香山リカが「沖縄差別」を考えるため高江に向かった【中編】
【前回のあらすじ】
8月31日から9月2日まで沖縄県北部の東村(ひがしそん)・高江集落に行ってきた。アメリカ軍が建設を進めているヘリパッドへの住民による抗議活動をこの目で見るためだ。沖縄県の翁長知事はこの建設工事を容認できないことを表明、先の参議院選でも辺野古基地工事やヘリパッド建設推進派の議員は落選している。
つまり、県民の民意は「基地もヘリパッドも反対」。それなのに工事は進む。だとしたら現場で抗議活動するしかない、というのは当然の選択だ。それしかできることがないのだから。
しかし、高江には全国から500人ともいわれる機動隊が投入され、異常なほどの過剰警戒の状態が続いているという。そして、それに対してメディアも全国の人も「まあ、沖縄は特別だからね」と無関心を装ったり「沖縄に米軍基地や関連施設ができるのは仕方ないよ」と肯定したりしている。それって沖縄への差別なのでは……?
沖縄に着いて1日目は先に東京から高江入りしている知人に状況を聞き、2日目は「やんばるの森」といわれる森の中にある広大な米軍沖縄北部演習場と取り囲むフェンスのあちこちで行われている抗議活動をひと通り見て終わった。そして、いよいよ最終日。
◆3日目
この日は、名護市屋我地島の宿泊先を3時半に出発。抗議活動の朝は早い。なぜなら、建設工事関係者の動きもどんどん開始が早くなりつつあるからだ。
高江は遠い。比較的、近いと言われて選んだ宿泊先からもクルマでたっぷり1時間以上。暗い中、出発してすぐにコンビニに寄ってコーヒーを買う。「この先はもうコンビニないですよ」とレンタカーを運転してくれている知人が言うのを聴いて、なんとなく緊張を覚え、たかだが半日コンビニのないところに行く、というだけで落ち着かない気持ちになる自分を恥じる。
この日はまず、5時に高江より手前の「赤橋」というところでの抗議活動に合流するのだ。しかし、私たちが着いたときにはまだ誰も来ておらず、雨も降ってきて心細い気持ちになる。高江の抗議活動は組織だって行っているわけではなく、あくまで「来れる人が来る」形なので、もしかするとこのまま誰も来ないかもしれない……。
そんな心配をしているうちに、まだ夜明け前、暗い中、1台、2台とクルマが集まってきた。「おはようございます」「久しぶり」といったあいさつもそこそこに、みな手際よくカッパを着て道路の脇に立つ。リーダーがいるわけではないが、年輩の男性が「じゃ、クルマが来たら止まってもらって行き先を尋ねてください。ムリはいけません。丁寧にお願いします」などと“初心者”に簡単な指示を出している。
ここでの抗議活動は、高江に向かおうとするクルマに停車を促し、「どちらに行かれるのですか?」と行き先を尋ねるという、ただそれだけだ(写真1)。そこで沖縄防衛局の職員や建設作業員がいれば、「私たちは建設に反対しています」と意思を伝える。もちろん停車は強制ではないし、反対の意思を伝えたところで「そうですか。ではやめます」とはならないのは明らかだ。それでも、自分たちの気持ちを伝え、工事の開始を3分でも5分でも遅らせる。それが参加者の目的なのだ。住民の抗議活動が激しくなるにつれて防衛局職員や作業員が現場へ向かう時間もどんどん早くなり、ついには「5時」というとんでもない時間になったのだという。
⇒【写真】はコチラ http://nikkan-spa.jp/?attachment_id=1203042
7時すぎまで赤橋の上にいた私たちは「今日は作業員は来ないようなので二手に分かれましょう」ということになり、5台くらいのクルマがその場を出発することになった。
高江での抗議活動は、この“任意の検問”など独自の小さな動きもたくさんあるが、メインはゲート前の座り込みだ。この目的は建設反対の意思表明もあるが、より実質的には建設に使う砂利を乗せたトラックの車列が現場に入るのを遅らせることにある。
ただ、座り込みだけで大きなトラックを止めることなどとてもできないので、最近は抗議の人たちの運転する自家用車を使っての活動も行われている。具体的にはノロノロ運転いわゆる牛歩戦術でトラックの搬入を遅らせたり、日によってはゲート前に何十台ものクルマを停めたり、といったスタイルだ。
よくこのクルマでの抗議活動で地元の人たちの生活にも支障が出ている、といった批判がツイッターなどに書き込まれることがあるが、トラックが通る県道70号を封鎖、規制して自家用車の通過を阻止しているのは警察側だ。そもそもその付近の交通量は非常に少なく、先の赤橋“任意の検問”などでももし地元の住民のクルマが来たときにはノーチェックで通していた。高江集落の人口は140人、抗議に参加している人たちも誰が地元住民で誰が作業員か、すぐにわかるのだ。
さて、砂利運搬のトラック隊列は午前10時ころに来ることが多いということで、私たちは先に走行していた人たちに合流、全部で10台ほどのクルマで車列を組んだ。とりあえずスピードを出しすぎない徐行運転で県道70号を行ったり来たりして砂利のトラックを待つ。トラックがやって来た時点で、牛歩戦術なのか停車させての阻止なのか、現場の状況で判断されるようだ。
ただ、その時点では作業員の到着さえ確認できず、防衛局の職員に「今日は工事ありますか?」などと確認しても答えてくれるはずはなく、トラックが本当に来るのかどうかもわからない。「どうなんだろう。いつまで往復を続ける?」などと運転者と話しながら走行しているうちに、どんどん警察や機動隊の車両が増えてきた。
道路が突然、封鎖されて機動隊車両が通過してまた解除といったことを繰り返すうちに、9時直前、ついに待っても待っても封鎖が解除されなくなった。「これから30分通過できません」といった説明もない。
クルマの中で気をもんでいるうち、10台ほどのクルマそれぞれのわきに機動隊員が3人ほど立ちはだかり、中をのぞいたりドアを開けさせないような動きをしたりする(写真3)。
そのうち、帽子に白い三本線が入った機動隊員の隊長が「アングル!」と叫ぶと、機動隊員たちが車輪止めを持っていっせいに走り出し、それぞれのクルマのタイヤにがっちりはめ込んだ(写真4)。乗っている人たちはみな「ちょっと待って」と降りて、「やめてください」「どうしてそんなことするんですか」などと抗議するが、誰も答えない。それとは別に、クルマから降りた人全員の前にそれぞれ機動隊員が配置された。私の前にも、まだ20代に見える細身の隊員がずっと立っていて、少しでも歩くと影のようにくっついてくる。「どうして止められているのですか?」「いつまでここにいなければならないんですか?」などと質問しても、目さえあわせてもらえない(写真5)。
しかも、そのあたりは携帯電話の電波が届かない場所で、N1裏テントにいるはずの弁護士などにも連絡が取れない。ここに止められているのが任意なのか義務なのかもわからず、まわりの人たちも“担当”の機動隊員にそれぞれきいているが、完全無視か、「わかりません」「このままお待ちください」といった答えが返ってくるか。「なぜここにいなければならないのか、それはあとどれくらいの時間続くのか」も知らされないまま、時間だけがどんどん過ぎていく。
情けないことにここまで理不尽に行動の自由を制圧されると、すっかり思考力が停止してしまう。私はしばらくの間、茫然とその場に立っていた。30分、1時間と時間が経過しても状況が変わらない。「東京に仕事の連絡を入れなきゃ」「今日、飛行機に乗れるだろうか」などといった考えがときどき頭に浮かんでくるのだが、次第に暑くなってきたこともあってすぐに脳裏から消えて行く。この状況を帰京後、知人たちに伝えたら「どうして怒らなかったの?」「警察法に照らし合わせてもこれはおかしい、と理屈を突きつければよかったじゃない」などと言われたのだが、そういう状況下では感情も理性もフリーズすることが期せずしてわかった。
まわりで同じように拘束されている人の中には、70代と思われる女性や学生と思われる女性もおり、「トイレに行きたい」「体調が悪い」と訴えているが、とにかく「待ってください」の一点張りで移動はいっさい許されなかった。何度も「トイレ」を訴えた女性には、ようやく「付き添いの上、歩いて行くなら」という“許可”が出たが、そこからトイレがある場所まではどう考えても数キロ。女性は耐えかねて「そのあたりにしてもいいですか」と言ったが、それも「やめてください」と止められていた(写真6)。
そして10時すぎ、ついに道の向こうから砂利を積んだトラックが10台の車列を組んでやって来た。これを通過させるために、私たちは自由を奪われているのだ。クルマの横に立たされ疲れきっていた人たちは、力を振り絞って「建設工事反対!」「オスプレイはいらない!」などとトラックに向かって叫んでいるが、トラックの運転手はこちらに一瞥もくれることなく、悠然と通り過ぎて行く。圧倒的な力の差だ。自分の無力さに涙が出そうになる……(写真7)。(続く)
文・写真提供/香山リカ