千駄木にうまいおでん屋があることはもう何年も前からティコティコさんから聞いており、気になっていた。だが、そのおでん屋の店主は高齢の女性で、すでに引退寸前だという。そのおでん屋をティコティコさんは絶賛していた。
S栄印刷のMさんが本駒込に住んでおり、ひょんなことから千駄木の話題になった。地元の人ならば、くだんのおでん屋を知っているだろうと思い、聞いてみるとやはり知っているという。
Mさんが言うには「いつも満員で入れない」。
それはもう間違いなくティコティコさんがいうところのおでん屋だろう。
その店が「たかはし」だった。
千駄木の駅を地上に出ると辺りは暗い。とても東京とは思えない静けさである。江戸がこうだったわけではないだろうが、このとばりは意外にも深いのである。その闇の中に白い暖簾が清々しく、浮かぶようにかかっている。すりガラスの向こうに点る灯りが、余計に江戸情緒をかきたてる。
「あぁ、やっと来れたか」。
恋い焦がれてきた店にようやく辿りつけた感慨は表現するのが難しい。肩の力が抜ける、ホッとした感覚といえばいいのだろうか。店を前にして、ボクはそんな感情を持った。
そして、引き戸に手を当て、店に入った。
すると、思っていたイメージと違う店内に、またもや力が抜けるのだった。
今でこそ、「食べログ」などで、店に行く前の予習ができるが、ボクはそういうものを一切見ない。だから、ある程度、店のイメージを描いていたりする。この店の場合、ティコティコさんからたいそういい話を聞いてきた。だから、ついつい想像がたくましくなっていたのだ。
ボクが思い描いていたおでん屋というのはこうである。
古木のカウンターが亀甲の半分の形でこしらえられ、その奥が茶の間になっている。茶の間側におばあさんが座り、茶の間と店の境のやや端っこにおでんの電機鍋がある。そんなイメージである。おばあさんの年の頃はもう齢80前後といったところだろうか。茶の間の向こうに黒電話が見えるといったあんばいだ。
だが、眼前にはカウンターの感じはほぼ合っていたが、店主と思しき女性が若いことに愕然とした。年の頃、まだ70前後くらいではないだろうか。割烹着ではなく、洋服を着て店番をしている。白いラミネートが貼られたカウンターのみの店内。10人も入れないだろう。先客は女性客のみ。まだ若い女性が一人でお銚子をつけていた。
ぼくら3人は左端のカウンターに陣取った。
座ると背後にある引き戸に背中がつきそうになる。そんな店内である。
おでん種のメニューは頭上の壁に達筆な筆で記され、額に飾られている。おや?メニューはおでんばかりでもなく、焼き物もあるようだ。生ビールは550円。酎ハイ450円。日本酒(上撰大関)が1合350円、2合の大徳利が650円とある。
ボクはもうはじめからおでんモードであった。だから、酒もお燗で2合をお願いした。
おでん屋で飲むこと憧れがあった。
「サザエさん」の世界である。できれば屋台でひっかけるというのがベストだが、今の時代そういう店は多くはなく、だがそれにつけてもおでん屋には憧れの感情が今でもある。ちびちびと酒を飲み、ほくほくのおでんをつまむことはそれはそれはちょっとした幸せである。
おでん種は全26種。
オーソドックスなものから手間をかけたものまで幅広い。
手間をかけたものとは、「えび巻」「げそ巻」「ぎょうざ巻」なるもの。袋ものとは違って練り物にそれぞれの具が入っているのである。
おでんの醍醐味はなんといっても、おでん鍋を見て、楽しむところから始まるだろう。
大根の色で味が沁みているのか。はんぺんの白さとお出汁の色のコントラストを楽しんだり、がんもどきの浮かぶ様を見て、ほっこりとしたり。
その様子がオーダーへと駆り立てる。
大根。外せない。
ちくわぶ。外せない。
玉子、外せるわけがない。
だが、ここで問題なのは、玉子をいただくタイミングである。
真っ先に頼んでしまうか。いや、それはまるでお子様みたいじゃないか。
ならば、やっぱり〆なのか。いやいや、そこまで待ちきれない。
これは、好きなものを先に食べるか、最後までとっておくかの論争と同じである。
こんな頼み方もOKである。
大根→大根→こぶ→大根。
それは、連投に連投を重ねた悲運の天才投手。権藤氏の「権藤、権藤、雨、権藤」パターンだ。
そのうえで、玉子をいただくのは、最も円滑なソフトランディングといえるかもしれない。
でも、やっぱり創作おでんよりもオーソドックスなものに魅力を感じる。
実際、ぼくらは、大根を中心にオーダーを繰り返した。
焼き物には目もくれず。
お出汁は正真正銘の関東煮。
濃いスープである。
ボクは京風より断然関東煮が好きだ。おでんに上品さを求めてはいけないと思う。だが、おでんの生命線は断然お出汁。これでおでんの良し悪しの9割は決まると思う。
ちなみにボクのおでん観の基準はかみさんのもの。この基準を頼りに「たかはし」のお出汁をいただくと似ているのである。かみさんのに。
これだけでもう、ボクは満足だった。あとはもうお銚子を2つ3つとカウンターに次々と転がしていった。
「たかはし」のお出汁は滋味。慈しみのお出汁は観音様のように輝いて見えると思う。
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