昔、中山競馬場近くの「吉野家」で、ふてぶてしく入ってきたおっさんが、席に着くなり、「全部」と注文した。そこに居合わせたほとんどの輩が、その声の主に振り返った。
「全部って何だよ」。
当時、「吉野家」のメニューは極めて少なかった。
牛丼は並か大盛、ご飯がない牛皿、そして漬物にサラダ、味噌汁に玉くらい。それにビールである。要するに、吉野家でフルコースを頼んでもたかが知れていた。
無理もない話だ。おっさんの顔は、高揚感に溢れていた。恐らくかなりの配当がついたのだろう。
吉野家で豪遊するのには、二つの意味がある。一つは、征服感。そして、もう一つが、牛皿をつまみにビールという非日常感である。いずれも何か発生した際の、スペシャルなイベントである。
とにかく、食べてしまった後、速攻で金を支払い、席を立たなければならない吉野家で、長居すること、或いは長居する姿勢を見せるには、ちょっとした勇気が必要だった。それを、このおっさんは、「全部」と引き換えに、やってのけた。
だから、吉野家でビールを飲むこと、更には、長居することは、ある程度の年齢がいった男にとって、悲願だったといえる。
したがって、吉野家で「吉呑み」が始まったことは、我々にとっては、革命であったといえる。
それは、世の男にとって、一種の解放であった。
しかも、「吉飲み」はビールだけではなかった。信じられないことに、吉野家にホッピーも用意されていた。
だから、かつて通ったJR神田駅のガード下、吉野家の2階に上がり、ホッピーセット(400円)をオーダーした際は、どこか落ちつかなかった。やがて、ホッピーのリターナブル瓶が運ばれてきたときは、その非日常感で思わず「マジか」と呟いたものである。
だが、問題はその後である。
つまみのチョイスに逡巡した。男の夢としては、ここで「牛皿」(330円)だろう。これまで、幾度ともなく夢見ては焦がれてきた野望である。
しかし、一方では、「吉呑み」によるオリジナルメニューがあった。
「牛煮込み」(350円)
「ハムポテト」(280円)
これは酒場ファンにとっては、たまらないメニューだった。
どちらを頼むか。
しかし、意に反して、「牛皿」をオーダーした時、「まだボクは解放されてないな」と思ったものである。
しかし、人は味覚に対して、それほど自由ではないことも分かった。人は吉野家の牛丼の、あのタレにやられているのである。
だから、「牛皿」とともに、ホッピーを流しこんだとき、ボクの中の夢が一つ完結した。
長い長い、さすらいの日々だった。
1118回目に訪れた、積年の歓喜。
もしかすると、ボクは、吉野家の牛皿とホッピーを飲むために、長い途上の旅を続けてきたようにさえ、今は思える。
やっぱり、最高だよ。
吉野家。
な~んちゃってね。
店舗にもよるのかもよ。
一度、ホッピー研究会でも、行きましょう。