前にも少し触れましたが、西武新宿線沿線で生まれ育ち、家の都合で京浜東北線の沿線に引越しました。
線路から離れたところに住んでいたため、線路沿いの中学に進むまでは一時鉄道と縁の遠い存在となってしまいました。
当時はまだ、京浜東北線には73・72系が103系に混じって走っており、特に920番台はとてもスマートなものでした。
個人的には103系の低いモーター音、コンプレッサーやブロワーの騒音が好きになれず、103系は苦手でした。(103系のファンの方には… ゴメンナサイ)
まだ当時、鉄道の写真を撮ることは無かったのですが、たまたま郷土にある公園や施設などの写真を撮る際に、新幹線を製造している、日本車輛東京支店(蕨工場)を見つけました。タイミングよく、63形の面影を残すクモハ73が通り過ぎてゆきました。
1970年2月 蕨-南浦和駅間
これが私にとっての鉄道の記念すべき1枚目の写真となりました。
その後も日車蕨工場の近くを偶然通りかかりましたが、ウグイス色の103系に遭遇したときには驚いたものでした。
間もなく、日車蕨工場も豊川へ移転となり、また新性能化により茶色い電車も姿を消してしまいました。
1971年4月 ウラ電(浦和電車区) 転出待の73・72系
これより、73・72系はローカルへ転属となります。
南武線や青梅線、房総地区がその後しばらく主力になっていました。
中学生ではなかなか地方までも向かえず、しばらくは見納めになってしまいました。
この頃はたまに電車に乗れるのがとても嬉しかったです。
用事で山手線を利用するとき、高田馬場の駅のホームで長い時間、西武線の電車を眺めていたことを思い出します。
何か西武線の電車を見ていると、落ち着くものでした。
線路から離れたところに住んでいたため、線路沿いの中学に進むまでは一時鉄道と縁の遠い存在となってしまいました。
当時はまだ、京浜東北線には73・72系が103系に混じって走っており、特に920番台はとてもスマートなものでした。
個人的には103系の低いモーター音、コンプレッサーやブロワーの騒音が好きになれず、103系は苦手でした。(103系のファンの方には… ゴメンナサイ)
まだ当時、鉄道の写真を撮ることは無かったのですが、たまたま郷土にある公園や施設などの写真を撮る際に、新幹線を製造している、日本車輛東京支店(蕨工場)を見つけました。タイミングよく、63形の面影を残すクモハ73が通り過ぎてゆきました。
1970年2月 蕨-南浦和駅間
これが私にとっての鉄道の記念すべき1枚目の写真となりました。
その後も日車蕨工場の近くを偶然通りかかりましたが、ウグイス色の103系に遭遇したときには驚いたものでした。
間もなく、日車蕨工場も豊川へ移転となり、また新性能化により茶色い電車も姿を消してしまいました。
1971年4月 ウラ電(浦和電車区) 転出待の73・72系
これより、73・72系はローカルへ転属となります。
南武線や青梅線、房総地区がその後しばらく主力になっていました。
中学生ではなかなか地方までも向かえず、しばらくは見納めになってしまいました。
この頃はたまに電車に乗れるのがとても嬉しかったです。
用事で山手線を利用するとき、高田馬場の駅のホームで長い時間、西武線の電車を眺めていたことを思い出します。
何か西武線の電車を見ていると、落ち着くものでした。
旧型国電、懐かしいですね。私も特に72系920番台は好きでした。山手線に確かこのオールメタル
編成が2本程有ったと思います。写真も撮ったのですが、とてもお見せできるような代物ではありません。
サハの全金は無く、クハが間に入っていたと思います。当時山手線にはモハ11系の17m車も活躍して
いました。73系よりも趣の有る車輌達で西武電車好きには興味が尽きませんでした。
103系は101系に比べあまり乗り心地が良くありませんでした。速度の遅い山手線では気になりません
でしたが、中央快速や京浜東北の103系に乗ると高速時の上下動が激しかったと思います。
73・72系、私はやはりこの920番台、そして63形の面影を残す、Hゴムを使用していないものが好きでした。
920番台にはサハが製造されなかったのは本当に残念でしたね。
京浜東北線にも920番台の編成がありました。
やはり103系は乗り心地の点で… 常に新車が入る山手線は状態も良かったようですが、いつもお古ばかりが回ってくる京浜東北線、特にフラットの酷いサハ103は乗りたくなかったです。昭和46年の新性能化の際に、クハとサハはウグイス色、モハはエメラルドグリーンの編成が来た時には複雑な気持ちでした。(本当に寄せ集めって言う感じで…)
そんな103系もJR東日本や東海からは姿を消しましたが、JR西日本には未だ若番車が残っているのは奇蹟のようなことですね。