ディアゴスティーニの東宝特撮DVDコレクションが「フランケンシュタイン対地底怪獣」まで行ったので、そっちのことなんかを。
東宝のフランケンシュタインものは「フランケンシュタイン対地底怪獣」と「フランケンシュタインの怪獣サンダ対ガイラ」の二本が製作されている。企画としては、他にも「フランケンシュタイン対ゴジラ」や「フランケンシュタイン対ガス人間」といったものもあったが、残念ながら映像化されることは無かった。両企画の脚本は、最近発行された「ゴジラ 東宝特撮未発表資料アーカイヴ」に収録されているので読んだが、「対ガス人間」の方は完全な「ガス人間第1号」の続編で、生きていたガス人間が、フランケンシュタインの怪物を脅して死んだ藤千代を生き返らせようとする俗なもの。製作されなくて良かったかも。「対ゴジラ」は提携先の海外から「ゴジラに似た新怪獣に」との要望に応える形で、バラゴンに変更になったが、脚本のフランケンシュタインの下りは「対ゴジラ」のものがほとんどそのまま「対地底怪獣」に流用されている。
その結果、地底怪獣ことバラゴンは、ゴジラ以来久々に正当派怪獣として誕生する足場を得ることが出来た。この作品が公開された当時は、まだテレビで怪獣が大量に登場する直前(同じ年に"ウルトラQ"の放送が開始)だったため、国産の怪獣は東宝の映画に登場するものがほとんどだった。が、初代のゴジラがあまりに偉大な存在であったため、それ以外の怪獣はそのどれもが「ゴジラと比較して如何に特徴を出すか」に重視を置かれた、いわばゴジラに対して一目置いた形で創造されたものばかりだった。
四足歩行のアンギラス、空を飛ぶラドン、変化するモスラ、複数の怪獣が合わさったようなキングギドラ・・・。いずれもゴジラのような肉食恐竜型を避けたデザインとなっている。例外はバランだが、それゆえにたった一カ所あるムササビ飛行シーンを除いてあまり特徴のない怪獣となってしまった。
その一方でバラゴンはその枷が取り去られたゆえに果敢にゴジラ型に挑むことが出来た。これは対戦相手がフランケンシュタイン(厳密に言えば"怪物"だが、劇中表記に従う)という西洋怪物の代表格が日本式の怪獣に歩み寄った存在であったため、それに相対する日本式怪獣の代表としてゴジラのイメージを維持しつつも怪物に歩み寄ったデザインと能力、すなわち人知を超えた存在ではなく、生物感を重視した演出が必要であったからだ。外見ではなく、その在り方でゴジラとの差別化を図ったわけである。それゆえか、後年再登場した「ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃」では、バラゴンは当初ゴジラと誤認される役を与えられている。
バラゴンの特徴は、生物感を出すための特徴与えられていること。まずゴジラ型でありながら四足歩行が中心であり、基本的に二足歩行を行うのは格闘時のみである。これは人間を除くほとんどの生物が、四足歩行が中心であるからだ。また、やや間接的ではあるが食肉シーンが描かれ、肉食性であることが分かること、そして日本式怪獣の代表らしく、過去ゴジラ・キングギドラ・ミニラくらいにしか許されなかった口から光線を吐く能力があるが、これも生活上の能力である地面を掘るのが本来の目的であることが、映像で分かるように作られている。これらの能力から、観客は映画に映っていないバラゴンの普段を想像することすら出来る。20作以上に登場したゴジラの映画を見てもゴジラの普段を生活を想像するのは難しいが、バラゴンならばたった一本見ただけで容易に出来る。今までの怪獣と違い、その能力が生活のためにあることが描かれているためである。ただ、一つだけ。地底怪獣なのに明らかに目が発達している外見をしているのが矛盾しているが。
さらに、この生活感の表現は口による説明が要らなず、画面を見るだけで観客に伝えることが出来る。これはバラゴンによって初めて確立した技法だ。残念ながらそれ以降の映画作品でバラゴン型怪獣が描かれることはほとんど無かったが、その表現方法は舞台を移して受け継がれた。
よく、「対地底怪獣」を「巨人と怪獣が戦う姿はのちのウルトラマンの原型になった」などと評する人がいるが、わたしは全くそうは思わない。が、バラゴンはウルトラ怪獣の原型になったと思っている。それは30分という短い放送時間の中で怪獣の説明を行わなければならない制約に対抗出来るノウハウ、「怪獣でありながらある程度生物的に描く技法」である。少なくとも「ウルトラQ」「ウルトラマン」および「帰ってきたウルトラマン」にはバラゴン型の生物的怪獣が多数登場する。それ以降は兵器型怪獣へとウルトラも移行してしまうが、それでも「ウルトラマンタロウ」に登場したバードンのように、生物的怪獣でありながら圧倒的な存在感を見せる怪獣も絶えずに残り続けた。わたしはバラゴンこそ第三の怪獣の始祖と思っている(ちなみに第一はキング・コング、第二はゴジラ)。
ただし、それだけ優れた怪獣であるバラゴンなのに、どうにも映画の評価が低い。海外の企画モノDVDではバカ映画に選ばれているし、DVDコレクションの登場も「サンダ対ガイラ」より遅いし、BD化もなされずほったらかし状態である。やはり主役のフランケンシュタインに怪獣的魅力がないせいか、それともバラゴンが単にゴジラ型として埋没してしまったせいか。もう少し評価されて欲しい怪獣であり、映画だ。
さて、後日談的な内容も兼ねている「フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ」。こちらはすでにBD化されているうえ、世間的には名作扱い。だが・・・。どうしてもその評価文には違和感を感じてしまう。どれをとっても「自衛隊の作戦能力がが・・・」「木をなぎ倒す緻密な特撮・・・」など、自衛隊描写に関することばかりで、中には「主役はメーサー光線車だ」などという意見すら見たことがある。まぁ素人はどう評価しようと自由なのだが、それを玄人がやるのはどうなんだろう? しばらく前の「特撮ニュータイプ」で「サンダ対ガイラ」の解説記事があったが、これもスペースがタップリとあるにもかかわらず、やはり怪獣に触れる箇所はほとんど無く、自衛隊描写の解説に終始していたのだ。仮にも専門誌でこの解説っぷりはどうなんだろう? 自衛隊員の視点で作られた映画ならそれでもいいのだが、あくまで本作の主人公は科学者であり、ガイラである。なぜ世間は「名作」と評価しながらサンダやガイラ、そして映画の内容に目をくれようとしないのか?
「サンダ対ガイラ」の映画を公開当時に見に行った人に話を聞いたことがある。もっとも、その人は映画のタイトルまで覚えていたわけではなかったが。それによると
「アニメとの同時上映(多分「ジャングル大帝」)だったので子供会の行事で見に行ったんだけど、毛むくじゃらの人間が人を喰う話で、気味が悪かった」
と、こういう話だった。この作品においてサンダは後半しか出番がなく、中心となっているのはガイラである。ちなみに、海外版では「フランケンシュタイン」ではなく「ガルガンチュア」という人工生物という扱いで、名前も「ブラウン」「グリーン」と色で呼ぶ程度の区別しかしない。怪獣に名前をつけるのが当たり前の文化圏に生まれ育って、本当に良かったと思う。
そして、そのガイラ、前作のバラゴンのようなそれっぽい描写ではなく、はっきりと人を喰う姿が書かれている怪物なのだ。しかも、その外見は先に書いた通り、毛むくじゃらではあっても人間に近いものである。いわば人が人を喰う。その様に、無意識のうちに気味の悪さ、映画の向こうと分かっていてもその場に居合わせたくない居心地の悪さを観客に与えているのではないだろうか。特に冒頭、必死で泳いで逃げる漁師たちを泳いで追いかける様は、現代の眼で見てもその古い画作りを補って余りある"来る"ものがある。さらに、ガイラを演ずる中島春雄氏の演技がそれに輪をかける。「対バラゴン」でも巨大化したフランケンシュタインが非常に良くできたミニチュアの中をうろつくシーンがあるが、静止画ならばともかく動いているシーンだと、とたんに巨人ではなく、ミニチュアの中を歩く人になってしまう。それは動きが人間そのものであるため、人間中心に画を見てしまうからだ。一方、中島氏はゴジラ以降全ての怪獣映画で怪獣を演じ続けた豊富な経験の持ち主。彼だからこそできた独特の巨人の動きが、ガイラは人間にてはいるが人間ではなく、巨人であるというリアリティーを観客に感じさせる。それらの融合した、「なんとなく悪い感じ」が、どうしてもガイラおよびそれと似たサンダという怪物を、積極的に評価したくなくしているのではないだろうか、と思えてならない。
だが、わたしの場合はまた別の意味でこの作品を楽しめない理由がある。それは、この作品でのガイラの描かれ方があまりに惨めだからである。
わたしのお気に入りの作品は、「空の大怪獣ラドン」。これも悲劇的な箇所はあるが、そこも含めた上で、娯楽作品として楽しんでいる。「サンダ対ガイラ」には一部「ラドン」と似た演出がある。それは自衛隊の総攻撃を浴び、怪獣が苦しむシーンだ。「ラドン」ではもう一匹のラドンが現れて苦しむラドンを救出し、二匹連れ添って逃げていく。それと同様に「サンダ対ガイラ」でも苦しむガイラをサンダが救出に現れる。作品中におけるサンダの初登場シーンだ。ラドンは二匹が最後まで行動を共にし、炎の中に焼かれていった。しかし、サンダとガイラはそうはならなかった。二匹は分身であるのに。
他者の評価にあるように、今作の自衛隊(防衛隊ではない)はしっかりとした作戦を行い、新兵器メーサー光線の威力も手伝って、非常に強い。一方ガイラはタフではあってもしょせんただの巨人ゆえ、離れたところから光線やミサイルで攻撃されると反撃の手段がなく、一方的な攻撃を受ける。逃げ惑うガイラに容赦なく放たれるメーサー光線に、電流放射。全く逃げ場のなくなったガイラの前に、自分の味方になってくれるサンダが現れ、自分をかばってくれた。そして、休める場所へと案内してくれ、傷の手当までしてくれる。どれだけガイラは気が休まったことであろうか。ゆっくりと休むこと以外にガイラのなすべきことは食事である。栄養をつけることが重要だった。だから、ガイラはたまたま山奥までハイキングに来ていた人間を食べた。ガイラにしてみれば、当然のことである。が、サンダは人間に育てられたゆえに、人食いは生理的にも心情的にも受け付けられない行為であったろう、怒りの表情を隠しもせずにガイラに襲いかかる。わざわざサンダに武器として大木を引き抜かせ、それを振りかざして攻撃の意志を表させる"ため"の演出が絶妙である。
とうとうガイラの居場所はなくなった。安住の地を追われ、サンダの元から逃げ出すガイラの姿はあまりに悲しい。そして、ガイラは行動を起こす。もはや回りは全て敵で、自分にとって休める場所などない。ならば、自分の敵を破壊して、自分の場所を作ってやろう。おそらくそう考えたガイラは、ついに食事のためではなく、破壊のために街へ出る。自ら討って出たのである。そこでも執拗にガイラを追い詰めるメーサー光線に、なぜかおだやかな顔でガイラを沈めようとするサンダ。しかし、ガイラは耳を貸そうとすらしない。当然である、自分を裏切って攻撃してきた者の言うことなど、誰が聞こうか。サンダが目の前にいるだけでガイラにとっては苦痛なのだ。
ここでもガイラはひたすら傷つき続ける。サンダに、メーサー光線に、まさに袋だたきにされていく。しかも、自衛隊の攻撃はガイラを傷つけ、痛めつける力はあっても命を奪うほどの威力はない。常に心と体両方の苦痛にさらされ続けるガイラ。その恨みは全てサンダに向かっていく。キシャーという独特の鳴き声が、わたしにはこう聞こえる。にくいにくいにくいにくいにくいにくいにくい、全てがにくい。
その姿に、わたしはどうしても自分を重ねてしまう。かつて、周囲の全てからいじめられ続け、心と体の両方に苦痛を受け続けた子供のころの自分が、暴れ回るガイラの姿にとても似ていると思ってしまうわたしには、ガイラの心が手に取るように分かる。例え食人の習慣があり、人間とは相容れない存在であると分かってはいても、わたしが同情できるのはガイラであり、忌む存在はサンダである。そういう視点を持ってしまうため、わたしはどうしてもこの「サンダ対ガイラ」を娯楽作品として楽しみことができないのだし、そういう部分から目を背けてなされるレビューを評価することもできないのだ。
東宝のフランケンシュタインものは「フランケンシュタイン対地底怪獣」と「フランケンシュタインの怪獣サンダ対ガイラ」の二本が製作されている。企画としては、他にも「フランケンシュタイン対ゴジラ」や「フランケンシュタイン対ガス人間」といったものもあったが、残念ながら映像化されることは無かった。両企画の脚本は、最近発行された「ゴジラ 東宝特撮未発表資料アーカイヴ」に収録されているので読んだが、「対ガス人間」の方は完全な「ガス人間第1号」の続編で、生きていたガス人間が、フランケンシュタインの怪物を脅して死んだ藤千代を生き返らせようとする俗なもの。製作されなくて良かったかも。「対ゴジラ」は提携先の海外から「ゴジラに似た新怪獣に」との要望に応える形で、バラゴンに変更になったが、脚本のフランケンシュタインの下りは「対ゴジラ」のものがほとんどそのまま「対地底怪獣」に流用されている。
![]() | 「ゴジラ」東宝特撮未発表資料アーカイヴ プロデューサー・田中友幸とその時代 |
東宝株式会社株式会社東宝映画 | |
角川書店(角川グループパブリッシング) |
その結果、地底怪獣ことバラゴンは、ゴジラ以来久々に正当派怪獣として誕生する足場を得ることが出来た。この作品が公開された当時は、まだテレビで怪獣が大量に登場する直前(同じ年に"ウルトラQ"の放送が開始)だったため、国産の怪獣は東宝の映画に登場するものがほとんどだった。が、初代のゴジラがあまりに偉大な存在であったため、それ以外の怪獣はそのどれもが「ゴジラと比較して如何に特徴を出すか」に重視を置かれた、いわばゴジラに対して一目置いた形で創造されたものばかりだった。
四足歩行のアンギラス、空を飛ぶラドン、変化するモスラ、複数の怪獣が合わさったようなキングギドラ・・・。いずれもゴジラのような肉食恐竜型を避けたデザインとなっている。例外はバランだが、それゆえにたった一カ所あるムササビ飛行シーンを除いてあまり特徴のない怪獣となってしまった。
その一方でバラゴンはその枷が取り去られたゆえに果敢にゴジラ型に挑むことが出来た。これは対戦相手がフランケンシュタイン(厳密に言えば"怪物"だが、劇中表記に従う)という西洋怪物の代表格が日本式の怪獣に歩み寄った存在であったため、それに相対する日本式怪獣の代表としてゴジラのイメージを維持しつつも怪物に歩み寄ったデザインと能力、すなわち人知を超えた存在ではなく、生物感を重視した演出が必要であったからだ。外見ではなく、その在り方でゴジラとの差別化を図ったわけである。それゆえか、後年再登場した「ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃」では、バラゴンは当初ゴジラと誤認される役を与えられている。
バラゴンの特徴は、生物感を出すための特徴与えられていること。まずゴジラ型でありながら四足歩行が中心であり、基本的に二足歩行を行うのは格闘時のみである。これは人間を除くほとんどの生物が、四足歩行が中心であるからだ。また、やや間接的ではあるが食肉シーンが描かれ、肉食性であることが分かること、そして日本式怪獣の代表らしく、過去ゴジラ・キングギドラ・ミニラくらいにしか許されなかった口から光線を吐く能力があるが、これも生活上の能力である地面を掘るのが本来の目的であることが、映像で分かるように作られている。これらの能力から、観客は映画に映っていないバラゴンの普段を想像することすら出来る。20作以上に登場したゴジラの映画を見てもゴジラの普段を生活を想像するのは難しいが、バラゴンならばたった一本見ただけで容易に出来る。今までの怪獣と違い、その能力が生活のためにあることが描かれているためである。ただ、一つだけ。地底怪獣なのに明らかに目が発達している外見をしているのが矛盾しているが。
さらに、この生活感の表現は口による説明が要らなず、画面を見るだけで観客に伝えることが出来る。これはバラゴンによって初めて確立した技法だ。残念ながらそれ以降の映画作品でバラゴン型怪獣が描かれることはほとんど無かったが、その表現方法は舞台を移して受け継がれた。
よく、「対地底怪獣」を「巨人と怪獣が戦う姿はのちのウルトラマンの原型になった」などと評する人がいるが、わたしは全くそうは思わない。が、バラゴンはウルトラ怪獣の原型になったと思っている。それは30分という短い放送時間の中で怪獣の説明を行わなければならない制約に対抗出来るノウハウ、「怪獣でありながらある程度生物的に描く技法」である。少なくとも「ウルトラQ」「ウルトラマン」および「帰ってきたウルトラマン」にはバラゴン型の生物的怪獣が多数登場する。それ以降は兵器型怪獣へとウルトラも移行してしまうが、それでも「ウルトラマンタロウ」に登場したバードンのように、生物的怪獣でありながら圧倒的な存在感を見せる怪獣も絶えずに残り続けた。わたしはバラゴンこそ第三の怪獣の始祖と思っている(ちなみに第一はキング・コング、第二はゴジラ)。
ただし、それだけ優れた怪獣であるバラゴンなのに、どうにも映画の評価が低い。海外の企画モノDVDではバカ映画に選ばれているし、DVDコレクションの登場も「サンダ対ガイラ」より遅いし、BD化もなされずほったらかし状態である。やはり主役のフランケンシュタインに怪獣的魅力がないせいか、それともバラゴンが単にゴジラ型として埋没してしまったせいか。もう少し評価されて欲しい怪獣であり、映画だ。
![]() | フランケンシュタイン 対 地底怪獣 [DVD] |
馬渕薫 | |
東宝 |
さて、後日談的な内容も兼ねている「フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ」。こちらはすでにBD化されているうえ、世間的には名作扱い。だが・・・。どうしてもその評価文には違和感を感じてしまう。どれをとっても「自衛隊の作戦能力がが・・・」「木をなぎ倒す緻密な特撮・・・」など、自衛隊描写に関することばかりで、中には「主役はメーサー光線車だ」などという意見すら見たことがある。まぁ素人はどう評価しようと自由なのだが、それを玄人がやるのはどうなんだろう? しばらく前の「特撮ニュータイプ」で「サンダ対ガイラ」の解説記事があったが、これもスペースがタップリとあるにもかかわらず、やはり怪獣に触れる箇所はほとんど無く、自衛隊描写の解説に終始していたのだ。仮にも専門誌でこの解説っぷりはどうなんだろう? 自衛隊員の視点で作られた映画ならそれでもいいのだが、あくまで本作の主人公は科学者であり、ガイラである。なぜ世間は「名作」と評価しながらサンダやガイラ、そして映画の内容に目をくれようとしないのか?
「サンダ対ガイラ」の映画を公開当時に見に行った人に話を聞いたことがある。もっとも、その人は映画のタイトルまで覚えていたわけではなかったが。それによると
「アニメとの同時上映(多分「ジャングル大帝」)だったので子供会の行事で見に行ったんだけど、毛むくじゃらの人間が人を喰う話で、気味が悪かった」
と、こういう話だった。この作品においてサンダは後半しか出番がなく、中心となっているのはガイラである。ちなみに、海外版では「フランケンシュタイン」ではなく「ガルガンチュア」という人工生物という扱いで、名前も「ブラウン」「グリーン」と色で呼ぶ程度の区別しかしない。怪獣に名前をつけるのが当たり前の文化圏に生まれ育って、本当に良かったと思う。
そして、そのガイラ、前作のバラゴンのようなそれっぽい描写ではなく、はっきりと人を喰う姿が書かれている怪物なのだ。しかも、その外見は先に書いた通り、毛むくじゃらではあっても人間に近いものである。いわば人が人を喰う。その様に、無意識のうちに気味の悪さ、映画の向こうと分かっていてもその場に居合わせたくない居心地の悪さを観客に与えているのではないだろうか。特に冒頭、必死で泳いで逃げる漁師たちを泳いで追いかける様は、現代の眼で見てもその古い画作りを補って余りある"来る"ものがある。さらに、ガイラを演ずる中島春雄氏の演技がそれに輪をかける。「対バラゴン」でも巨大化したフランケンシュタインが非常に良くできたミニチュアの中をうろつくシーンがあるが、静止画ならばともかく動いているシーンだと、とたんに巨人ではなく、ミニチュアの中を歩く人になってしまう。それは動きが人間そのものであるため、人間中心に画を見てしまうからだ。一方、中島氏はゴジラ以降全ての怪獣映画で怪獣を演じ続けた豊富な経験の持ち主。彼だからこそできた独特の巨人の動きが、ガイラは人間にてはいるが人間ではなく、巨人であるというリアリティーを観客に感じさせる。それらの融合した、「なんとなく悪い感じ」が、どうしてもガイラおよびそれと似たサンダという怪物を、積極的に評価したくなくしているのではないだろうか、と思えてならない。
だが、わたしの場合はまた別の意味でこの作品を楽しめない理由がある。それは、この作品でのガイラの描かれ方があまりに惨めだからである。
わたしのお気に入りの作品は、「空の大怪獣ラドン」。これも悲劇的な箇所はあるが、そこも含めた上で、娯楽作品として楽しんでいる。「サンダ対ガイラ」には一部「ラドン」と似た演出がある。それは自衛隊の総攻撃を浴び、怪獣が苦しむシーンだ。「ラドン」ではもう一匹のラドンが現れて苦しむラドンを救出し、二匹連れ添って逃げていく。それと同様に「サンダ対ガイラ」でも苦しむガイラをサンダが救出に現れる。作品中におけるサンダの初登場シーンだ。ラドンは二匹が最後まで行動を共にし、炎の中に焼かれていった。しかし、サンダとガイラはそうはならなかった。二匹は分身であるのに。
他者の評価にあるように、今作の自衛隊(防衛隊ではない)はしっかりとした作戦を行い、新兵器メーサー光線の威力も手伝って、非常に強い。一方ガイラはタフではあってもしょせんただの巨人ゆえ、離れたところから光線やミサイルで攻撃されると反撃の手段がなく、一方的な攻撃を受ける。逃げ惑うガイラに容赦なく放たれるメーサー光線に、電流放射。全く逃げ場のなくなったガイラの前に、自分の味方になってくれるサンダが現れ、自分をかばってくれた。そして、休める場所へと案内してくれ、傷の手当までしてくれる。どれだけガイラは気が休まったことであろうか。ゆっくりと休むこと以外にガイラのなすべきことは食事である。栄養をつけることが重要だった。だから、ガイラはたまたま山奥までハイキングに来ていた人間を食べた。ガイラにしてみれば、当然のことである。が、サンダは人間に育てられたゆえに、人食いは生理的にも心情的にも受け付けられない行為であったろう、怒りの表情を隠しもせずにガイラに襲いかかる。わざわざサンダに武器として大木を引き抜かせ、それを振りかざして攻撃の意志を表させる"ため"の演出が絶妙である。
とうとうガイラの居場所はなくなった。安住の地を追われ、サンダの元から逃げ出すガイラの姿はあまりに悲しい。そして、ガイラは行動を起こす。もはや回りは全て敵で、自分にとって休める場所などない。ならば、自分の敵を破壊して、自分の場所を作ってやろう。おそらくそう考えたガイラは、ついに食事のためではなく、破壊のために街へ出る。自ら討って出たのである。そこでも執拗にガイラを追い詰めるメーサー光線に、なぜかおだやかな顔でガイラを沈めようとするサンダ。しかし、ガイラは耳を貸そうとすらしない。当然である、自分を裏切って攻撃してきた者の言うことなど、誰が聞こうか。サンダが目の前にいるだけでガイラにとっては苦痛なのだ。
ここでもガイラはひたすら傷つき続ける。サンダに、メーサー光線に、まさに袋だたきにされていく。しかも、自衛隊の攻撃はガイラを傷つけ、痛めつける力はあっても命を奪うほどの威力はない。常に心と体両方の苦痛にさらされ続けるガイラ。その恨みは全てサンダに向かっていく。キシャーという独特の鳴き声が、わたしにはこう聞こえる。にくいにくいにくいにくいにくいにくいにくい、全てがにくい。
その姿に、わたしはどうしても自分を重ねてしまう。かつて、周囲の全てからいじめられ続け、心と体の両方に苦痛を受け続けた子供のころの自分が、暴れ回るガイラの姿にとても似ていると思ってしまうわたしには、ガイラの心が手に取るように分かる。例え食人の習慣があり、人間とは相容れない存在であると分かってはいても、わたしが同情できるのはガイラであり、忌む存在はサンダである。そういう視点を持ってしまうため、わたしはどうしてもこの「サンダ対ガイラ」を娯楽作品として楽しみことができないのだし、そういう部分から目を背けてなされるレビューを評価することもできないのだ。
![]() | 【東宝特撮Blu-rayセレクションフランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ |
ラス・タンブリン,佐原健二,水野久美,田崎 潤 | |
東宝 |
サンダ対ガイラの方が評価が高いのは、タランティーノあたりの影響が大きいのでは、なんて思ってます。
相対的評価はそれほど気にしてないんですよ。対地底怪獣の絶対的評価、もう少し上がって欲しいんです。
ちょっと感動してしまいました。
一度ガイラの視点から見直してみてください。全く別物に見えてきますよ。ひょっとしたら、「サンダ対ガイラ」が嫌いになってしまうかも知れないほど。
私も、どちらかというとサンダよりガイラの方に感情移入してしまう方です。攻撃されるガイラを助けるサンダを見て分る通り、彼らは最初から敵対していた訳では無く、人間に対する価値の違いで争う事になります。
ガイラを手厚く介護するサンダの様子に、彼の「弟」に対する愛情を感じ、温かい気持ちにさせられるだけに後に来る悲劇が際立って感じます。独りぼっちで生きてきた彼らにとって「兄弟」というか「同種族」との出会いは、驚きと同時に喜びでもあったと思いますから。
サンダにしてみれば、人間を襲うのをやめない「弟」の所業に嘆き、ガイラにしてみれば、どうして「兄」は例の2本足の生き物の事になるとムキになるのか分らない。彼らは争いながらも、お互い苦しんでいたに違いありません。そう思うと、この悲しい「兄弟」を作り出した人間の罪深さを痛感してしまいます。
この物語を見て思った事は、人間にとって不死身の肉体なんかより兄弟・同族が仲良く生きていける幸せの方が一番大切なのだという事です。私達もコミュニケーションの輪を広げる為に、色々な人達と仲良くしていきたいですね。
独特な見方と言われることはあっても理解はしてもらえないガイラ擁護論ですが、同意していただける人がいてありがたいです。
文中でも少し触れましたが、「ラドン」では二匹は間違いなく仲良く暮らす世界をつくっていました。わたしは「三大怪獣~」移行に登場するラドンは2匹の子供という説をとっています。そのラドンはある種怪獣お伽話である「怪獣総進撃」で人間に保護される立場になりました。怪獣ですら保護されるのに、同族同士で戦い、人から排除されるサンダとガイラ。人間に近いが故に判り合えない人の業の深さを謳ったようにも感じます。
特に「サンダ対ガイラ」は食人のための食人でなく、純粋な食事のための食人という感があって他の作品と一線を画していると思います。両作ともラストが唐突である点が画竜点睛を欠きますが。
最近フランケン対地底怪獣、サンダ
対ガイラ更にキングコングの逆襲を
観て、自分の中での怪獣映画が再評
価されました。
そこで思ったのは、平成ガメラシリ
ーズの様に旧作の設定を一旦リセッ
トして、全くの新作としてフランケ
ン対地底怪獣、サンダ対ガメラをリ
メイク、更にこれにゴロザウルスや
メカニコング(勿論バラゴンも)も
新デザインで登場させ2部作で制作
したら、かなり面白い物になるのでは
ないでしょうか。
実際フランケンもサンダもガイラも、
ゴロザウルスもメカニコングもこの
まま眠らせたままにしておくのは
とても惜しい怪獣達だとおもうので。
それは難しいでしょうね。ご存知かどうかは分かりませんが、東宝フランケンシュタインの発端は海外からの持ち込み企画である「キングコング対ギコ」がベースで、さらにさかのぼれば初代キングコング特撮担当者、ウィリス・オブライエンの企画「キングコング対フランケンシュタイン」に辿り着くところから作成されているのです。したがって版権の一部は海外エージェントにあり、完全な東宝の自由にはありません。ゴジラvsシリーズが作られていた時に川北特技監督がなんとか契約の隙をついてメカニコングの復活をもくろみましたが失敗したという話もあります。
東宝の自由になるのは両コング以外のキャラの外見と名前だけです。これはかつてDVDボックス特典「行け!行け!ゴッドマン」用怪獣としてガイラが製造されたことから明らかですが、外見同じで設定の異なる流用をしたらファンが怒るでしょう。あれはこのままにしておくべきですよ。