見逃し配信で、前回の「鎌倉殿の13人」冒頭部を見ることができた。
この冒頭部は意味深でこれからの波乱を表現していて、見て良かった!
藤原定家との「定家院勘事件」というのがあったらしく以下に詳しく様子がわかる。
ジャパンナレッジ
https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=1082
見逃し配信で、前回の「鎌倉殿の13人」冒頭部を見ることができた。
この冒頭部は意味深でこれからの波乱を表現していて、見て良かった!
藤原定家との「定家院勘事件」というのがあったらしく以下に詳しく様子がわかる。
ジャパンナレッジ
https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=1082
残念ながら結城朝光と琵琶の接点は見つけることができなかったが、三浦光村と琵琶は繋がっていた。
川村一彦様の著作にも「光村は武芸に秀でると共に管弦に優れ、藤原孝時から伝授を受けた琵琶の名手であった。 」とある。(歴史の回想・宝治合戦より)
孝時の父、孝道はなぜか息孝時には厳しく、時には嫌がらせのようにも感じるほどなのだが、何か理由があったのか、はたまた後妻 可愛さだったのか…そのあたりはわかりかねるのだ.
熊野の「み熊野ねっと」さんのページには
https://www.mikumano.net/setsuwa/geido.html
「法深房は琵琶の名手になることを熊野の神様に祈り、その祈りの通りに琵琶の名手となりました。」とある。
藤原孝時もまた琵琶一筋で頑張ってきた方と思っている。
三浦光村の方は、公暁の門弟となっていた時期もあったそうで、波乱含みの始まりでもあった。
最後は一族がほとんど歿する中、
三浦胤村が奥州にいたため、乱の責任はないという事で助命された。
胤村は親鸞の弟子となって【明空房】と名乗り、常陸国下妻に光明寺を開基したそうである。
三浦義村の息・娘たちは、千葉氏・土岐氏を結び付ける形ともなり、気になっている。
光村の妻であった 藤原能茂(よしもち)の娘。
能茂は秀能の猶子であり、西蓮のことと思う。
「医王丸は、成人して藤原能茂を名乗り、承久の乱後は後は配流先の隠岐にまで後鳥羽院に同行しており、その崩御後には遺骨を奉じて上洛したという。」と本にあった。
面白い話を見つけたので、シェアしたい。
https://www.yurindo.co.jp/static/yurin/back/407_3.html
《蒙古襲来のとき、安達泰盛は幕府側の御家人統率の最高幹部》とある。
蒙古襲来は1274・1281年である。
泰盛は「鎌倉殿の13人」に登場している藤九郎の盛長の曾孫になる。
盛長ー景盛ー義景ー泰盛の泰盛である!
調べてみると、今まで知らなかったことに出会えた。
安達景盛は丹後内侍の息で、妻は武藤頼佐の娘、景盛には娘と息があり
松下禅尼、義景 |
である。
義景には妻が3名ほど(wikipedia)
安達義景の娘には【長井宗秀】に嫁いだ者がいた。
長井氏は大江一族で、宗秀の父【長井時秀】は大江広元の裔である。
詳しく書くと
大江広元ー長井時広ー長井泰秀ー長井時秀ー長井宗秀 である。
其の時秀の母親は佐々木信綱の娘である。
佐々木信綱は北条義時の娘を妻としている。
安達義景の継室に飛鳥井雅経の娘が入っていることも意外であったのだが、飛鳥井雅経の正室は大江広元の娘であり、其の力が及んでいたのかもしれないと思う。
長井宗秀の息に【長井貞秀】がおり、母親が北条実時の娘である。
つまり、安達氏の周囲には大江氏・北条氏・藤原氏がいるのである。
松下禅尼も北条時氏の正室となり、時頼他の母となっている。
安達泰盛の娘が北条時宗に嫁し,貞時を産んだ、ともある。
***
ともかく、この辺りと浅小井氏(深尾氏)と重なってくる時代・人物がいて、気になる箇所であることがわかった。
安達氏、結構面白い!と思う。
コトバンクには松虫・鈴虫の二人のことが書かれていた。
後鳥羽上皇の二人の女房。1207年,法然の弟子の住蓮・安楽は密通事件を起こして死罪,法然は四国流罪となった(建永の法難)が,その相手の女房の伝承上の名前。1675年刊の《難波名所葦分船》に松虫塚を載せ,1851年刊の《日本往生伝和解》は二人の年齢を19歳,17歳と記す。これらでは密通は否定され,出家したことが後鳥羽上皇の逆鱗(げきりん)に触れたとする。京都東山の鹿ヶ谷(ししがたに)の草庵跡に建立された安楽寺には木像や縁起絵が残る。また広島県生口島(いくちじま)の光明坊の寺伝では,後白河法皇の皇女如念尼が松虫・鈴虫という二人の侍女を伴に寓居したと伝えている。
http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E6%9D%BE%E8%99%AB%E3%83%BB%E9%88%B4%E8%99%AB
東京大学DB 日蓮聖人遺文 『住蓮・安楽賜死於原野』
https://geocity1.com/okugesan_com/nakahara.htm
拾遺古徳伝にも住蓮・安楽の記載がある。松虫・鈴虫は無いようだ。
拾遺古徳伝とは(コトバンク)
鎌倉末期の絵巻。9巻。茨城・常福寺蔵。法然上人(ほうねんしょうにん)の行状を説いたもので、1301年(正安3)本願寺3世覚如(かくにょ)が常陸(ひたち)国(茨城県)の門徒の要請によって起草した伝記を、絵画化したもの。真宗の立場からつくられ、親鸞(しんらん)が法然門下の正統であることを主張したもので、両者の関係が詳しく述べられ、他の浄土宗系の「法然絵伝」とは内容を異にする。第9巻の奥書により1323年(元亨3)の制作とわかる。絵は鎌倉末期の伝統的な大和(やまと)絵の画風を示す。
[村重 寧]
…新宗派浄土宗を立て,専修念仏を説いて念仏信仰を広めた,法然上人の生涯の行状を描いた絵巻。法然没後25年の1237年(嘉禎3)に作られた《法然上人伝法絵》(2巻,原本は遺らず)が最も早く,しだいに内容を増大させ,〈増上寺本〉,九巻本《法然聖人伝絵》(琳阿本),1301年(正安3)撰の《拾遺古徳伝》,《法然聖人絵》(弘願本,4巻が知られる)などの諸本,さらに全48巻の浩瀚な《法然上人行状絵図》(知恩院)に至るまで,浄土宗の発展とともに多種多様な傑作が生み出され広まっていった。それとともに鎌倉末期ころよりはじまる,絵巻の小画面を大画面に移した掛幅絵伝(妙源寺本,西導寺本など)にも見るべきものが多い。…
(文。剃髪号安楽。円光大師高弟。安楽寺開祖。 | |||||||||||||
鈴虫姫・松虫姫之事以後鳥羽天皇勅為所殺) |
上が系図に書かれている註である。
この箇所がわざわざ書かれているという事の意味を考えるに、このことに対する憤懣なのではないだろうか?
(勝手な想像)
***
さて、この住蓮と安楽(遵西)を死罪にしたのは「二位法印尊長」という人物なのだが、調べてみると父は一条能保であった。
母は坊門姫ではないかもしれない。
承久の乱で敗戦が明らかになると逐電し行方不明となる。
この続きが驚愕なのだが、(wikipediaより↓)
「6年の潜伏の後、嘉禄3年(1227年)京において謀反を計画しているところを発見され、六波羅探題・北条時氏の近習・菅十郎左衛門周則によって逮捕された。逮捕される時、抵抗して武士2人に傷を与えた挙句、自殺を図ったという(『吾妻鏡』6月14日条)。だが死に切れぬまま、逮捕されて車に乗せて六波羅に担ぎ込まれ[1]、六波羅で誅殺された(一説に自害したとも、傷により死亡したともいわれる)。
『明月記』によると、捕縛された際に自殺し損なった尊長は、「早く首を切れ。さもなければ義時の妻が義時に飲ませた薬で早く自分を殺せ」と叫び、問いつめる武士たちに「今から死ぬ身であるのに、嘘など言わん」とも述べたといい、探題の時氏・時盛らを驚愕させたという(『明月記』6月11日条)。3年前の北条義時の死が妻の伊賀の方による毒殺であったとの発言であり、
・・・」
尊長は一条能保の息であることがわかった。
義時の娘に一条実雅に嫁いでいる人がいるため、いち早く一条家に義時が歿したことが伝わったか…
一条家に嫁いだ娘は伊賀の局の実の娘のようである。何か秘密を知っていた可能性もある。
戦乱の世、伊賀の局自身の(自害する時のために肌身につけていた)薬を義時に使った?とか、
葬儀は泰時の到着を待たずに行われたそうである。
一条実雅
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E6%9D%A1%E5%AE%9F%E9%9B%85
法然を調べていて思わぬところに中原氏がいて驚いた。
以前パンフレットをいただいていた京都「住蓮山 安楽寺」は、松虫姫・鈴虫姫で有名である。
法然上人の弟子、安楽房とは【中原師広】であった。遵西ともいう。
父は中原師秀。
祖父は中原師元。
この中原は近江国の中原や親光・親厳・親季・朝親とは少々遠いが、大外記の系でもある。
さらに、式子内親王がこの松虫姫・鈴虫姫を連れて瀬戸内の島に渡り【光明三昧院】で暮らしたというではありませんか。
以前調べた際には【尼聖如】とあったが、HPでは【如念方尼】となっている。
http://anrakuji-kyoto.com/archives/2808
文治3(1187)年9月27日に畠山重忠が召し捕られ、従兄弟の千葉胤正が預かることとなった。
千葉常胤の妻が秩父重弘の娘である。千葉胤正の母である。
その胤正の母方の叔父にあたるのが秩父・畠山重能。その息が畠山重忠である。
本当に胤正と重忠は従兄弟同士になっている!
という事は、日蓮の母と富木常忍の母とは旧知の間柄で、常忍の母は日蓮を支援していたのは、この辺りの関係からかもしれない。
一応、常忍の母は千葉胤正の娘という事になっている。
日蓮の母は、畠山重忠の娘という事になっている。
つまり、従兄弟同士の娘なのである。
また、足立遠元の娘も畠山重忠に嫁いでいる。その姉妹に藤原光能に嫁いでいる者もいる。
藤原光能はひょっとすると中原親能と大江広元の父か養父か?という存在である。年齢的に見て?なのだが…
中原広季のwikipediaにも親能(子)と広元(養子)と記載がある。
***
九里の視点におきかえて、この畠山氏を加えてみると、波多野氏と横山氏が見えてきたのである。
横山孝兼(孝兼) 父は経兼(横山野大夫経兼)・・・孝兼は為義の被官 多くの娘がおり、波多野氏にも嫁がせている。娘の中には秩父重弘に嫁いでいた者もいた。(秩父重弘は重能の父なので、重能の母が横山氏となる。重忠の祖母にあたる)
同じ姉妹には、梶原の妻になった者もいて、景時の母となっている。
家譜集成 横山氏さんのページ
http://www.digistats.net/clan/yo/yokoyama.htm
さて、この名前の経兼の「経」はどこからきた「経」なのだろうか?
ここが、近江国の出身の中原氏とつながるのではないかと思っている。
中原久経よりも、もっと古くからからかもしれない?
中原と小野は近いと思う。
鎌倉時代での三左衛門事件では 一条家の家司として、中原政経のそばに小野氏もいたではないか!
児玉党の有道経行という人物も周辺にいる。(平安時代)
伊香シコオが有道氏の始祖とある。このシコオとは「シコオは強い男、強い霊力を持つ男、という意味。」だそうである。物部連(モノノベノムラジ)の祖先の伊香色雄(イカガシコオ)。
https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11E0/WJJS06U/1124105100/1124105100100010/ht030190
日本史疑さんのページ
https://blog.goo.ne.jp/kazurahara_001/e/7adc223d450f77bce2becec98e0cde06
重忠の姉妹には小野氏流岡部氏に嫁いだ「玉の井」がいた。(畠山重能娘)(岡部忠澄)
この岡部氏は「飛鳥時代の小野妹子の子孫で小野篁の末裔、猪俣党の猪俣忠兼から始まる。 」そうである。(wikipedia)
岡部忠澄(岡部忠綱の孫)が源頼朝に従い、平家滅亡後は御家人として奥州藤原氏征伐(奥州合戦)に従軍した。
室町時代では足利氏に仕え、足利基氏以降は鎌倉公方の配下にあり、永享の乱の際には岡部景澄が足利持氏とともに自害している。
戦国時代には、岡部忠秀と子の岡部忠吉、孫の岡部吉正は、後北条氏の家臣、松田康秀の配下になる。
前後するが、伊香のこと。
所縁の史跡さんのページ
https://mononobe-muraji.blogspot.com/2021/09/ikago.html
伊香氏については、物部氏の祖の伊香色雄命に名称が類似する点や、伊香郡内に物部の地名が残る点などから、物部氏との近縁性を指摘する説があります。
吉田東伍氏は、伊香の地名を河内国茨田郡伊香郷に由来する、物部氏の勢力扶植の結果と見ました。
また、太田亮氏も本来は物部氏の同族だったものが、中臣氏へ変化したものとしています。
中原氏も物部の範疇に入っているはず。
更に大中臣・中臣も時には同じ族となる。
畠山重忠
↓
秩父重綱・重弘・重能*小野氏娘・三浦義明娘or江戸重継娘
↓
平武綱・武基・将恒*武蔵武芝娘・源有光娘
↓
平忠頼*平将門娘春姫
↓
平良文*大野茂吉娘(平忠頼の母)
畠山の家族
上記の資料は日蓮のことを書いている部分と思うが、大野吉清という名が出ていて、吉清は清原氏であり、舎人親王の裔である、という意味と思う。
更に畠山家族とあるのだ。
大野義清の娘が畠山重忠に嫁ぎ、その娘が日蓮の母となった…と云う事なのではないだろうか?
畠山重忠の叔母は千葉常胤に嫁いでいるため、遠からぬ縁がある。
この畠山氏の周辺は「重」の字が多く、九里も経久の息に「経重」と重の文字が入っている。
上記の甲子夜話だが、松浦静(肥前国平戸藩主)が書いたもので、20年に渡り書き続けられていたものである。
正篇100巻、続篇100巻、第三篇78巻だそうである。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B2%E5%AD%90%E5%A4%9C%E8%A9%B1#cite_ref-8
更にこの松浦静山さんの奥様も20年「蓮乗院日記」を書いているのである。この頁は面白かった! ↓
久里双水古墳も松浦川に沿ってあり、松浦郡だったような気がする。
惟喬親王の母親は紀静子。
紀静子の祖父 勝長が近江守、そして晩年には下総守。
更に勝長の息 名虎の娘が静子となる。
先祖である紀猿取は石清水神宮の系図に記載があるそうである。
また、先祖は武内宿禰につながるようである。
という事は、近江国で惟喬親王のいた場所は紀氏関係であったかもしれない。
そして、九里も関係していた奥津島神社周辺・日牟禮神社周辺もまた、紀氏関係が持っていた所領と云えるのかもしれない。
気にかかっているのは紀氏の関係の「宇美」「槐樹」「子安」「糟屋」
筑前國宇美宮三昧堂長野庄
何処かひっかかる。