私の住む隣の地区に、渋沢栄一六男・田中巳六養母・田中ふく墓があります。
田中巳六は大河ドラマで知られる渋沢栄一の見立養子・渋沢平九郎とは兄弟になります。実際には平九郎は叔父です。
渋沢平九郎ブログlink
ふくは幕末、高麗郡小久保村の青田家に生まれ、長じて浅野セメント・清水建設両社重役、田中忠義(自宅・東京都京橋区松屋町1丁目)と結婚するも子に恵まれず、明治近代化の元勲青淵翁こと渋沢栄一の六男巳六を養子に迎える。
ふくは大正5年1月28日、66歳で黄泉の国の旅にたったが、巳六は養母ふくのために「福昌院徳室壽榮大姉」の高位法名を捧げ、生家の墓地に手厚く葬った。
地元では村長をはじめとする多くの方々が、亡きふくを迎えたが、初めて見る霊柩車に人々大いに驚愕せしと伝う。
現在の埼玉県飯能市小久保になります。
ここに葬られたのは、ふくの生前からの希望だったのかも知れません。
田中家の墓には、ふくの供養塔を建立したのでしょうか。
20年以上前に散歩をしながら、偶然見つけた場所だったと思います。
今回は車でした。
前の通りが車一台しか通れません。少し広い場所に出て駐めさせていただきました。
飯能市の資料PDFリンク
田中巳六は大河ドラマで知られる渋沢栄一の見立養子・渋沢平九郎とは兄弟になります。実際には平九郎は叔父です。
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ふくは幕末、高麗郡小久保村の青田家に生まれ、長じて浅野セメント・清水建設両社重役、田中忠義(自宅・東京都京橋区松屋町1丁目)と結婚するも子に恵まれず、明治近代化の元勲青淵翁こと渋沢栄一の六男巳六を養子に迎える。
ふくは大正5年1月28日、66歳で黄泉の国の旅にたったが、巳六は養母ふくのために「福昌院徳室壽榮大姉」の高位法名を捧げ、生家の墓地に手厚く葬った。
地元では村長をはじめとする多くの方々が、亡きふくを迎えたが、初めて見る霊柩車に人々大いに驚愕せしと伝う。
現在の埼玉県飯能市小久保になります。
ここに葬られたのは、ふくの生前からの希望だったのかも知れません。
田中家の墓には、ふくの供養塔を建立したのでしょうか。
20年以上前に散歩をしながら、偶然見つけた場所だったと思います。
今回は車でした。
前の通りが車一台しか通れません。少し広い場所に出て駐めさせていただきました。
飯能市の資料PDFリンク
電話があった後に総代さんに聞いたことがありましたが、知らないと話していました。
いたとしても下っ端ばかりだったのでしょう。
20年ほど前に当寺檀家かもしれない渡世人を知らないかと電話がありました。
当寺の過去帳には見つかりませんでした。
たしかに当時のネットには同じ名がありましたが、名前のみでした。
いまは名前も思い出せません。
宣夫さんには、古い話を聞いたことがありません。
花粉症の心配が無くなりましたら、寄らせて頂きます。
しかし他の家ですが、同じような方がいたと聞いたことがあります。
それにもかかわらず、質問に答えて頂き、ありがしうございます。
私の大先輩の友人に、渋沢栄一の遠縁の方がいます。私と同じ姓です。
かなり以前、その方が私とは遠縁になるのではないかと話していたそうです。
姓の由来は、当姓藤原氏の下級貴族が東下りをして、土着したのが埼玉のようです。出所の分からない資料ですので、鵜呑みには出来ません。
まして同じ姓でも、必ずしも同族とは限りません。
それ以来深谷の渋沢栄一邸、渋沢平九郎自刃の地など訪れています。
ありがとうございました。
小久保と下加治には青田姓が多いのですが、何かいわれがあるのでしょうか。
何かの折りに他の親戚からほんの少し「田中ふく」の話しを聞いたことがあります。
案内板以上のことは分かりません。
他の寺の縁起のように、実際の歴史と異なる飾りが多いのは多々在るでしょう。
写真は外柵外よりズームにして、更にトリミングしています。
田中ふくの墓の左側は先祖の墓もがあり、いい気持ちがしません。