プノンペン市街は思ったほど危険なようには見えなかった。
もっとも、それほど広範囲に歩き回ったわけでもないが、銀行、日本大使館、セントラルマーケットなど宿の近辺はぶらついてみた。時折、制服を着た警察官や軍人らしき風貌の男とすれ違ったが、特に引き止められることはなかった。街中に瓦礫が目立つ他は平穏な街のようにみえ、ヴェトナムの町とたいして変わらないように見えた。
ちなみに、旅を終えて購入した「世界の危険・紛争地帯体験ガイド」(ロバート・ヤング・ペルトン著、大地舜監訳=講談社)には97年当時のプノンペンの様子をこう記している。
『97年7月のクーデターの後、通常事態に戻ったが、武装殺人が毎日発生する状態がプノンペンの「通常」だ。兵士の格好をした武装強盗が、外国人を襲っている。7月の反乱の直前、アメリカ人旅行者が強盗に襲われ射殺された。カナダ人旅行者も、街中の略奪の光景を撮影していて殺された。悪いタイミングで間の悪い場所にいたら、兵士はためらうことなく、あなたを撃つ。日が暮れたら外に出ないこと。』
わたしが、プノンペンの街に居たのが97年の3月中旬。その4ヵ月後に政変が起きているのだから、かなり内政が不安定なときであったことは確かなようだ。
一方、食事の事情もヴェトナムと比べるとだいぶ変わった。
朝起きて散策をしようとキャピトルⅡの前の小路を進んでいくと、やがて向こうに人だかりのする小さな市場を見つけた。大勢の人で賑わっており、野菜や果物などを人々が売り買いしていた。
そこに湯気が立つ一角を見つけた。
人々がせわしなく何かをすすっている。
よく見ると麺のようであった。更に近づいて観察してみたところ、カンボジア人の老若男女が食べているのは、どうやら即席麺であった。
これは珍しい、と思って目の前の男が食べているのを指差し、「オレにも一杯」とゼスチュアで店のおばさんに伝えた。
コクリと頷いたおばさんは手際よく麺を調理し、5分も経たないうちに一杯のラーメンを丼のようなお椀によそった。
ただの板きれをテーブルにした貧粗な食卓に、なんとか席を詰めてもらい腰掛け、ラーメンをすすった。
その麺のうまいこと、うまいこと。
スープは魚醤だった。
ヴェトナムのニョクマムというより、どちらかと言えばタイのナンプラーに似ていた。
これで800リアル。僅か35円ほどだ。
どうやら、カンボジアでも飢えなくて済みそうである。
その日の夜は宿の近所にある日本料理屋「京都」に足を運んだ。たいそうな名前だが、実際はたいしたことのない安食堂だった。
すしポリスが見たら、その汚い店舗にきっとびっくりすることだろう。
懐石料理などあるわけもなく、わたしは約150円のカツ丼を食べた。カツ丼が日本食かどうかは分からないが、実に久しぶりの日本食だった。
日本を出発して、すでに4ヶ月が経とうとしていた。その間、日本食が恋しいと思ったことはなかったが、こうして久しぶりにジャポニカ米を口にすると、やはり涙が出そうになる。堰を切ったかのように、あれも食べたい、これも食べたいとなってしまう。
ホイアンのドミトリーで一緒になった関西人の男と、一度そんな話しをしたことがある。
「今、最も食べたいものは何か」。
わたしは迷うことなく「寿司と冷奴」と言ったのだが、その彼の言葉は傑作で、今も忘れることはない。
彼は「モダン焼き」と言ったのだ。
カツ丼を食べ終わると、3~4人の初老の日本人男性が店に入ってきた。下世話な話しを大声でしているのを見てげんなりした気持ちになってきた。
夜のプノンペンは暗かった。
ほとんど街灯はなく、民家やお店の灯りとそれほど多くもないクルマやバイクの前照灯が街を辛うじて照らすのみだった。
この当時のプノンペンは夜間外出禁止令が出されていた。
そうした中で、軍の兵士にばったり出会ったりすると高額の現金などを強要されるという。
本当か嘘か、とにかく真意の分からない噂に少しびくつきながら宿に帰ったのだった。
だが、プノンペンは決して刺激的な街ではなかった。
市民との距離は今まで通ってきた中国やヴェトナムよりも更に遠いような気がしたからだ。
ポル・ポト率いるクメール・ルージュの大虐殺は一説には100万人ともそれ以上とも言われている。恐らくカンボジアの全国民が肉親や身内を失っているに違いない。きっと誰もが悲しい思いを経験し、心のどこかに深い傷を負い、薄いヴェールのような覆いをかけて暮らしているのだ。
プノンペンには、ポル・ポト支配時代の史跡としてトゥールスレン刑務所跡、そして、映画にもなったキリングフィールドがあった。
だが、今はそれを見に行こうという気にはなれなかった。
本多勝一氏の著作「カンボジア大虐殺」(朝日文庫)を読んだことがある。同書によると、クメールルージュは市民を処刑するにあたって、まず初めに、深い穴を掘らせたという。穴を掘らせた後、その穴の前に処刑人を中腰にさせ、穴を掘ったショベルで後頭部を殴打し処刑。処刑人はそのまま崩れるように自分が掘った穴に落ちていき、やがて埋められるのだという。自分の埋められる穴を自ら掘りながら処刑を待つ人々は何を思ったのだろう。
そんなことを考えると、何か得体の知れない不快なものが込みあがってくる。
とても、今はその地を凝視することはできない。
ここは早く、アンコールワットに行ってしまおう。
わたしは、西洋人が行き交うホテルの小さなフロントで、愛想なくバックパッカーの相手をするカンボジアンの若いマダムに翌日のシェムリアップ行き高速船のチケットをブッキングした。
※写真はプノンペンのセントラルマーケットの前にて。
※当コーナーは、親愛なる友人、ふらいんぐふりーまん師と同時進行形式で書き綴っています。並行して語られる物語として鬼飛(おにとび)ブログと合わせて読むと2度おいしいです。
もっとも、それほど広範囲に歩き回ったわけでもないが、銀行、日本大使館、セントラルマーケットなど宿の近辺はぶらついてみた。時折、制服を着た警察官や軍人らしき風貌の男とすれ違ったが、特に引き止められることはなかった。街中に瓦礫が目立つ他は平穏な街のようにみえ、ヴェトナムの町とたいして変わらないように見えた。
ちなみに、旅を終えて購入した「世界の危険・紛争地帯体験ガイド」(ロバート・ヤング・ペルトン著、大地舜監訳=講談社)には97年当時のプノンペンの様子をこう記している。
『97年7月のクーデターの後、通常事態に戻ったが、武装殺人が毎日発生する状態がプノンペンの「通常」だ。兵士の格好をした武装強盗が、外国人を襲っている。7月の反乱の直前、アメリカ人旅行者が強盗に襲われ射殺された。カナダ人旅行者も、街中の略奪の光景を撮影していて殺された。悪いタイミングで間の悪い場所にいたら、兵士はためらうことなく、あなたを撃つ。日が暮れたら外に出ないこと。』
わたしが、プノンペンの街に居たのが97年の3月中旬。その4ヵ月後に政変が起きているのだから、かなり内政が不安定なときであったことは確かなようだ。
一方、食事の事情もヴェトナムと比べるとだいぶ変わった。
朝起きて散策をしようとキャピトルⅡの前の小路を進んでいくと、やがて向こうに人だかりのする小さな市場を見つけた。大勢の人で賑わっており、野菜や果物などを人々が売り買いしていた。
そこに湯気が立つ一角を見つけた。
人々がせわしなく何かをすすっている。
よく見ると麺のようであった。更に近づいて観察してみたところ、カンボジア人の老若男女が食べているのは、どうやら即席麺であった。
これは珍しい、と思って目の前の男が食べているのを指差し、「オレにも一杯」とゼスチュアで店のおばさんに伝えた。
コクリと頷いたおばさんは手際よく麺を調理し、5分も経たないうちに一杯のラーメンを丼のようなお椀によそった。
ただの板きれをテーブルにした貧粗な食卓に、なんとか席を詰めてもらい腰掛け、ラーメンをすすった。
その麺のうまいこと、うまいこと。
スープは魚醤だった。
ヴェトナムのニョクマムというより、どちらかと言えばタイのナンプラーに似ていた。
これで800リアル。僅か35円ほどだ。
どうやら、カンボジアでも飢えなくて済みそうである。
その日の夜は宿の近所にある日本料理屋「京都」に足を運んだ。たいそうな名前だが、実際はたいしたことのない安食堂だった。
すしポリスが見たら、その汚い店舗にきっとびっくりすることだろう。
懐石料理などあるわけもなく、わたしは約150円のカツ丼を食べた。カツ丼が日本食かどうかは分からないが、実に久しぶりの日本食だった。
日本を出発して、すでに4ヶ月が経とうとしていた。その間、日本食が恋しいと思ったことはなかったが、こうして久しぶりにジャポニカ米を口にすると、やはり涙が出そうになる。堰を切ったかのように、あれも食べたい、これも食べたいとなってしまう。
ホイアンのドミトリーで一緒になった関西人の男と、一度そんな話しをしたことがある。
「今、最も食べたいものは何か」。
わたしは迷うことなく「寿司と冷奴」と言ったのだが、その彼の言葉は傑作で、今も忘れることはない。
彼は「モダン焼き」と言ったのだ。
カツ丼を食べ終わると、3~4人の初老の日本人男性が店に入ってきた。下世話な話しを大声でしているのを見てげんなりした気持ちになってきた。
夜のプノンペンは暗かった。
ほとんど街灯はなく、民家やお店の灯りとそれほど多くもないクルマやバイクの前照灯が街を辛うじて照らすのみだった。
この当時のプノンペンは夜間外出禁止令が出されていた。
そうした中で、軍の兵士にばったり出会ったりすると高額の現金などを強要されるという。
本当か嘘か、とにかく真意の分からない噂に少しびくつきながら宿に帰ったのだった。
だが、プノンペンは決して刺激的な街ではなかった。
市民との距離は今まで通ってきた中国やヴェトナムよりも更に遠いような気がしたからだ。
ポル・ポト率いるクメール・ルージュの大虐殺は一説には100万人ともそれ以上とも言われている。恐らくカンボジアの全国民が肉親や身内を失っているに違いない。きっと誰もが悲しい思いを経験し、心のどこかに深い傷を負い、薄いヴェールのような覆いをかけて暮らしているのだ。
プノンペンには、ポル・ポト支配時代の史跡としてトゥールスレン刑務所跡、そして、映画にもなったキリングフィールドがあった。
だが、今はそれを見に行こうという気にはなれなかった。
本多勝一氏の著作「カンボジア大虐殺」(朝日文庫)を読んだことがある。同書によると、クメールルージュは市民を処刑するにあたって、まず初めに、深い穴を掘らせたという。穴を掘らせた後、その穴の前に処刑人を中腰にさせ、穴を掘ったショベルで後頭部を殴打し処刑。処刑人はそのまま崩れるように自分が掘った穴に落ちていき、やがて埋められるのだという。自分の埋められる穴を自ら掘りながら処刑を待つ人々は何を思ったのだろう。
そんなことを考えると、何か得体の知れない不快なものが込みあがってくる。
とても、今はその地を凝視することはできない。
ここは早く、アンコールワットに行ってしまおう。
わたしは、西洋人が行き交うホテルの小さなフロントで、愛想なくバックパッカーの相手をするカンボジアンの若いマダムに翌日のシェムリアップ行き高速船のチケットをブッキングした。
※写真はプノンペンのセントラルマーケットの前にて。
※当コーナーは、親愛なる友人、ふらいんぐふりーまん師と同時進行形式で書き綴っています。並行して語られる物語として鬼飛(おにとび)ブログと合わせて読むと2度おいしいです。
その当時もかなり危険で、当然彼女はあらゆる人に反対されながら渡航したんだけど、しばらくしてきた手紙には「気をつけさえすれば、それ程危険ではない。」と書いてあった。
ただ、そんな風に書いてても実際にはバスへのテロ、また、自爆テロなどを普通に見るような環境ではあったらしい。
しかし、そういったところで生活すると、その事自体が日常と化して普通であることのように思えるんだろうね。
でも、そう言うことにある意味慣れてしまう状況っていうのは、大変恐ろしい事だと思うし、生き物として本来あるべき姿ではないと俺は思う訳だよ。
人間って、結構他の動物のことを自分達より下に見る形で馬鹿にするけど、上記のような面においては、人間が地球上で一番愚かな生き物なんじゃないかと思うよ。
宗教やイデオロギーって何だ?
正義って一体なんだ?