牲にして一時的な平和を得ようとしたこの政策は急速に強大化するドイツの前に破綻。
日本の友好国・ドイツが、共通の敵国であったはずのソ連と「独ソ不可侵条約」を締結したことで、日本外交はまさに大混乱に陥っていた。
バルト海に面したリトアニアは東欧の小国であったが、開戦を間近に控え、ドイツとソ連に挟まれた地理的状況から、両国の情勢を探り、緊迫したヨーロッパ情勢を巡る機密情報を収集することが杉原の最大の任務であった。
その任務の具体的内容は、1967年(昭和42年)に書かれたロシア語の書簡の冒頭で、以下のように述べられている。
カウナスは、ソ連邦に併合される以前のリトアニア共和国における臨時の首都でした。外務省の命令で、1939年の秋、私はそこに最初の日本領事館を開設しました。
リガには日本の大使館がありましたが、カウナス公使館は外務省の直接の命令系統にあり、リガの大使館とは関係がありませんでした。
ご指摘の通り、リガには大鷹正次郎氏がおり、カウナスは私一人でした。
周知のように、第二次世界大戦の数年前、参謀本部に属する若手将校の間に狂信的な運動があり、ファシストのドイツと親密な関係を取り結ぼうとしていました。この運動の指導者の一人が大島浩・駐独大使であり、大使は日本軍の陸軍中将でした。大島中将は、日独伊三国軍事同盟の立役者であり、近い将来におけるドイツによる対ソ攻撃についてヒトラーから警告を受けていました。
しかし、ヒトラーの言明に全幅の信頼を寄せることが出来なかったので、大島中将は、ドイツ軍が本当にソ連を攻撃するつもりかどうかの確証をつかみたいと思っていました。日本の参謀本部は、ドイツ軍による西方からのソ連攻撃に対して並々ならぬ関心を持っていました。
それは、関東軍、すなわち満洲に駐留する精鋭部隊をソ満国境から可及的速やかに南太平洋諸島に転進させたかったからです。ドイツ軍による攻撃の日時を迅速かつ正確に特定することが、公使たる小官の主要な任務であったのです。
それで私は、何故参謀本部が外務省に対してカウナス公使館の開設を執拗に要請したのか合点がいったわけです。日本人が誰もいないカウナスに日本領事として赴任し、会話や噂などをとらえて、リトアニアとドイツとの国境地帯から入ってくるドイツ軍による対ソ攻撃の準備と部隊の集結などに関するあらゆる情報を、外務省ではなく参謀本部に報告することが自分の役割であることを悟ったのです。
(Wikipediaより— 1967年に書かれた千畝による露文書簡の冒頭部分)
1940年(昭和15年)ソ連軍がリトアニアに侵攻。杉原の元にもソ連から通達が届く。
「リトアニアは独立国ではなくなったため、各国は領事館を閉鎖し、領事館員及びその家族は、国外退去すべし」
残された時間はあとひと月。
出来る限りの情報を本国へ送ることで、杉原の任務は終わるはずだった。
日常生活に潜むドイツの暗い影
当時リトアニアの日本領事館は一般の民家(アパート)の1・2階部分を借りて業務を行っており、杉原一家も同じ建物内に移り住んでいた。
本来、国を代表する外交官という特権的地位が認められているにも関わらず、彼らの生活にもドイツの黒い影が密かに忍び寄ってきていた。
いわゆるスパイの存在である。
領事館には現地採用スタッフがおり、当時杉原の下で働いていた事務員のドイツ系リトアニア人ヴォルフガング・グッチェはドイツ警察(通称ゲシュタポ)のスパイであったという。
外交の世界では想定内のこととはいえ、行動のすべてを監視される生活がいかに窮屈であったかは想像に難くない。
「命のビザ」大量発給まであと1年。
このような状況のもとで杉原は如何にしてユダヤ人たちの命を救うことが出来たのか。