「マッハ力学―力学の批判的発展史:伏見譲訳」(リンク2)
内容紹介:
古典力学はどこまで科学的か?ニュートン力学における絶対時間・絶対空間は認められるものか?マッハの根源的検証は、疑いようもないと見なされていたニュートン力学の批判であると同時に、感覚の分析を通して考察された反形而上学的認識論でもあった。物理学と心理・生理学を往き来しながら、マッハの思想は大きなうねりとなり、アインシュタインの相対論に道を拓き、ヴィトゲンシュタイン、ゲーデルなど後世の哲学者に影響を及ぼした。
1969年10月刊行、485ページ。
著者について:
エルンスト・マッハ: ウィキペディアの記事 著書検索
1938‐1916。オーストリアのモラビア(現チェコ領)生まれ。ウィーン大学卒業後、プラハ大学で高速流体の実験研究や心理学で業績をあげ、その間、『感覚の分析』などを著した。物理学のほかに科学論・哲学にも広がる大きな影響を及ぼした。
訳者について:
伏見譲(ふしみ・ゆずる): ウィキペディアの記事 著書・訳書検索
1943年2月21日生まれ。日本の物理学者、生物物理学者、進化分子工学者。埼玉大学名誉教授/埼玉大学特任教授。
理数系書籍のレビュー記事は本書で348冊目。
本書はレビュー記事を書きにくい部類の本だと思う。実際に読んでみて、自分で何を感じ、何を考えたかをお伝えするのが、お読みになる方にとってはいちばんよいのだろう。
本書を知ったときのこと
この本のことを知ったのは2006年頃、神田神保町の明倫館書店でのこと。天文学や数学は中学生のころから好きだったが、遅まきながら物理学に興味をもち、このブログに理系書籍のレビュー記事を書き始めたころのことだ。
書店の本棚から取り出し、ニュートン力学批判の本であることに驚いた。それもニュートンが亡くなってから150年以上も経ってからこの本の原著の初版が刊行されたようだ。(今回僕が読んだのは1933年に刊行された第9版の日本語訳である。)マッハは音速の単位だと知っていたけれども、マッハ力学なんて聞いたことがない。ニュートンを批判するなどもってのほかである。さぞ異端児扱いされたことだろう。
高校物理の教科書でも名前は見たことないし、僕が知らないくらいなのだから有名ではなく、これはきっとボツになった力学理論なのだろう。著者のエルンスト・マッハという人は「回転しているのはバケツではなく宇宙のほうだ。」などと屁理屈を言っているそうだから、きっとトンデモ系の学者に違いない。どんなトンデモ理論が書いてあるのだろうか。面白そうだからいつか読んでやろう。
本書との出会いはこのようなものだった。無知とは恥ずかしいこと、恐ろしいことである。
勘違いをさらに修正
その後、ウィキペディアや本書のレビューをネットで読み、大きな勘違いをしていたことに気が付いた。そして今年の古本まつりで格安で販売されているのを見つけて購入した。装丁は安野光雅さんによるものだ。
しかし、僕の勘違いはまったく解消していたわけではない。ニュートン力学批判を延々と繰り返しながら、新しい力学を全編にわたって展開し、20世紀の物理学に影響を与えた本だと思っていたからだ。僕の早とちりはなかなか治らない。
読み始めてすぐ、大きな誤解だと気がついた。ニュートン力学だけでなく、古代ギリシア哲学者アルキメデスのテコの原理からガリレイ、ニュートンを経て、オイラー、ラグランジュによって結実する解析力学まで、古典力学史全体をカバーしている。
全体的に、特に第3章までは文章の割合がとても多く、数式は大学初年度で学ぶレベルに抑えられていて読みやすい。数式が増えてくるのは第3章からだが、同じく古典力学史を解説するハイレベルの「古典力学の形成―ニュートンからラグランジュへ:山本義隆」(続き)よりずっと読みやすい。
本書の流れ
全体の章立ては次のとおりだ。あらすじは「マッハ「力学の発展の歴史」の要約」というページでお読みいただける。
第1章 静力学の原理の発達
第2章 動力学の原理の発達
第3章 力学の原理の応用と演繹的発展
第4章 力学の形式的発展
第5章 力学の他の知識領域への関係
まず、テコの原理、滑車の原理、力の合成則など小中学校の理科で学ぶ事がらが取り上げられていることに唖然とした。そういえば、これらはなぜそうなるのか、いまでも僕は子供たちがわかるように説明できないし、子供のころは先生から教わったとおりに計算方法を覚えただけである。力については平行四辺形を使って分解できるのだが、なぜそうなるのだろう?
マッハはアルキメデスが解説したテコの原理の説明に、経験によって自明な事がらが紛れ込んでいるため完全な説明になっていないと指摘する。
アルキメデスはテコの原理を、ステヒンは斜面の原理をベルヌーイは平行四辺形の原理を、ラグランジェは仮想仕事の原理を証明した。これら本能的認識できる事がらも、やはり経験的認識なのである。新しい経験領域が突然現れる場合、本能的認識は全く不十分で役に立たない。全ての原理は多かれ少なかれ、それぞれ同じ事実の異なる側面を捉えているのだ。
ただし、これら静力学の原理は小学生から高校までで学んだことであり、退屈に感じたのも事実である。しかし、学校で学んだことが、誰によってどのように実験され、原理として提唱されていったか知ることができたのは有益だった。教科書で天下りに学んだことに、これほどの手間と深い考察が必要だったことは、高校で力学を学んだ後でないと理解できないと思う。この点については第2章の動力学の原理で、ガリレイやホイヘンスの業績の解説の部分でも同じことだ。相変わらず初等力学の復習が続くので辛抱して読んだ。
中学、高校では斜面に球を転がせて加速度運動の実験をしたり、2つの球をぶつけて運動量の変化をする。この時代の科学者はどのようにして実験したかも挿絵付きで説明している。今ならストロボを使ったり、ビデオで撮影したりして簡単にすむことも、短い時間を測る時計がなかった時代には工夫しなければ実験できなかった。
落体の法則を導くとき、なぜ斜面を使って計測してもよいのだろうか?また放物運動をする物体は、なぜ高さ方向と横方向に運動を分解してもよいのだろうか?高校時代、僕は疑問にすら思っていなかった。当時の科学者がこれらの疑問にどのように決着をつけたのかが本書には書かれている。
ニュートン批判開始
ニュートン力学批判が始まるのは第2章のホイヘンスの次、170ページ目あたりからだ。力学3法則は高校物理で、万有引力の法則は高校地学で学んでいたわけだが、授業を受けていたときにいくつか疑問に思っていたことを思い出した。
そのひとつは「質点」のことであり、大きさのある天体にその質量をたった1点に集中させてよいのだろうかと思っていたことだ。これは2008年に「物体の質点は一般に存在しない - 重心と質点の話」や「地球を8000万個に分割してみた - 重心と質点の話」、「ニュートンの質点定理の証明 (ファインマン物理学 I, 191pより)」で解決している。
マッハが問題にしたのは力学3法則のほうで、ニュートンによる「質量」、「絶対空間」、「絶対時間」に対してのことだ。質量についてはニュートンの説明は循環論法のようであり、絶対空間・絶対時間は無批判に仮定してしまっている。
確かにニュートンの時代に質量を厳密に定義するのは無理であり、質量の起源は1905年にアインシュタインが提唱した特殊相対論から導かれる E=mc^2 という質量とエネルギーの等価性によって示された。そして絶対空間や絶対時間が存在しないことも、アインシュタインの相対性理論によって明らかになったことである。
ガリレイのように地上の力学、相対性原理を論じている間は事実上問題にならない絶対空間と絶対時間も、宇宙全体にまで適用してよいかどうかは誰にも断言できないはずだ。
マッハは力や加速度、作用反作用の法則、力や運動、運動量に関してもニュートンの考え方に鋭いメスを入れ、その矛盾を浮き彫りにする。マッハの主張は相対的なものと絶対的なものとを区別する必要は無いというものだ。力学の基本法則はすべて物体の相対位置と相対運動に関するものであり、これらの法則が今日成立すると見なされる範囲で容認出来るのは、正に検証されてきたからに過ぎない。
ニュートンは回転するバケツの水が凹むことで、絶対空間に対する運動を検出できるとしたが、果たしてバケツに対して全恒星(恒星天)が回転するとき、バケツの水が凹まないとどうして言えるのだろうか?とマッハは反論している。これは屁理屈ではなく、よくよく考えるとまっとうな主張なのだ。(いわゆる「マッハの原理」)この考えは、後に一般相対性理論につながる発想だった。
とはいえ、マッハはニュートンの業績全体や後世に果たした役割は、肯定的にとらえている。批判に終始していたのではない。(ニュートン力学の全否定などできるはずがない。)
再び力学史を詳しく解説
第2章までニュートン力学の不備を指摘した後、第3章 力学の原理の応用と演繹的発展でニュートン以降、解析力学に至るまでの初等力学史を、数式や図版を増やしたスタイルで解説を行なう。流体力学や光学にまでおよぶその内容は教科書的な解説にとどまらず、それぞれの成果が力学史の中でどのような意義をもっているのかを説明しているところが、読者にとって有益なところだ。
ヤコブ・ベルヌーイ、ヨハン・ベルヌーイ、モーペルテュイ、オイラー、ダランベール、ラグランジュなどの研究により、古典力学が完成するまでおよそ200年の年月が必要だった。
この部分には批判らしきものはほとんどなく、力学の中級以上のレベルの問題ばかりなので、よいトレーニングになった。(つまり退屈しなかった。)
マッハの主張と意義、後世への影響
第4章 力学の形式的発展では、解析力学をふたたび取り上げ、掘り下げる。科学にとって解析力学は何なのか?この点についてマッハは次のように述べている。
力学現象の本質についての新しい原理的解明を期待してはならない。解析力学の目的は問題を最も簡単に実用的に解く事にある。解析力学は解析学の持つ普遍性という長所と幾何学の直観性という長所が統一されている。また計算方法の進歩が同時に概念の進歩の表現になっている。
読み始めたころは「この本のどこが凄いのかしら?」と思う局面が何度もあったが、第4章にさしかかった頃になってようやくこの著作の価値がじわじわとわかってきた。ニュートン力学批判は重要な点だが、本書のひとつの側面であるに過ぎない。
自然科学を研究するとはどういうことか?神学が生活や思考の規範であったこの時代、神学と切り離して自然を考察することは、並大抵のことではない。かのオイラーでさえ神学的立場を保持していた。解析力学を完成させたラグランジュに至って、科学はようやく神学の縛りを解くことができたのだ。
「科学とは何か?科学を進める上で、注意すべきことは何か?」
第4章から第5章にかけてマッハは非常に深く、本質を突いた主張をしている。批判したり歴史を紹介するだけでは何も生み出さない。本書の価値は、まさにこの部分にあると思った。マッハの主張は「マッハ「力学の発展の歴史」の要約」の最後でお読みいただけるのだが、本書を読んで、その文脈の中で理解するのがよいと思う。
マッハの影響を多大に受け、相対性理論を打ち立てたアインシュタインは、マッハを次のように評価している。
「理論物理学者が使う方法について何かを探り出したいのなら、彼のいうことばに惑わされてはならない。彼が何をしたかに注意すればよいのだ。しかし、マッハの場合、彼は批判者なのだからこの文句を少し変える必要があるかもしれない。マッハについてあれこれ言われていることに気をとられる必要はない。マッハ当人が本当に言おうとしていることを理解しなければならない。」
「関連ページ:」として、他の方のレビュー記事や解説ページを最後に紹介しておいたが、本書を読み終えて、そこに書かれていることの意味がようやく僕には理解できた。要約だけでは伝わらないことがたくさんある本だ。
古典物理学や科学史から学べることは、とてもたくさんある。高校で物理を学んだ方、物理学科の大学生は、ぜひお読みになっていただきたい。
岩野先生による訳書
本書は岩野秀明先生による訳書も2006年に刊行されている。下巻には訳者による相対性理論とマッハの関係の考察が書かれているそうだ。
岩野秀明(いわの・ひであき): 研究者情報 著書・訳書を検索
1940年生まれ。東京大学文学部でギリシア哲学・認識論を学び研究し、卒業後哲学・論理学等を講義。専攻、哲学。東京情報大学名誉教授。
「マッハ力学史〈上〉―古典力学の発展と批判 (ちくま学芸文庫)」
「マッハ力学史〈下〉―古典力学の発展と批判 (ちくま学芸文庫)」
関連ページ:
マッハ「力学の発展の歴史」の要約
http://island.geocities.jp/gendaibuturikyousitu/issu/Machhisdyna.htm
157夜『マッハ力学』エルンスト・マッハ|松岡正剛の千夜千冊
http://1000ya.isis.ne.jp/0157.html
マッハ力学 力学の批判的発展史
http://xylapone.d.dooo.jp/log2/philos/mach1.html
http://xylapone.d.dooo.jp/log2/philos/mach2.html
http://xylapone.d.dooo.jp/log2/philos/mach3.html
関連記事:
マッハと現代物理学: 伏見康治
http://blog.goo.ne.jp/ktonegaw/e/199aca0e09948ec308f1cd870fd06b43
日本語版「プリンキピア」が背負った不幸
http://blog.goo.ne.jp/ktonegaw/e/bff5ce90fca6b8b13d263d0ce6fc134e
古典力学の形成―ニュートンからラグランジュへ:山本義隆
http://blog.goo.ne.jp/ktonegaw/e/b5904a574fd4c4e276da496bd2c1821b
古典力学の形成: 山本義隆―続きの話
http://blog.goo.ne.jp/ktonegaw/e/b5904a574fd4c4e276da496bd2c1821b
科学の発見: スティーブン・ワインバーグ
http://blog.goo.ne.jp/ktonegaw/e/70612f539adade398a14a27e87b70d92
ブログ執筆のはげみになりますので、1つずつ応援クリックをお願いします。
「マッハ力学―力学の批判的発展史:伏見譲訳」(リンク2)
著者の序文
初版から第9版への序文
第1章 静力学の原理の発達
- テコの原理
- 斜面の原理
- 力の合成則
- 仮想仕事の原理
- 静力学の発達の回顧
- 静力学の原理の液体への応用
- 静力学の原理の気体への応用
第2章 動力学の原理の発達
- ガリレイの業績
- ホイヘンスの業績
- ニュートンの業績
- 作用反作用の法則の詳論と具体例
- 作用反作用の法則と質量概念の批判
- ニュートンの時間・空間・運動
- ニュートンの力学の包括的批判
- 動力学の発展への回顧
- ヘルツの力学
- 本章の思想に対する種々の意見について
第3章 力学の原理の応用と演繹的発展
- ニュートン的諸法則の適用範囲
- 力学の量と単位
- 運動量保存法則・重心の定理・面積の定理
- 衝突の法則
- ダランベールの原理
- 力学的エネルギー保存の法則
- 最小拘束の原理
- 最小作用の原理
- ハミルトンの原理
- 力学の原理の流体力学への応用
第4章 力学の形式的発展
- 等周問題
- 力学における神学的、アニミズム的、神秘主義的観点について
- 解析力学
- 科学の経済
第5章 力学の他の知識領域への関係
- 力学の物理学への関係
- 力学の生理学への関係
- おわりに
マッハと現代物理学 伏見康治
訳者注
マッハ略年譜その他
付記
年表(秀でた科学者とその力学の基礎に関する重要な論文)
人名索引
事項索引
内容紹介:
古典力学はどこまで科学的か?ニュートン力学における絶対時間・絶対空間は認められるものか?マッハの根源的検証は、疑いようもないと見なされていたニュートン力学の批判であると同時に、感覚の分析を通して考察された反形而上学的認識論でもあった。物理学と心理・生理学を往き来しながら、マッハの思想は大きなうねりとなり、アインシュタインの相対論に道を拓き、ヴィトゲンシュタイン、ゲーデルなど後世の哲学者に影響を及ぼした。
1969年10月刊行、485ページ。
著者について:
エルンスト・マッハ: ウィキペディアの記事 著書検索
1938‐1916。オーストリアのモラビア(現チェコ領)生まれ。ウィーン大学卒業後、プラハ大学で高速流体の実験研究や心理学で業績をあげ、その間、『感覚の分析』などを著した。物理学のほかに科学論・哲学にも広がる大きな影響を及ぼした。
訳者について:
伏見譲(ふしみ・ゆずる): ウィキペディアの記事 著書・訳書検索
1943年2月21日生まれ。日本の物理学者、生物物理学者、進化分子工学者。埼玉大学名誉教授/埼玉大学特任教授。
理数系書籍のレビュー記事は本書で348冊目。
本書はレビュー記事を書きにくい部類の本だと思う。実際に読んでみて、自分で何を感じ、何を考えたかをお伝えするのが、お読みになる方にとってはいちばんよいのだろう。
本書を知ったときのこと
この本のことを知ったのは2006年頃、神田神保町の明倫館書店でのこと。天文学や数学は中学生のころから好きだったが、遅まきながら物理学に興味をもち、このブログに理系書籍のレビュー記事を書き始めたころのことだ。
書店の本棚から取り出し、ニュートン力学批判の本であることに驚いた。それもニュートンが亡くなってから150年以上も経ってからこの本の原著の初版が刊行されたようだ。(今回僕が読んだのは1933年に刊行された第9版の日本語訳である。)マッハは音速の単位だと知っていたけれども、マッハ力学なんて聞いたことがない。ニュートンを批判するなどもってのほかである。さぞ異端児扱いされたことだろう。
高校物理の教科書でも名前は見たことないし、僕が知らないくらいなのだから有名ではなく、これはきっとボツになった力学理論なのだろう。著者のエルンスト・マッハという人は「回転しているのはバケツではなく宇宙のほうだ。」などと屁理屈を言っているそうだから、きっとトンデモ系の学者に違いない。どんなトンデモ理論が書いてあるのだろうか。面白そうだからいつか読んでやろう。
本書との出会いはこのようなものだった。無知とは恥ずかしいこと、恐ろしいことである。
勘違いをさらに修正
その後、ウィキペディアや本書のレビューをネットで読み、大きな勘違いをしていたことに気が付いた。そして今年の古本まつりで格安で販売されているのを見つけて購入した。装丁は安野光雅さんによるものだ。
しかし、僕の勘違いはまったく解消していたわけではない。ニュートン力学批判を延々と繰り返しながら、新しい力学を全編にわたって展開し、20世紀の物理学に影響を与えた本だと思っていたからだ。僕の早とちりはなかなか治らない。
読み始めてすぐ、大きな誤解だと気がついた。ニュートン力学だけでなく、古代ギリシア哲学者アルキメデスのテコの原理からガリレイ、ニュートンを経て、オイラー、ラグランジュによって結実する解析力学まで、古典力学史全体をカバーしている。
全体的に、特に第3章までは文章の割合がとても多く、数式は大学初年度で学ぶレベルに抑えられていて読みやすい。数式が増えてくるのは第3章からだが、同じく古典力学史を解説するハイレベルの「古典力学の形成―ニュートンからラグランジュへ:山本義隆」(続き)よりずっと読みやすい。
本書の流れ
全体の章立ては次のとおりだ。あらすじは「マッハ「力学の発展の歴史」の要約」というページでお読みいただける。
第1章 静力学の原理の発達
第2章 動力学の原理の発達
第3章 力学の原理の応用と演繹的発展
第4章 力学の形式的発展
第5章 力学の他の知識領域への関係
まず、テコの原理、滑車の原理、力の合成則など小中学校の理科で学ぶ事がらが取り上げられていることに唖然とした。そういえば、これらはなぜそうなるのか、いまでも僕は子供たちがわかるように説明できないし、子供のころは先生から教わったとおりに計算方法を覚えただけである。力については平行四辺形を使って分解できるのだが、なぜそうなるのだろう?
マッハはアルキメデスが解説したテコの原理の説明に、経験によって自明な事がらが紛れ込んでいるため完全な説明になっていないと指摘する。
アルキメデスはテコの原理を、ステヒンは斜面の原理をベルヌーイは平行四辺形の原理を、ラグランジェは仮想仕事の原理を証明した。これら本能的認識できる事がらも、やはり経験的認識なのである。新しい経験領域が突然現れる場合、本能的認識は全く不十分で役に立たない。全ての原理は多かれ少なかれ、それぞれ同じ事実の異なる側面を捉えているのだ。
ただし、これら静力学の原理は小学生から高校までで学んだことであり、退屈に感じたのも事実である。しかし、学校で学んだことが、誰によってどのように実験され、原理として提唱されていったか知ることができたのは有益だった。教科書で天下りに学んだことに、これほどの手間と深い考察が必要だったことは、高校で力学を学んだ後でないと理解できないと思う。この点については第2章の動力学の原理で、ガリレイやホイヘンスの業績の解説の部分でも同じことだ。相変わらず初等力学の復習が続くので辛抱して読んだ。
中学、高校では斜面に球を転がせて加速度運動の実験をしたり、2つの球をぶつけて運動量の変化をする。この時代の科学者はどのようにして実験したかも挿絵付きで説明している。今ならストロボを使ったり、ビデオで撮影したりして簡単にすむことも、短い時間を測る時計がなかった時代には工夫しなければ実験できなかった。
落体の法則を導くとき、なぜ斜面を使って計測してもよいのだろうか?また放物運動をする物体は、なぜ高さ方向と横方向に運動を分解してもよいのだろうか?高校時代、僕は疑問にすら思っていなかった。当時の科学者がこれらの疑問にどのように決着をつけたのかが本書には書かれている。
ニュートン批判開始
ニュートン力学批判が始まるのは第2章のホイヘンスの次、170ページ目あたりからだ。力学3法則は高校物理で、万有引力の法則は高校地学で学んでいたわけだが、授業を受けていたときにいくつか疑問に思っていたことを思い出した。
そのひとつは「質点」のことであり、大きさのある天体にその質量をたった1点に集中させてよいのだろうかと思っていたことだ。これは2008年に「物体の質点は一般に存在しない - 重心と質点の話」や「地球を8000万個に分割してみた - 重心と質点の話」、「ニュートンの質点定理の証明 (ファインマン物理学 I, 191pより)」で解決している。
マッハが問題にしたのは力学3法則のほうで、ニュートンによる「質量」、「絶対空間」、「絶対時間」に対してのことだ。質量についてはニュートンの説明は循環論法のようであり、絶対空間・絶対時間は無批判に仮定してしまっている。
確かにニュートンの時代に質量を厳密に定義するのは無理であり、質量の起源は1905年にアインシュタインが提唱した特殊相対論から導かれる E=mc^2 という質量とエネルギーの等価性によって示された。そして絶対空間や絶対時間が存在しないことも、アインシュタインの相対性理論によって明らかになったことである。
ガリレイのように地上の力学、相対性原理を論じている間は事実上問題にならない絶対空間と絶対時間も、宇宙全体にまで適用してよいかどうかは誰にも断言できないはずだ。
マッハは力や加速度、作用反作用の法則、力や運動、運動量に関してもニュートンの考え方に鋭いメスを入れ、その矛盾を浮き彫りにする。マッハの主張は相対的なものと絶対的なものとを区別する必要は無いというものだ。力学の基本法則はすべて物体の相対位置と相対運動に関するものであり、これらの法則が今日成立すると見なされる範囲で容認出来るのは、正に検証されてきたからに過ぎない。
ニュートンは回転するバケツの水が凹むことで、絶対空間に対する運動を検出できるとしたが、果たしてバケツに対して全恒星(恒星天)が回転するとき、バケツの水が凹まないとどうして言えるのだろうか?とマッハは反論している。これは屁理屈ではなく、よくよく考えるとまっとうな主張なのだ。(いわゆる「マッハの原理」)この考えは、後に一般相対性理論につながる発想だった。
とはいえ、マッハはニュートンの業績全体や後世に果たした役割は、肯定的にとらえている。批判に終始していたのではない。(ニュートン力学の全否定などできるはずがない。)
再び力学史を詳しく解説
第2章までニュートン力学の不備を指摘した後、第3章 力学の原理の応用と演繹的発展でニュートン以降、解析力学に至るまでの初等力学史を、数式や図版を増やしたスタイルで解説を行なう。流体力学や光学にまでおよぶその内容は教科書的な解説にとどまらず、それぞれの成果が力学史の中でどのような意義をもっているのかを説明しているところが、読者にとって有益なところだ。
ヤコブ・ベルヌーイ、ヨハン・ベルヌーイ、モーペルテュイ、オイラー、ダランベール、ラグランジュなどの研究により、古典力学が完成するまでおよそ200年の年月が必要だった。
この部分には批判らしきものはほとんどなく、力学の中級以上のレベルの問題ばかりなので、よいトレーニングになった。(つまり退屈しなかった。)
マッハの主張と意義、後世への影響
第4章 力学の形式的発展では、解析力学をふたたび取り上げ、掘り下げる。科学にとって解析力学は何なのか?この点についてマッハは次のように述べている。
力学現象の本質についての新しい原理的解明を期待してはならない。解析力学の目的は問題を最も簡単に実用的に解く事にある。解析力学は解析学の持つ普遍性という長所と幾何学の直観性という長所が統一されている。また計算方法の進歩が同時に概念の進歩の表現になっている。
読み始めたころは「この本のどこが凄いのかしら?」と思う局面が何度もあったが、第4章にさしかかった頃になってようやくこの著作の価値がじわじわとわかってきた。ニュートン力学批判は重要な点だが、本書のひとつの側面であるに過ぎない。
自然科学を研究するとはどういうことか?神学が生活や思考の規範であったこの時代、神学と切り離して自然を考察することは、並大抵のことではない。かのオイラーでさえ神学的立場を保持していた。解析力学を完成させたラグランジュに至って、科学はようやく神学の縛りを解くことができたのだ。
「科学とは何か?科学を進める上で、注意すべきことは何か?」
第4章から第5章にかけてマッハは非常に深く、本質を突いた主張をしている。批判したり歴史を紹介するだけでは何も生み出さない。本書の価値は、まさにこの部分にあると思った。マッハの主張は「マッハ「力学の発展の歴史」の要約」の最後でお読みいただけるのだが、本書を読んで、その文脈の中で理解するのがよいと思う。
マッハの影響を多大に受け、相対性理論を打ち立てたアインシュタインは、マッハを次のように評価している。
「理論物理学者が使う方法について何かを探り出したいのなら、彼のいうことばに惑わされてはならない。彼が何をしたかに注意すればよいのだ。しかし、マッハの場合、彼は批判者なのだからこの文句を少し変える必要があるかもしれない。マッハについてあれこれ言われていることに気をとられる必要はない。マッハ当人が本当に言おうとしていることを理解しなければならない。」
「関連ページ:」として、他の方のレビュー記事や解説ページを最後に紹介しておいたが、本書を読み終えて、そこに書かれていることの意味がようやく僕には理解できた。要約だけでは伝わらないことがたくさんある本だ。
古典物理学や科学史から学べることは、とてもたくさんある。高校で物理を学んだ方、物理学科の大学生は、ぜひお読みになっていただきたい。
岩野先生による訳書
本書は岩野秀明先生による訳書も2006年に刊行されている。下巻には訳者による相対性理論とマッハの関係の考察が書かれているそうだ。
岩野秀明(いわの・ひであき): 研究者情報 著書・訳書を検索
1940年生まれ。東京大学文学部でギリシア哲学・認識論を学び研究し、卒業後哲学・論理学等を講義。専攻、哲学。東京情報大学名誉教授。
「マッハ力学史〈上〉―古典力学の発展と批判 (ちくま学芸文庫)」
「マッハ力学史〈下〉―古典力学の発展と批判 (ちくま学芸文庫)」
関連ページ:
マッハ「力学の発展の歴史」の要約
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157夜『マッハ力学』エルンスト・マッハ|松岡正剛の千夜千冊
http://1000ya.isis.ne.jp/0157.html
マッハ力学 力学の批判的発展史
http://xylapone.d.dooo.jp/log2/philos/mach1.html
http://xylapone.d.dooo.jp/log2/philos/mach2.html
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関連記事:
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http://blog.goo.ne.jp/ktonegaw/e/b5904a574fd4c4e276da496bd2c1821b
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「マッハ力学―力学の批判的発展史:伏見譲訳」(リンク2)
著者の序文
初版から第9版への序文
第1章 静力学の原理の発達
- テコの原理
- 斜面の原理
- 力の合成則
- 仮想仕事の原理
- 静力学の発達の回顧
- 静力学の原理の液体への応用
- 静力学の原理の気体への応用
第2章 動力学の原理の発達
- ガリレイの業績
- ホイヘンスの業績
- ニュートンの業績
- 作用反作用の法則の詳論と具体例
- 作用反作用の法則と質量概念の批判
- ニュートンの時間・空間・運動
- ニュートンの力学の包括的批判
- 動力学の発展への回顧
- ヘルツの力学
- 本章の思想に対する種々の意見について
第3章 力学の原理の応用と演繹的発展
- ニュートン的諸法則の適用範囲
- 力学の量と単位
- 運動量保存法則・重心の定理・面積の定理
- 衝突の法則
- ダランベールの原理
- 力学的エネルギー保存の法則
- 最小拘束の原理
- 最小作用の原理
- ハミルトンの原理
- 力学の原理の流体力学への応用
第4章 力学の形式的発展
- 等周問題
- 力学における神学的、アニミズム的、神秘主義的観点について
- 解析力学
- 科学の経済
第5章 力学の他の知識領域への関係
- 力学の物理学への関係
- 力学の生理学への関係
- おわりに
マッハと現代物理学 伏見康治
訳者注
マッハ略年譜その他
付記
年表(秀でた科学者とその力学の基礎に関する重要な論文)
人名索引
事項索引
でも「質量の起源…ヒッグス粒子…理解」は間違いですよ、相対論で「質量=エネルギー」が示されて質量の起源はわかってるし、ヒッグス場はエネルギーの一部に過ぎず未発見のエネルギーもあるはずです。
ありがとうございます。質量の起源の箇所を修正しておきました。
この本のカバーする範囲はとても広かったです。もう少し詳しく書こうと思いましたが、とりとめがなくなるのでやめました。
記事には書きませんでしたが、マッハの思想はハイゼンベルクにも影響を与えたそうです。量子論、量子力学の基でもあったわけですね。