くに楽 2

"日々是好日" ならいいのにね

日々(ひび)徒然(つれづれ) 第二十五話

2019-03-13 21:23:20 | はらだおさむ氏コーナー

浦島伝説のこと

 

 「トランプ大統領は11日、中国や日本を含む多くの国から、毎年800万トン以上のごみがアメリカの海に漂着していると述べたうえで、海洋生物やアメリカの経済を傷つけると批判した」(2018年10月12日、各紙外電)。

 各紙は貿易摩擦に次ぐトランプのチャイナバッシングと捉えたようだが、わたしはこの海流の流れ行く先はどうなるのか、それは巡回を繰り返しているのではないか、と思い至った。波は沖から海岸へ向け打ち寄せているが、本流はずっと還流を繰り返している。

 後に触れるが、南米のエクアドルで五千年前の縄文土器がアメリカのスミソニアン博士に発見された話を耳にして久しい。

 子供のころ口ずさんだ童謡が甦ってきた。

 ♪ 昔々 浦島は/助けた亀に連れられて

   竜宮城に来てみれば/絵にも描けない 美しさ ♪

 唄はその顛末を一部始終語り、最後は乙姫から固く禁じられていた玉手箱を開けるや否や、白煙に覆われた浦島太郎は白髪の老爺に変じる。

 端的にいえば、それは時間の経過を示しているのだが、この浦島伝説についてもうすこしネットサーフィンで調べたことを先にご紹介したい。

 1972年 君島久子さんが発表したレポート「洞庭湖の遊女説話に関する

新資料」(「中国大陸古文化研究」第6号)が「日本書紀」などで記された日本古来の民話説に疑問の矢を投じた。

 その物語は次のように伝えられている。

 「昔 若い漁夫が助けた乙女の案内で洞庭湖湖底の竜宮城を訪れた。漁夫は竜宮城で歓待を受け、この竜女の乙女と結婚、幸せに、楽しい日々を過ごしていたが、ふと故郷の母親を思い出し、故郷に帰りたくなった。竜女は『私に会いたくなったらこの小箱に向かってわたしの名を呼びなさい、箱は決っして開けてはダメですよ』と漁夫に小箱を手渡した。

 村に帰ると、自分の家はなく村人たちは知らない人ばかりであった。村の年寄りに聞くと『子供の頃に聞いた話だが、この辺りに、出て行ったきり帰らぬせがれを待っていた老婆が居られたが、とっくの昔に亡くなられたと云うことじゃ』

とのこと。気が動転した漁夫は、竜女に説明を求めようと思わず手箱を開けてしまった。すると、一筋の白い煙が立ち昇り、若かった漁夫はたちまち白髪の老人と化し、湖のほとりにパッタリと倒れて死んだ」

 ホームページで解説されている永井俊哉氏は「この話は、東晋の時代(5世紀以前)のもので、六朝時代に編集の『拾遺記』に掲載されている。中国南部の民間伝承が日本に伝わり、『日本書紀』などにアレンジされて掲載されたもの。

日本の、この浦島伝説にも中国の神仙説話の影響を受けたことばー『蓬莱山』、

『仙都』、『神仙の堺』などが出てくる」と述べておられる。

 

 つぎに、ウミガメのこと。

 暖流の黒潮に乗ってウミガメは石垣島などの八重山諸島や薩摩半島最南端の「長崎鼻」などの砂浜で産卵することが知られている。75日ほどのちに孵化した子亀のたちの集団を引き連れて黒潮に乗っての長旅が始まるのだが、十年から二十年にかけて成長したウミガメが自分の“生まれ故郷”の海岸に戻り、産卵する習性があることは周知のことである。そうした意味で、「浦島伝説」は理にかなった“はなし”である。

 ウミガメの回遊に人間が乗じないハナシはない、もちろん亀の背中に乗ってのことではないが、稲作文化の中国大陸から日本への移植にもこの海流が利用されているのである。

 

 もう十年ほど前になるか、友人たちと天台山から杭州近郊の富春江風景区を巡ったとき、河姆渡遺跡博物館に立ち寄ったことがある。稲作発祥の地と耳にしていたが地元のドライバーも“迷路”し、最後は小さな艀でクリークを渡った。地元の人のバイクや自転車も同舟、博物館のある“洲”にたどりついた。

その入り口にあるのがこのモニュメント、実物はこの遺跡から出土した左右10センチほどの象牙製品「太陽を抱える双鳥」である。

 

 京セラの稲盛和夫さんもバックアップされていて、そのとき手にした「長江文明の探求」(同氏監修、梅原 猛・安田善憲 共著、新思索社2004年刊)は竹田武史さん撮影の写真が豊富に織り込まれていて、いま読み返しても楽しい。

その帯には「6000年の昔、中国・長江流域に稲作漁労型の巨大文明があった」

の文字が躍っている。

 中国文明の発祥は、堯・舜・禹の時代から始まるとされているが、禹は治水の功により舜の禅譲を受けたとされている。以下はわたしの推測も入るがそれまでの黄河文明(狩猟と小麦)流域から長江文明(稲作漁労)圏に侵入、『史記』でいう「三(さん)苗(びょう)」という民族を追いやる。話はそれから飛躍するが、稲作漁労を主たる生活の糧にしていた種族の主なものは、逃れていまの雲南省の苗(ミャオ)族として定着したグループと長江末流域の河姆渡に残り、そこからボートピープルで日本その他に移着したことになるらしい。

 トランプ発言から、トンでもハップン、ずいぶんと昔の話に飛躍したが、まだまだ知らないことが多すぎる。(2018年10月15日 記)


日々(ひび)徒然(つれづれ) 第二十四話

2019-03-13 21:17:09 | はらだおさむ氏コーナー

“聖徳太子”のことなど

 

  (本文では一万円札の写真がありました)

 ツンドクのなかから 昨年の入院中に読み落としていた文庫本を拾い出し

た。

 山本博文ほか著『こんなに変わった歴史教科書』(新潮文庫、平成二十三年

十月発行)。

 「六・三制 野球ばかり 強くなり」と校舎も教科書もなかった“新制中学

第一期生”のわたしにとって、へぇ~そんなことがあったのと、知らぬことと

はいえその“歴変”には驚くばかりだったが、本書発案企画の山本博文先生ご

出生の1957年(昭和32年)は、わたしの社会人スタートの年・・・まさ

に隔世の感がする。

 山本先生は東京書籍の中学校教科書の編集委員に平成八年度版から参画され

ている由だが、その経験を踏まえ、歴史学会での旧説が新説に改められるには

およそ三十年間の時間が必要であろうとの観点から、本書は昭和四十七(一九

七二)年と平成十八(二〇〇六)年の東京書籍刊行の中学校用教科書を取り上

げ、比較・検討を加えておられる。

 

 わたしの初任給は一万円であった。

 手取りは千円札九枚と税引き後のザラ銭が給料袋に入っていた。

 聖徳太子像の一万円札が発行されたのは翌58年の12月だが、60年安保

で岸内閣が退陣、所得倍増政策を掲げた池田内閣が誕生、わたしも経済団体の

青年部で耳にした労働所得分配率を会社の数値に適用、企業内所得倍増の道筋

を提案していた。

 64年2月に初訪中したとき、持ち出し外貨は500ドル(固定制@360

円)と制限されていて、4月末までの滞在費は腹巻に巻き込んでいた聖徳太子

さんになにかとお世話になった。                               いつごろからか大卒の新入社員の初任給は20万円を超え、わたしのサラリ

ーもそれなりに増えていたが、ポケットの聖徳太子さんが長期滞留することは

なかった。

 

 会員制の対中投資コンサル業を始めたころ 振込やカード決済が多くなったが、それでも訪中時にはキャッシュも財布に入れていることが多かった。

万札はいつの間にか福沢諭吉に替わっていた。

 中国の紙幣は金額の多寡にかかわらずすべて毛沢東像オンリーである。

 95年1月に外貨兌換券(FEC)が廃止されるまで外国人旅行者は人民元の

使用は認められていなかったが、地方へ行くと人民元のみしか利用できないこともあった。

 90年代の後半 友人たち十余名とトルファンから列車とマイクロバスを乗り継いで砂漠を横断、中国最西端のカシュガルに行ったことがある。ホテルで両替、市内見学に出かけた。ある小百貨商店でショッピングのメンバーが支払いの100人民元が偽札と突き返され、ひと騒動。買い物はあきらめホテルのバーで同じ百元札を支払ったらセーフ。目には目を、というところだが、中国の偽札はこの高額紙幣百人民元のみが対象に頻発し、国際偽造団の暗躍との噂も罷り通る。

 

 日本の一万円札の肖像が聖徳太子から福沢諭吉に替わったのは偽札が問題ではない。

 上掲の山本先生の本によるとひとつは「聖徳太子像と伝えられる肖像画(東京都宮内庁蔵)」の可否、ふたつめは「歴史的事実と異なる伝承」により<死後の「聖徳太子信仰」と生前に推古天皇のもとで政治を行った人物を区別するために、現在では「聖徳太子」を「厩戸皇子」「厩戸王」と叙述し、「摂政」としない教科書が増えている」と解説されている(同書P56)。

 

 今世紀に入って中国の改革開放路線は、北京五輪、上海万博などを起爆剤に、そのGDPはいつしか日本を追い越して世界第2位に定着、トランプの振り出した怪しげなカードに挑戦している。

 先年久しぶりにチェックインした上海の定宿で、カウンターにエクスチェンジマネーの窓口がなくなり、友人の案内で街に出るともはや一人歩きは出来ないほどキャッシュレスの世界が展開していた。銀行よさようなら・・・は偽札氾濫の、毛沢東さん さようならになっていた。

 日本は世界一キャッシュレスが遅れているそうだが、それは逆に日本の紙幣の贋札防止技術が長けていてコスト的に偽札つくりが対応できないこと(安全・安心)、狭い国土の隅々まで金融網のネットが張りめぐらされている(便宜性)など、中国の関係者から見れば日本の現金主義は文明的に優れていると羨望の眼で評価されている。但し、タンス預金は禁物、国際的な“オレ、オレ”詐欺グループが、あなたのへそくりを狙っていますよ!

(2018年9月25日 記)

 


日々(ひび)徒然(つれづれ) 第二十三話

2019-03-13 21:14:43 | はらだおさむ氏コーナー

歌う

所属する混声合唱団の記念演奏会まで40日を切った。

賛助出演の曲数を含めるとわたしが口にするのは21曲、この一~二年とみに記憶力が低下して、全曲の暗譜はむつかしい。楽譜を手にするだけで安心感が出てくると言い訳して、混声合唱『心の四季』(吉野弘作詞・高田三郎作曲、全七曲)と『唱歌の四季』(三善晃編曲、全五曲)の計十二曲は楽譜を持てることになった。男声合唱は、今回からわたしはバスからバリトンにパートが替わったので、はじめての二曲はともかく「最上川舟唄」の囃子部分はついついバスの節回しが出てきて、これは要注意ものだ。

練習日はゲネプロを含めてもあと六回しかない、自宅でICホーンを耳に自力更生、刻苦奮闘の日が続くことになる。

この合唱団は今年で創立四十周年を迎える。

男女各十数名の四パートをベースに編成されている。男性は平均七十数歳、女性は平均七十歳前後か。男性の最高齢者は今年米寿を迎えられたW大グリー出身の先達。他の方もほとんどが大学や職場の合唱団で活躍された方が多い。女性も愛好者の集いである。

わたしは入団四年目、医師の勧めでヴォイストレーニングからコーラスを始めた変わり者だが、それでも一時期は加古隆のピアノコンサートを追っかけ、サインをもらったCDのいくつかは入院時のベッドで手放せなかった。

かれにはじめて会ったのは、上海であった。

現地の友人に案内されて楽屋を訪問、同伴の調律師が頑張ってくれて今夜は上海のお客様に楽しいメロディをお届けしますと語っていたが、それから数年後、宝塚のヴェガホールの舞台から、この音響の素晴らしいホールで演奏できる喜びを味わっていますとも語っていた。

 

人前ではじめて歌ったのは、北京であった。

一九六四年二月。

後年まとめたわたしの処女詩集「ふくらみ」でその時の光景をこのように綴っている。

 

…… そして、

一九六四年のあのとき

パスポートにつけられた入国査証。

橋の上で迎えたお下げ髪の兵士。

商談成立の祝宴で

<東京―北京>をうたいながら

片手で<乾杯>をくりかえす

あのものを云わないもう一本の傷あと。

 

これは「しみ」と題する詩の一節だが、まだ日中間の国交が正常化されていないあのとき、わたしは数人の中国の人を前にしてひとり歌っていたのであった。歌いはじめはこのような歌詞であった。

 

♪アジアの兄弟よ 同胞はらからよ

アジアに光を掲げよう

激しい嵐に負けないで太陽の情熱を燃やそうよ・・・♪

 

今回の演奏会の男声コーラスで歌うもう一つは、シベリウス作曲の交響詩フィンランディア賛歌のなかで歌われ、いまでは同国の第二国歌とも称され、愛唱されているもの。厳しいロシアの圧政が続くなか、シベリウスは独立運動を支援、讃美歌のメロディも踏みながら、交響詩のなかにこの歌を織り込んだ。訳詞は関忠亮。わたしも若いころ口ずさんだ”“若ものよの作曲家でもある。

一番の歌詞は次のように綴られている。

 

♪七つの海越え響け はるかな国のもとへ

ふるさとの野に歌える わたしの希望こそ

世界の隅までおなじ 平和への歌声♪

 

中国で改革開放がはじまった80年代のはじめ長老たちの間で「窓を開ければ蠅が入る」「網戸にすればいいじゃないか」と笑い話のような論争があったという。

深圳の経済特区は中国ではじめての開放区だったが、網戸が張り巡らされて?スタートした。蠅は防げただろうが、テレサテンの歌声は網戸を通して瞬く間に中国の若者の心をとらえていった。

 

あの事件の翌年、上海のホテルに日本料理店併設のカラオケが誕生した。

一階の大広間にステージが設営され、日本から輸入のレーザーディスクのカラオケは瞬く間に連日の大入り満員。中国の若者は同じ曲をリクエストしてノドを競い合う。わたしもアルコールの勢いでステージに上がり、吉幾三の♪酒よ♪をご機嫌よく歌い終えたとき、ひとりの若者がわたしの袖を引いて、こう歌ったらもっとすばらしい、と歌唱指導に及んだ。これが日本ならただで済まないところだが、よく聞くと、彼は旅行社のガイド 日本で吉幾三のステージにも足を運んだこともある、と。悪気はないのだろうが、酔いは醒めた。以後わたしは人前で歌うのは止めることにした。

 

わたしの好きな中国の映画監督ジャ・ジャンク―のことを少し。

彼の作品は無名時代からそのほとんどを見ているが、そのなかでも「長江哀歌」はいつまでも心に残る。

いまは歌の話、この映画の主人公と若者の携帯の着メロのこと。

三峡ダムの建設現場で長年家族と離れて働く主人公の携帯に鳴った着メロは「好人一生平安(善人には安らかな人生を)」、このメロディは映画ではじめて耳にしたが、中年向きの静かなもの。若者のそれは「上海灘(シャンハイ・タン)」、香港映画の主題歌で広東語、上海の人にとってそれは外国語同然だが、いわばカタカナ英語で歌っているような雰囲気がカッコイイということ。一時期上海で大流行したので耳にすれば、わたしでもああ、そうかとわかる。

今回の演奏会の賛助出演で歌う「花は咲く」も、その前奏を耳にするだけで「3・11」のことを思い出す。

 

もうひとりでは歌えないが、歌うことはわたしにとっていまや心身の活性化につながってきている。

(2018年8月25日記)


日々(ひび)徒然(つれづれ) 第二十二話

2019-03-13 21:07:38 | はらだおさむ氏コーナー

男たちの挑戦 パートⅡ

 

  早く目覚めてしまった、まだ笛が鳴るまで二時間近くある。

  ダージリンにお湯を注ぎ、読みかけのページを開く。

  十の言葉を題材に綴った中国人作家・余華(ユイ・ホア)の随筆集(原題

 チャイナ イン ザ・ワールド):日本語版題名は気に入らないが「ほんとうの中国の話をしよう」(飯塚 容訳・河出書房新社)。人民・領袖・読書・創作・魯迅・・・と読み進んでいて、少年期の文革の思い出を今の視点から描き続ける、エスプリのきいた筆の進め方。 

  ベルギー戦のはじまるまでの時間つぶしにと、つぎの「格差」のページを繰った。

  出だしは“性”に目覚めた思い出や年上のグループとの“武闘”だが、食糧切符の話から「文革期は単純な時代だった。いまは複雑で、混乱した時代である」と鄧小平の改革を経て今世紀の初めの「格差」がテーマとなる。それから二〇〇六年のWカップドイツ杯に話題が飛んだのにはオドロイタ。

  作者の友人でCCTV(中央テレビ)の名司会者でもある崔永元の企画で「紅軍大長征」ドキュメンタリーを取材・撮影中、とある西南の極貧地区に到着したころ、このW杯カップがはじまった。中国はいまでもまだアジア予選は突破できていないが、サッカーは卓球や排球を凌ぐほど人気のある国民的スポーツになってきて、これまでも日本との試合で負けると腹いせに何度か暴動騒ぎをおこしている。

  かれは地元の子供たちとサッカーの試合を思い立ったが、県城の商店では肝心のボールを売っていない、「長征」の戦友に州政府のある町まで車を走らせてやっとボールを手に入れたが、肝心の子供たちはサッカーを知らなかった!!                                                                                                   

  いまでは中国のクラブチームは札束を積み上げて世界の有名選手を集め、このところ日本も苦戦するようになってきている。都会の子供たちはナイキやアディダスのユニフォームを着て観戦するほどだが、貧困地区の子供たちはそのサッカーも知らない“格差”がある、と。

 

  ロシア杯ワールドカップ 日本は早々とアジア予選をトップでクリアしたが、後が芳しくなく4月にハリル監督が解雇され、西野新監督のもとH組の

 コロンビア⑬(6月19日)、セネガル㉓(6月24日)、ポーランド⑦(6月28日)と戦うことになった。 

  戦前の予想(6月12日「共同」)では「前回ベスト8のコロンビアと3大会ぶり出場のポーランドが決勝トーナメントへ一歩リードか」とあまり芳しくなかったが、初戦のコロンビアを4-2で勝ちあげ、あれよあれよと「低い下馬評を覆して16強入りした2010年大会の再現を果たした」のである。

  2時45分、テレビのスィッチを入れる。

  G組を一位で立ち上がってきたベルギー③との対戦がはじまる。

  これまでのグループ戦では日本は一勝一敗一分けだが、相手は三戦全勝で立ち上がってきて優勝候補の一角を占める。前半はさすがに手ごわいが、日本もひるまず立ち向かう。後半3分 原口が相手の追撃を振り切ってゴール、さらに7分 乾が目の覚めるような無回転シュートを放って2点目のゴール。

相手ベンチが温存していた二選手をいれて反攻に出る。さすがに速い、強い、それに女神も味方につけたのかラッキーなゴールもあって2点を取り返し、そのロスタイムに日本はコーナーキックを得て、本田がコーナーに立つ。残り時間はもう一分を切っていて、このまま延長に入るのかどうか。本田は強気に直接ゴールを狙い・・・相手ゴールキーパーはこのボールをキャッチするや否や怒涛のごとき反攻がはじまり、その高速カウンターに昌子は半歩追いつけず、ゴールを許す。この間十数秒とか・・・そしてゲームオーバーのホイッスルが鳴り響く。呆然とする日本選手、芝生をたたきつけ悔し涙にむせぶ昌子の姿がクローズアップされる。

  後半二点先取した時点で、長友も「ベスト8の夢を見た」そうだが、テレビの前で熱狂した全国のフアンはたとえ敗れたとはいえ善戦したこのゲームオーバーでも満足しただろうが、画面に映る放心したような選手たちを見つめながら、わたしは本田のあのコーナーキックはかれの自己満足を満たしただけで、本当に日本の勝利を目指したものなのか、と疑問に思った。

 

  選手たちは出発時の数十倍の人たちに出迎えられ、“感動をありがとう”

 とねぎらわれた。それはいい、監督の辞任、長谷部のキャプテン辞退に続いて本田のぼくのW杯は終わったとの発言が続いた、ご苦労さま、わたしも感動をありがとう、というのにやぶさかではないが、引き分けに終わったセネガルとの第二戦の後 岡崎と敬礼を交わしたあのシーンはなんであったのか。

  あの試合 セネガルに先行されながら一点目は柴崎から長友に渡ったボールが乾にスイッチされて奪い返し、二点目は乾―本田―岡崎から本田へ転がったボールをかれがゴールへ押し込んでいる。岡崎は意図的につぶれたわけではないとあのシーンを振り返っているが、かれはこのボールの流れの中で

 二度からだを挺してコースを開けており、二度目の場合は相手のゴールキーパーを手前に引っ張り出して、本田に広い空間を差し出している。瞬間的に反応した岡崎のこの動作は歴戦の積み重ねがもたらした運動能力の賜物であろう。

  こうしたいきさつをすべて熟知している本田がベルギーとの最後のコーナーキックに一発逆転をねらったのであろうが、いまどきのゲーム運びでそんな甘い展開を期待する方がおかしい。

  ゲームオーバーの今 こうした疑問に答える記事は見当たらない。

  わたしは不思議に思いながらネットサーフィンした。

  あった あった                                    

  「なぜ本田圭佑はベルギーをアシストするコーナーキックを蹴ったのか?

 ラスト9秒の全真相」(7月6日「ビジネスジャーナル」編集部)。

  「敗因を分析しなければ 先に進むことは出来ない」と応じたのは、元日本代表FWの平山根太氏やヘラクレス・アルメロ氏(オランダ)。

  「あのCKの場面ではゴール前に入れずショートコーナーがセオリーです。試合終了間近であり・・・悪い流れを断ち切るためにも、一旦ゲームを終わらせるべきだったと思います」(平山氏)。

  今年3月 中国の「江蘇蘇寧」監督を解雇された元ACミランなどの指揮官ファビオ・カッペロ氏は開口一番「もし私が日本の監督だったら、彼の首根っこ掴んでいただろう」(7月3日『AS』)。

 

  『格差』を克服するには まだ時間が必要である。

                   (2018年7月8日 記)