狭き門より入れ

スペイン在住クリスチャン。聖書にある救いとは?罪の赦しとは? 礼拝などから、福音メッセージを載せています。

チャンスを逃すな!

2021年07月28日 | 聖書
「すると見よ。 道端に座っていた目の見えな二人の人が、イエスが通られると聞いて、“主よ、ダビデの子よ。 わたしたちをあわれんでください“ と叫んだ。
群衆は彼らを黙らせようとたしなめたが、彼らはますます、“主よ、ダビデの子よ。私たちをあわれんでください“ と叫んだ。」(マタイ 20 : 30-31 )

イエス様が道を通りかかった時、もし助けを求めなかったら、この二人の盲人は、その後どうなっていたでしょうか。 もう二度とイエス様と会えるチャンスが訪れず、視力を取り戻すことができなかったかもしれません。

群衆のなかには、イエス様が本当に彼らを癒すことができると信じていなかったので、あえてイエス様に叫ばなかった人々もいたかもしれません。 あるいは、周囲の人々の目を恐れてイエス様に叫ばなかった人々もいたかもしれません。
しかし、この二人の盲人は、叫びました。
彼らは、イエス様が再びそこを通るかどうか知りませんでした。 彼らにとって、それは、一生のうち、たった一度だけのチャンスだったかも知れないのです。
同様に、私たち一人一人の生活の中で、それを逃すと、二度と訪れない、見逃してはならないチャンスというものがあります。
今、このブログを読むと、救いの福音があなたに示されます。 あなたには、今後、イエス様があなたに近づき、あなたの心の扉を開くように働きかけてくださるかどうかは、わかりません。 しかし、確かな事は、イエス様は今、この瞬間、あなたに語りかけているということです。

「見よ。 わたしは戸の外に立ってたたいている。 だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」(黙示録3:20)

聖書は繰り返します。

「今日、もし御声を聞くなら、あなたがたの心を頑なにしてはならない」(ヘブル 4 : 7)

誰かが言いました。「“明日“という言葉は、悪魔の言葉だ。」と。
明日のことは、誰にも保証できません。 決定を明日に延ばしたために大きな損害を受けることがあるのです。

一人一人が今、十字架でのイエス様のあがないの御業に信頼して、イエス・キリストを救い主として受け入れるように招かれています。 そして、この瞬間、あなたの永遠の未来を決定することができます。
イエス様は、私たちの身代わりとなり、私たちが死後受けるべきだった、全ての罪の罰を、十字架上で、その身に受けてくださいました。 それは、私たちが、全ての罪を許されて、永遠の地獄から救われ、永遠の天国に行けるようになるためだったのです。
どうか、このチャンスを逃さないで、今、この救いを受け取ってくださいますように!

(La buena semilla より)