バンコクに到着した翌日からわたしは縦横無尽に街を歩いた。
幸いなことにバンコクには網の目のように張り巡らされた路線バスが走っていた。バスはひっきりなしに現れてはバス停に止まり、多くの人を吐き出しては、また詰め込んで走り去っていく。
バスのサボには番号がふってあり、どの系統のバスがどこに行くのかなど全く分からなかったが、とにかくどこまで乗っても料金は一律の3.5バーツに過ぎなかったため、広いバンコクの街を歩くのには大変重宝した。バスを乗りこなすことで、わたしはまたひとつ自由になれた気がした。
バスに乗り込むと車掌が巡回してくる。
料金と引き替えに紙切れを渡された。それが料金支払い済みを示す切符のようなものだった。
わたしはとにかく来たバスに乗り込み、そしてまた適当なところで降りることを毎日繰り返した。
例えば、サイアムスクエア。
バンコクで最も賑わう繁華街であり、若者達の最新のファッションや音楽で溢れていた。
何故、かつてタイがシャムと言われた歴史ある名称をこの若者の街に冠しているのかは分からないが、ここがバンコクで最も進んだ街になっており、およそシャムという言葉が最も似つかわしくないような気がするのは、よそ者だからこそ感じえることなのかもしれない。
2年前と比べるとこのサイアムスクエアもだいぶ様変わりをしていた。
道行くタイ人がだいぶ洗練されていたからだ。
若者は大抵襟なしのTシャツを着ていた。
街のあちこちからは相川七瀬が歌う「バイバイ」がひっきりなしにかかっている。
街に流れる音楽は相川七瀬の日本語か、今バンコクで最も人気のある「タタ」のボーカルであった。
そして、映画館では日本よりも早く「スターウォーズ エピソード1」が封切られていた。
街の店舗はどこもこぎれいでしかも冷房がかかっている。
暑さを凌ぐために店に入ると、一体ここはどこなのか、判断がつかなくなってしまいそうだった。
或いは、フアランポーン駅とチャイナタウン。
適当にバスに乗っていると、突然見たことのある風景が目の前に飛び込んできた。
急いで降りてみると果たしてそこは2年前に初めてバンコクを訪れた際に宿泊したホテルであり、その目の前はフアランポーン駅だった。思わず、懐かしくなりその周囲を散策してみると、やはりというか、案の定わたしはチャイナタウンに迷い込んでしまった。
見渡す限り「金」と書かれた赤い看板の洪水のような街だったが、小腹が空けば、とにかくすぐにでも中華料理を食べることができる街だった。
昼間をチャイナタウンで過ごし、夜を待ってシーロム通りへくり出すと、もうひとつのバンコクの顔が現れる。
パッポン通りと呼ばれる繁華街だ。
大人の遊び場に支払う金など毛頭ないから、わたしは一軒一軒開け放しの店舗を冷やかしながら歩く。
若いタイの女性がわたしに気がつくと「お兄さん寄っていきなよ」と言う。
気があるふりをして中に入り、店の中をぐるりと見渡して、わたしは外に出る。 店の雰囲気を味わうだけで充分だった。
宵の口をすぎて辺りが暗くなるとこの辺りにナイトマーケットが出た。
売り物はたいていタイの工芸品で、さしてそれはおもしろい商品ではなかったが、雰囲気は香港の女人街のナイトマーケットを彷彿とさせるものでこれがなかなか面白かった。
こうして、パッポンやナイトマーケットを冷やかし、帰り際にタニヤと呼ばれる日本人向けの飲食店が並んだ通りを横切ったりして遊んでいると、時間はあっという間に過ぎてしまった。こうして数日間はバスに乗ってあちこちでたらめにバンコクの街に繰りだした。
また、バンコクにはバスと並び、便利で安い交通機関があった。
それはチャオプラヤー川を行く水上バスである。
この水上バスもひっきりなしに往来しているので便利なことこのうえなかった。 バンコク名物の交通渋滞に巻き込まれる心配がないので行く場所によっては素早く移動できる点も魅力だった。
だいいち、炎天下のバンコクにおいて川を渡る風に吹かれ、ときに船は水しぶきをあげて水を滑ることは、このうえなく爽快な気持ちになった。
香港のスターフェリーと比べれば、船の座席は窮屈で眺めも決していいとはいえなかったが、トラフィックジャムをノロノロと行くバスよりも数倍も楽しい移動であったことは間違いない。
特に、友人に手紙を差し出すためにゼネラルポストオフィス、つまりGPOに行くにはうってつけの乗り物だったといえる。
また、GPOから南へ行くとかのオリエンタルホテルやシャグリラホテルの摩天楼に行き当たった。今まで見てきたアジアの街とは全く様相が違っていた。
バンコクはとてつもなく広かった。
どこまで行っても掴みどころのない街だった。
そして、どこまで行っても誰とも仲良くなれなかった。
バンコクに微笑みはあまり見られなかった。
3、4日ほどバンコクを歩くと、わたしはすっかり飽きてしまった。
暑さにすっかり疲れてしまったということもある。
だが、大都会のバンコクの毒気にあてられてしまい、わたしはまたもや前へ進む気持ちが萎えてしまっていた。
やはり、バンコクは魔都だった。
※当コーナーは、親愛なる友人、ふらいんぐふりーまん師と同時進行形式で書き綴っています。並行して語られる物語として鬼飛(おにとび)ブログと合わせて読むと2度おいしいです。
幸いなことにバンコクには網の目のように張り巡らされた路線バスが走っていた。バスはひっきりなしに現れてはバス停に止まり、多くの人を吐き出しては、また詰め込んで走り去っていく。
バスのサボには番号がふってあり、どの系統のバスがどこに行くのかなど全く分からなかったが、とにかくどこまで乗っても料金は一律の3.5バーツに過ぎなかったため、広いバンコクの街を歩くのには大変重宝した。バスを乗りこなすことで、わたしはまたひとつ自由になれた気がした。
バスに乗り込むと車掌が巡回してくる。
料金と引き替えに紙切れを渡された。それが料金支払い済みを示す切符のようなものだった。
わたしはとにかく来たバスに乗り込み、そしてまた適当なところで降りることを毎日繰り返した。
例えば、サイアムスクエア。
バンコクで最も賑わう繁華街であり、若者達の最新のファッションや音楽で溢れていた。
何故、かつてタイがシャムと言われた歴史ある名称をこの若者の街に冠しているのかは分からないが、ここがバンコクで最も進んだ街になっており、およそシャムという言葉が最も似つかわしくないような気がするのは、よそ者だからこそ感じえることなのかもしれない。
2年前と比べるとこのサイアムスクエアもだいぶ様変わりをしていた。
道行くタイ人がだいぶ洗練されていたからだ。
若者は大抵襟なしのTシャツを着ていた。
街のあちこちからは相川七瀬が歌う「バイバイ」がひっきりなしにかかっている。
街に流れる音楽は相川七瀬の日本語か、今バンコクで最も人気のある「タタ」のボーカルであった。
そして、映画館では日本よりも早く「スターウォーズ エピソード1」が封切られていた。
街の店舗はどこもこぎれいでしかも冷房がかかっている。
暑さを凌ぐために店に入ると、一体ここはどこなのか、判断がつかなくなってしまいそうだった。
或いは、フアランポーン駅とチャイナタウン。
適当にバスに乗っていると、突然見たことのある風景が目の前に飛び込んできた。
急いで降りてみると果たしてそこは2年前に初めてバンコクを訪れた際に宿泊したホテルであり、その目の前はフアランポーン駅だった。思わず、懐かしくなりその周囲を散策してみると、やはりというか、案の定わたしはチャイナタウンに迷い込んでしまった。
見渡す限り「金」と書かれた赤い看板の洪水のような街だったが、小腹が空けば、とにかくすぐにでも中華料理を食べることができる街だった。
昼間をチャイナタウンで過ごし、夜を待ってシーロム通りへくり出すと、もうひとつのバンコクの顔が現れる。
パッポン通りと呼ばれる繁華街だ。
大人の遊び場に支払う金など毛頭ないから、わたしは一軒一軒開け放しの店舗を冷やかしながら歩く。
若いタイの女性がわたしに気がつくと「お兄さん寄っていきなよ」と言う。
気があるふりをして中に入り、店の中をぐるりと見渡して、わたしは外に出る。 店の雰囲気を味わうだけで充分だった。
宵の口をすぎて辺りが暗くなるとこの辺りにナイトマーケットが出た。
売り物はたいていタイの工芸品で、さしてそれはおもしろい商品ではなかったが、雰囲気は香港の女人街のナイトマーケットを彷彿とさせるものでこれがなかなか面白かった。
こうして、パッポンやナイトマーケットを冷やかし、帰り際にタニヤと呼ばれる日本人向けの飲食店が並んだ通りを横切ったりして遊んでいると、時間はあっという間に過ぎてしまった。こうして数日間はバスに乗ってあちこちでたらめにバンコクの街に繰りだした。
また、バンコクにはバスと並び、便利で安い交通機関があった。
それはチャオプラヤー川を行く水上バスである。
この水上バスもひっきりなしに往来しているので便利なことこのうえなかった。 バンコク名物の交通渋滞に巻き込まれる心配がないので行く場所によっては素早く移動できる点も魅力だった。
だいいち、炎天下のバンコクにおいて川を渡る風に吹かれ、ときに船は水しぶきをあげて水を滑ることは、このうえなく爽快な気持ちになった。
香港のスターフェリーと比べれば、船の座席は窮屈で眺めも決していいとはいえなかったが、トラフィックジャムをノロノロと行くバスよりも数倍も楽しい移動であったことは間違いない。
特に、友人に手紙を差し出すためにゼネラルポストオフィス、つまりGPOに行くにはうってつけの乗り物だったといえる。
また、GPOから南へ行くとかのオリエンタルホテルやシャグリラホテルの摩天楼に行き当たった。今まで見てきたアジアの街とは全く様相が違っていた。
バンコクはとてつもなく広かった。
どこまで行っても掴みどころのない街だった。
そして、どこまで行っても誰とも仲良くなれなかった。
バンコクに微笑みはあまり見られなかった。
3、4日ほどバンコクを歩くと、わたしはすっかり飽きてしまった。
暑さにすっかり疲れてしまったということもある。
だが、大都会のバンコクの毒気にあてられてしまい、わたしはまたもや前へ進む気持ちが萎えてしまっていた。
やはり、バンコクは魔都だった。
※当コーナーは、親愛なる友人、ふらいんぐふりーまん師と同時進行形式で書き綴っています。並行して語られる物語として鬼飛(おにとび)ブログと合わせて読むと2度おいしいです。
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