https://yomidr.yomiuri.co.jp/article/20160912-OYTET50009/より転載
神経筋難病患者の生活を支える医師 石川悠加さん
2016年9月19日
編集長インタビュー
石川悠加さん(2)「天職」に導いた患者たちとの出会い
NPPVに導いた2人の兄弟患者について語る石川さん
石川さんは、生まれた時から、医師になることを運命づけられていた。
「私は予定日を3、4週過ぎて生まれたのですが、生まれてすぐは産声もあげられませんでした。当時は新生児科もなく、吸引機もなかったので、助産師に呼ばれて駆けつけた産科医がゴムのホースを私の口の中に入れて、のみ込んで詰まっていたものを吸い取っては何度もぺっぺっとはき出してくれたそうです。それでようやく泣き始めて助かったので、薬剤師の母から繰り返し、『そんなふうにしてあなたはお医者さんに助けられたんだから、恩返しをしなくちゃ』と言い聞かされて育ったのですね。私も子どもでしたから、わりと素直にそうかと思ったのです」
1978年に札幌医大に入学し、4つ学年が上の夫(石川幸辰・現八雲病院長)と卒業直後に結婚。医師を目指した動機も頭の片隅にあって夫と同じ小児科を選び、大学院に進んでいた夫と一緒に米国に留学した。そこで先天代謝異常や遺伝子検査の研究をし、その頃可能になったデュシェンヌ型筋ジストロフィーの家系診断にも携わった。
3年後に帰国し、「自分を救ってくれた新生児の診療を一度はやらなくてはならない」と志望して、北海道立小児総合保健センターの新生児集中治療室(NICU)で働いた。
「ところが、1年ぐらいたつと、これを私はあと40年やりたいだろうか、と自問するようになりました。患者さんは容体が不安定な赤ちゃんですからお話もできないし、私には表情を読み取ることもできず、次第に同じようなことの繰り返しと感じるようになっていきました。新生児を助けることが医師になる動機だったにしては、わりとあっさりと、この診療科はもう続けられないと思ってしまいました。だからといって、何をやりたいというのが見つかっていたわけではありませんでした。その頃には、29歳になっていたので、子どもを産むなら遅くならないうちに産もうと思って妊娠しました」
当時は、急性期病院で働く女性医師が妊娠すると、出身の大学医局が引き取り、代わりの医師を大学から病院に補充するのが慣例だった。しかし、帰国後、夫が八雲病院に赴任していたのを理由に、「そちらで面倒をみてもらいなさい」と同院に赴任するよう指示された。
「出産後の生活が落ち着いたら1年ぐらいでどこかの急性期病院に移るのだろうなと考えて、八雲に軽い気持ちで来たんです。成り行きです。こういう病気を診療したいという希望もなかった。私はむしろ福祉の分野はあまり得意ではないと思っていて、医療と福祉が合体していないとできないこの病院の診療は複雑で難しそうだし、むしろ避けたいところでした。もっと単純に医療のことだけを考えていればいい分野に進みたいと思っていましたね」
無事出産し、産前産後約2か月で病院に復帰。すると、筋ジストロフィーの10代後半の男性患者が、たった2か月の間にすっかり頬がこけて、やせ細っていたことにショックを受けた。
「病気の進行のせいだったのでしょうね。私も赴任したての時は気後れして、どうせ1年ぐらいしかいないだろうという腰掛け意識がありましたし、患者さんも患者さんで、『この人はどれぐらいいるのだろう』と、互いに距離をおくようなところがあったのですね。彼らも自己防衛本能が強くて、あまり医師と親しくなっても、その人がいなくなった時に寂しくなったらいやだと思って、人との距離をコントロールしていたところがありました。お互いに近づかないまま、いつの間にか体調が悪くなっていく子がいるのに気づいた時、自分はここで何ができるのだろうと悩み始めました。私のそれまでの医師のイメージは、『治す人』でしたから、非常に不十分なことしかできていないという意識がありました」
当時の患者の中でも、札幌市から入所していた17歳の筋ジストロフィーの男性患者は、唯一、親しく会話できる相手だった。母親は離婚し、札幌で働くことになったため、自宅では面倒をみられないし学校にも行けないと、中学生の頃から八雲病院に預けられていた。
「医者って何をする人?」と尋ねられ、石川さんが答えられないでいると、「医者って病気を治す人のことだよね。じゃあ、先生は医者じゃないよね。だって、病気治していないもん」とたたみかけてくる。苦しそうな息の下、「やりたいことがろくにできないまま、中途半端に長生きするだけの薬だったらもう飲みたくないよ」と処方した薬を突っぱねられたこともあった。必死で心筋症の治療情報を調べ、薬が効くと、「少し楽になったよ。先生もちょっとは医者らしいことするんだね」と褒めてくれることもあった。
「お母さんともなかなか会えずに、『なんで自分はこんなところにいなくちゃいけないんだ』とよく私に尋ねてきました。私もその問いには答えられず、『私も札幌出身だけどここにいるし、お互いになぜここにいるかはよくわからないけれど仕方ないんじゃない? 自宅で医療を受けられる態勢がないと帰れないよね』ぐらいしか言えなかった。子どもたちは望んでもいないのに、病気という理由だけでここに来て、会いたい人にも会えないし、行きたいところにも行けない。そして、私は医者だけれども、その病気を治すことができない。そう思ったら、やっぱりこの子たちを置いてはいけないなと思いました。だから、その子には、『帰るなら、一緒に帰ろう』と言っていたんです」
その約束はかなわなかった。その後、彼は心不全が悪化して21歳で亡くなった。
「結局、生きているうちに彼の疑問には答えられなかった。ほかにも、お母さんが離婚して働いていたり死別したりして、小さい頃から預けられているという子が何人かいました。溺(おぼ)れて、蘇生されて、集中治療室(ICU)で低酸素脳症になって、気管切開し、人工呼吸器の世話になった子がいましたが、元気な時は学童保育に預けてお母さんも働けたけれども、医療の手がかかるようになったら預けられるところがない。そして、義務教育を受けさせることが必要となると、養護学校も併設しているここに送られてくるのです。医療の手がかかるようになった子は、とたんに自分の住んでいる地域で通学や生活ができなくなって、家族からも遠く離れたここに来ざるを得ない。おかしいことだと思っていました。心不全で亡くなった彼が私に投げかけた問いに答えを持たない私が1人で帰るわけにはいかないと、結局、ここにい続けることを決めたんです」
1990年、産休から復帰して4か月たった頃には、もう1人大事な患者との出会いがあった。兄弟で入院していたデュシェンヌ型筋ジストロフィーの兄の方で、当時19歳。呼吸筋が衰えて、自力では十分酸素が取り入れられず、炭酸ガスを排出できず、意識がもうろうとし始めていた。
「気管切開の人工呼吸が必要だと伝えました。私も前に勤めていた小児センターで何人か気管切開した子は診ていましたし、八雲でも気管切開をして過ごしている子はいたので、当たり前のように提案したのです。ところが、ものすごく抵抗されました。『気管切開をしたら、生活が今とは全然変わってしまう』と言い出したのです」
何が変わると思うのか尋ねたところ、彼が苦しそうに語ったのは、年に2回、夏と冬に1週間ずつ自宅に帰って、家族と過ごす時間のことだった。
「その外泊の時には、家族で近くのお好み焼き屋に行って、飲んだり食べたりするのを楽しみにしていたようです。今より30年ぐらい前だと、気管切開をしたらそういうところでは他のお客さんが気にするから行けなくなると本人は感じたようなんですね。私が『気管切開しても行けるんじゃないの』と言っても、『先生にはわからないよ。自分の人生なんだ!』と言い返してくる。そうなると私も彼とただケンカのようになって、『じゃあ、あなたは今、命をあきらめるってこと? なんで19歳で命をあきらめるの?』と言ったら、『いや、生きたいよ。生きたいけど、気管切開はいやなんだ!』と譲らない。私もそこで、『生きたいけど気管切開はいやだなんて、そんなの両立しないんだって!』と、当時は言い切ってしまったんですよね」
しかし、その言葉を今振り返ってみれば、「生きることと気管切開は、当時でも両立し得たのだ」と、石川さんは告白する。
「既に、90年になっていたので、アメリカやヨーロッパでは気管切開をしない人工呼吸器法の論文が出ていたのです。でも、私は産休明けで、八雲病院に来てまだ1年ぐらいだったので、勉強不足だった。もちろん日本でも欧米でその方法を見てきた人が実際にやり始めたかどうかという微妙な時期だったのですが、私はそんな方法があることも知らず、生きるには気管切開以外の方法はないと言い切ったのです」
主治医である石川さんにそう強く説得され、彼は最終的に、「自分が意識がなくなったら、気管切開をして……」とつぶやいた。しばらくたって意識がなくなった彼に、石川さんは気管挿管をして、意識を取り戻してから気管切開をした。彼はその後、20年以上生きたが、気管切開をしてからは、あれほど医師に対して自分の主張を貫く力を見せてくれた血気盛んな若者らしさが、すっかり消えておとなしくなってしまった。
「気管切開したとたん、急に達観した大人のようになってしまったんです。彼は気管の変形があって、気管切開チューブの脇を通る空気によってかすれた声が出たのですが、少し前まで対等に口論していたのに、私が何を言っても『ああ、そうですねえ』『良かったです』と受け流すようになった。いわゆる19歳の男の子だった彼はどこに行ってしまったのかと胸が痛みました。実際にほかの病院でも、気管切開をして1週間ぐらいでストレスによる胃潰瘍で亡くなったり、うつになったりした患者がいたとは聞いていたので、私は彼にそれほどのことをしてしまったのだなと思いました。そんなに急に、表面的であってもその人らしさを変えてしまうほどのことをしているのだと気づいて怖かったですね」
しかし、話はそこで終わらなかった。翌年、今度は同じように呼吸が苦しくなってきた弟の方がまた、頑として気管切開を拒んだのだ。
「『兄の姿を見ていたから絶対にいやだ』と、お兄さんよりさらに激しく拒否したんです。ところが、あれから1年しかたっていないのに、私も学会や厚生労働省の筋ジストロフィー研究の班会議報告を聞いて、気管切開をしなくて済む方法があることを今度は知っていました。『気管切開しない方法だったら、人工呼吸器をつけてもいい?』とその子に聞いてみたら、『それだったらやってもいい』というので、試すことにしました」
当時は専用のマスクや道具が八雲病院にはなかったので、麻酔用のマスクを気管切開用の人工呼吸器とつないで、ゴムで顔に固定した。病院でも初の経験で、あるものの寄せ集めだった。直前には意識がもうろうとしていた彼は、マスクを付けて顔色が良くなってからしばらくすると眠りだした。翌朝にはしっかり目覚めて、NPPVを外すことができた。数年間は夜間だけの装着で、起きている時の呼吸状態も改善した。装着した後も、彼から若者らしさが消えることはなかった。今もNPPVのまま元気に生活している。
「お兄さんも弟の姿を見て、1年後にやはり気管切開をふさぎたいと希望しました。試したのですが、肺の状態が悪く、気管切開の状態で痰(たん)を取ることに慣れてしまっていたので、結局断念したんです。お母さんも2人を一緒に外泊に連れて帰りたいと思っても、気管切開したお兄ちゃんは家で見る自信がないと弟だけを連れて帰っていました」
同じ病気を持つ兄弟でも1年違いで分かれた運命。この初の成功例以来、石川さんはNPPVを選ぶようになり、その後、気管切開による人工呼吸器をつけたことはない。
「それまでは、みんな呼吸が苦しくなってきていても、私にその状態が見つかると気管切開されると思って、回診にいくと酸素不足で青紫になったつめを隠していましたね。それが今では、まだ全然たいした症状ではないのに、向こうから『先生、なんか最近こういう症状が出てきているんだけど、そろそろNPPVやった方がいいのかな』と積極的に言ってくる。私が『まだいいよ』って止めるほどです」
石川さんは、あの時、気管切開に激しく抵抗したこの兄弟が、自分を今の診療に導いてくれたのだと思っている。
「あの時、私が気管切開を勧めて、『わかりました。それで命が助かるならやります』と2人がすんなり受け入れていたら、従来通り気管切開を続けていたかもしれません。あの兄弟が私に思いをぶつけてくれて、気管切開に代わる方法を必死に探そう、見よう見まねでもやってみようという気にさせてくれた。患者さんから教えられることは本当に大きいと思います」
2012年にスペイン・バルセロナで開かれた「第13回国際在宅人工呼吸会議」でバック先生(中央)と。左はサンパウロの呼吸器科医のマウロ先生
1991年に、NPPVを院内でも初めて成功させ、石川さんはこの方法の魅力に一気に心が傾いた。最初は周りのスタッフたちも冷ややかな目で見ていたが、付けた後の患者が楽そうにしている姿を見ると、徐々に賛同者が増えていった。
「1例目を試していた時、協力的だった看護師は2人だけ。『なんで、こんな若い、来たばかりの医者が、今までやったこともないおかしなことをやるんだ』ぐらいに見られていたのかもしれません。古株の看護師からは『先生、早くまじめにやってくださいよ』と怒られました(笑)」
学会や文献での情報を参考にしながら、手探りでNPPVの経験を積み重ねていき、94年には生涯の「師匠」との出会いが訪れる。世界で初めてNPPVを成功させた米国の医師、ジョン・R・バックさんだ。大阪で開かれた厚生労働省の筋ジストロフィー研究班の招待講演を聞きに行ったのをきっかけに、研究班長や当時の院長の後押しもあって、1週間ニューヨークの筋ジストロフィー専門クリニックや在宅のNPPV患者の様子を見学させてもらった。バックさんのNPPVの論文に出てくる「咳(せき)介助の機械」について、どういうものなのか知りたいというのが1番の動機だった。
「見るものすべてが驚きでした。NPPVをつけた一人暮らしの患者さんの夜の介助を資格を持たない大学生がアルバイトで行っていて、楽しそうに外出している写真が部屋の壁一面に貼ってある。『以前は風邪ですぐ呼吸が苦しくなってしょっちゅう集中治療室に入っていましたが、NPPVや咳介助の機械のおかげで安心して家で過ごせるようになりました』と語っていました。
また、飛行機やヘリコプターで旅行も楽しんでいる若い男の子からは、『日本の筋ジス患者はどうしているの?』と聞かれたので、『私たちの病院で暮らしている』と言ったら、『それはあまり良いとは思えないな。どんな風に暮らしているのか、日本に行ってみんなに会いたいな』と言われたりもしました。筋ジストロフィーなどの難病を抱えても、医療の助けがあれば、夢を広げることができるのだと実感し、これを日本でも実現したいと強く思いました」
(続く)
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