★<シリーズ 暮らしと憲法 第一回 女性>
(NHKEテレ 2017年1月4日)再放送2017年1月11日)
今年は、日本国憲法が施行されてから70年の節目の年。戦後日本は、憲法を道しるべに社会を築いてきました。しかし、憲法のことを普段は、あまり意識しないのではないでしょうか?ハートネットTVでは、シリーズで暮らしの現場から憲法を見つめていきます。
第一回 女性
第24条・婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し……
法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければなりません。
男女平等がうたわれたこの第24条は、当時、世界でも類を見ない高い理想を掲げた内容でした。~
日本国憲法第24条―女性の権利―について(その1)
憲法第24条は、「家族生活における個人の尊厳と両性の平等」について述べています。昨年亡くなったベアテ・シロタ・ゴードンさんが起草したものです。
日本国憲法の成立とベアテさんの草案
日本の敗戦後、1946年に、ポツダム宣言に従ってGHQから憲法改正を命じられた時、日本政府が大日本国憲法とほとんど変わらない案を出したので、GHQが代わりに約10日間で草案を作りました。
ベアテさんは女性に関する条項を任されました。彼女は戦前の日本で長く生活していたので、日本女性の無権利状態をよく知っていました。彼女は「女性と子どもが幸せにならなければ、日本は平和にならないと思った」と語っています。
大日本帝国憲法(明治憲法)下の家制度と女性の無権利状態
大日本帝国憲法下の明治民法では、「戸主」を頂点とする家制度が定められていました。戸主権は長男が相続し、女性と長男以外の男性は差別されました。結婚は家と家の間のもので、女性は結婚式で初めて夫の顔を見ることさえ珍しくありませんでした。結婚した女性は、一切の決定権を持たない「無能力者」として扱われ、自分の財産も持てず、選挙権もありませんでした。妻妾同居さえありました。子どもの教育権もなく、学校では、母親が来るのに「父兄会」と言っていました。母親は父や兄(長男)の代理にすぎなかったからです。
女性の権利条項に反対した日本政府
GHQの草案ができると、日本政府との間で突合せが行われました。この時日本政府が最も強く反対したのが、象徴天皇と女性の権利でした。日本政府は「日本には、女性が男性と同じ権利を持つ土壌はない。日本女性には適さない」と主張しました。これが今から67年前のことだったのです。しかしベアテさんの書いた第24条は、GHQによって入れられました。
日本国憲法草案が新聞で発表されると、日本国民の多くはこれを歓迎しました。そして戦後初の普通選挙で選ばれた女性議員を含む国会で審議され、日本国憲法は成立しました。
第24条【家族生活における個人の尊厳と両性の平等】
① 婚姻は、両性の合意のみに基づいて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。
② 配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。
「婚姻は両性の合意のみに基づ」く。戸主同士の合意によって成立した戦前の結婚と180度違う規定でした。
また、家族の尊厳と両性の平等が規定されたことにより、男性と女性、長男とそれ以外の子どもも平等となりました。この条項は、法の下の平等を定めた第14条と並んで、男女の平等を保障するものとなりました。
しかし、その後の長引く民法改正論議に見られるように、選択的夫婦別姓や、婚姻外の子どもの平等など、未解決の問題はまだ残されています。
参考文献:1945年のクリスマス ベアテ・シロタ・ゴードン 柏書房
“リストの再来”と称されたピアニスト、レオ・シロタの娘として1923年ウィーンに生まれたベアテ・シロタ。作曲家山田耕筰が、父親のレオ・シロタを反ユダヤ主義の欧州から招き1928年に東京で演奏会、翌年彼は再来日し、1931年には、東京音楽学校(現・東京芸術大学)の教授に就任した。
5歳のベアテは両親と東京乃木坂に住み、1936年にはドイツ学校から、アメリカンスクールへ転校し、自身の家庭の自由な雰囲気とはかけ離れた、抑圧された日本の女性達の実態も見聞きする少女時代を過ごした。
そして15歳で米国のミルズカレッジへ進学、両親と離れて暮らし始めたが、1941年に日米開戦となり、両親との連絡・送金も途絶えた。
終戦1945年の12月、彼女はGHQ民間人要員を志願し来日し両親と会えた。翌年、日本国憲法の草案委員の一人に起用され人権小委員会に属し、日本女性の状況を知る彼女は、女性の地位向上に関して様々な条項を書いたが、その多くはGHQの委員会で削除された。然し、彼女が思いを込めた人権は第14条に残り、そして男女平等は第24条となった。
翌年7月ベアテは両親と、GHQでベアテと同時期、日本語通訳であったジョセフ・ゴードンが待つNYへ帰国、1948年1月結婚、ベアテ・シロタ・ゴードンは、翻訳の仕事をしていた。
1952年秋、ロックフェラー財団の援助で、日米の指導的立場の人物交流の第一陣として日本から市川房枝が渡米し、ベアテはその通訳を務めたが、日本国憲法との関わりは秘密だった。以後、彼女はジャパンソサエティ、アジアソサエティに属し、日本・アジアの芸術文化を米国に紹介し続けた。
1946年11月憲法公布、日本初の女性の選挙権行使では、39人の女性議員が生まれ、労働省発足、婦人少年局長に山川菊栄が初代局長に選ばれた。
1947年、家父長制度が廃止、さらに教育基本法が施行され男女共学が実現。1980年には、高橋展子デンマーク大使が、国連婦人の10年の女子差別撤廃条約に署名、85年に批准、そして赤松婦人局長の下で男女雇用均等法の成立となった。国籍法の改正、家庭科の男女共修と進み、また、民間企業における男女同一賃金に関する裁判の一審敗訴に、支援の呼びかけも広がり、国連の委員会からの日本政府への勧告の反映もあり、二審で和解、賃金のみならず昇進も獲得。女性の視座を論じ、大学では「女性学」も誕生。
1999年、男女共同参画基本法も成立、女性たちの職業・活動分野も多面化した。国際的には緒方貞子国連難民高等弁務官の存在も注目された。
1993年TV番組「日本国憲法を生んだ密室の九日間」放映がきっかけとなり、ベアテは日本で講演を毎年行ってきた。この映画の最後に「日本の女性は心と精神が強い、みんなで頑張って欲しい、明るい将来のために。私が草案した権利を生活に活かし世界の女性達のためにも働きかけてください」と彼女は期待を語っている。
ニコル A. ゴードン(ベアテさんの娘)の御挨拶 全文
- 2013年3月30日『ベアテさんを偲ぶ会』レポート より
- http://www.beateg.com/news201312-1.html