http://achikochitazusaete.web.fc2.com/chinju/omihachiman/suigo.html
由緒
この地は大化の改新以前より存し、当時には
九の里と呼ばれ若宮神社を奉祀していたが、
天明五年日本武尊を他所より奉遷したのを
創立とする。
「九の里」!
大化の改新よりも以前!!
聖徳太子・推古天皇の時代だろうか。
http://achikochitazusaete.web.fc2.com/chinju/omihachiman/suigo.html
由緒
この地は大化の改新以前より存し、当時には
九の里と呼ばれ若宮神社を奉祀していたが、
天明五年日本武尊を他所より奉遷したのを
創立とする。
「九の里」!
大化の改新よりも以前!!
聖徳太子・推古天皇の時代だろうか。
人康親王の娘が系図に出てきたことから、もう一度この周辺を探っていこう。
下記は藤原冬嗣の系の基経の妻となった人康親王娘であり、息【藤原時平】の部分である。
時平・仲平・忠平の母が人康親王の娘だそうである。
下記は平惟範の系図である。
平惟範の妻が人康親王の娘となっている。
息が平時望・伊望である。
時望の妻が、藤原南家巨勢麻呂流の黒麻呂の系の藤原菅根の娘【元姫】であり、息に珍材(うずき)がいる。
平珍材の息には惟仲・生昌(なりまさ)がいる。
この平惟仲は、優秀であったためか藤原兼家に可愛がられて家司となっている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E6%83%9F%E4%BB%B2
元に戻る…
人康親王の父は仁明天皇で、祖父は嵯峨天皇、祖母は橘嘉智子であった。
また、嵯峨天皇・仁明天皇の息たちには、臣籍降下で源氏が出てくるため【嵯峨源氏】【仁明源氏】という名称がついている。
嵯峨源氏はwikipediaによると以下のようである。
仁明源氏はwikipediaによると以下のようである。
仁明天皇の子、源多・源光は右大臣となった。また、源光の子孫に、清和源氏の源満仲の妻の父であり、嵯峨源氏の源綱(渡辺綱)の養父である源敦がいた。人康親王・本康親王の子息も数人が源氏となっているが、本康親王の子息には平氏となったものもいる(仁明平氏)
仁明天皇の孫には【惟喬親王】がいて、近江国と関係が深そうである。
近江国神崎郡君ヶ畑をはじめ、木地師のなかには惟喬親王を祖とする伝承が全国的に見られる。
惟喬親王社 - 滋賀県甲賀市土山町山女原池ヶ原に所在する。同地域に木地屋屋敷跡が残る。
http://www.shigahochi.co.jp/info.php?type=article&id=A0000355
村上天皇の妻に 藤原元方娘。元方は菅根の息で、前出の元姫の兄弟となる。
『建久元年十一月七日、頼朝卿が京都にのぼってきたのである。世の中の人々はかねてから、早く上洛しないものかと思ってこの日を待っていた。頼朝は六波羅の平相国(清盛)の邸宅の跡に、二町の広さをとって新邸を造作しておいてから京都に入ってきた。初めは十一月六日の入京ということであったが、雨のために勢多(大津市)あたりにとどまり、思いどおりに雨が上がるのを待ったうえで、七日に入京してきたのである。
京に入ってきたその有様は、頼朝より前に武士を三騎ずつならべて行進させ、その数は実に七百騎に及んだ。さらに頼朝の後ろには整列しない三百騎の武士が続いた。頼朝は、紺・青・丹三色の、砧で打ってつやを出した水干を着て、夏の鹿の毛皮で作った行縢(むかばき・腰につけて袴の前面を覆うもの)をつけ、本当に雄大な姿で黒い馬に乗っていた。その後、院や内裏に参上したりしたが、後白河法皇も頼朝をたぐいない者と思われるようになったのである。・・・・』
慈円も様子を見ていたのだろうか。実況中継の如くである。
結構頼朝のことを気に入っている様子が面白い!
巻第三には、藤原、九条殿(師輔)の息 堀河関白兼道と法興院殿兼家の仲の悪さに言及している。
この二人は母親も同じ「藤原盛子」で藤原南家巨勢麻呂の息「真作」の系である。
仲違いの原因は「昇進問題」がおもな原因のようだ。
愚管抄のこの段にはかなり詳しく書かれているので面白く読むことができた。
慈円にとっての先祖の話となると思う。
兼家の妻となった「藤原道綱母」の【蜻蛉日記】に記載があったためもあったのだと思うが、この二人の兄弟の争いは歴史に残ってしまった。
wikipediaにも掲載のある一場面は‥‥
貞元2年(977年)、重態に陥って伏している兼通の邸では、兼家の車がやって来た、との家人からの一報を受けて、迎え入れる準備を整えていた。ところが兼家の車は門前を通り過ぎて禁裏へ行ってしまった。仲の悪い兄弟であっても見舞いに来たかと思っていた兼通は激怒して起き上がり、病身をおして参内して最後の除目を行い、関白を藤原頼忠に譲り、兼家の右大将・按察使の職を奪い、治部卿に格下げした。ほどなく、兼通は薨御した。余計な怒りを買った兼家は長歌を献上して失意の程を円融天皇に伝えたが、天皇からは「稲舟の」と、しばらく待つように、との意の返歌を受けたという。
愚管抄の巻第三に【はじめに】が書かれている。
『・・・保元の乱が起って以後のこと、また『世継の物語』(大鏡)のあとのことを書きついだ人はいない。・・・保元の乱以後のことはすべて乱世のことであるから、何かと言えば悪いことばかりになるのを気にやんで人々も語り伝えないのであろうか。しかしそれはいうにたりないことと思われるので、一途に世の中が推移し衰退してきた道理をひたすら述べてみたいと思って考えつづけていると、本当にすべてのことには道理があることがわかってくるのである。・・・』
さて、前回の記事でも取り上げた「巻第五」の鎌倉武士の腕前の中から畠山重忠に関する部分を書き出しておこうと思う。
『頼朝はいつも荘司次郎に進撃の先頭をつとめさせた。この荘司次郎はなかなか勇猛な武者であった。いつどんな涼み方をしている時でも、彼の傍らでは仲間の者は膝をくんでくつろいでいるということはできなかったといわれている。』
「ユユシキ武者也。」は「勇猛な武者であった。」と訳されていた!
鎌倉の地図を見ていて「畠山重忠邸」が鶴岡八幡宮のすぐそばにある事に気が付いた。
頼朝に気に入られていた証でもあるかのように。
親鸞は実は慈円の弟子でもあった。
wikipediaによると
治承5年(1181年)9歳、叔父である日野範綱に伴われて京都青蓮院に入り、後の天台座主・慈円(慈鎮和尚)のもと得度して「範宴」(はんねん)と称する。
伝説によれば、慈円が得度を翌日に延期しようとしたところ、わずか9歳の範宴が、
「明日ありと思う心の仇桜、夜半に嵐の吹かぬものかは」
と詠んだという。無常観を非常に文学的に表現した歌である。
範宴は、其の後法然と出会い法然の弟子となる。
****
九條兼実は正室を亡くした後、法然の許で1202年に出家し円証となり、娘を法然の弟子であった範宴あらため「綽空」に嫁がせる。
その頃のことを愚管抄では… ↓
http://www.st.rim.or.jp/~success/gukansyo06_yositune.html
サテ九條〔兼実〕殿ハ。念仏ノ事ヲ法然上人ススメ申シヲバ信ジテ。ソレヲ戒師ニテ出家ナドセラレニシカバ。仲國ガ妻ノ事アサマシガリ。法然ガ事ナドナゲキテ。
弟である慈円に相談もせずに?出家したのではないだろうか。
この頃兼実の周辺は不幸な出来事や失意の出来事が続いていたのだ。
娘「玉日」を綽空(改め親鸞)に嫁がせた。
その周辺に中原久経が関係しているかもしれず書き留めておこうと思う。
親鸞の父は藤原(日野)範綱の弟有範である。
母は、一説では久経の養女(中原範兼の娘)となっている。
親鸞は1173年に生まれたと言われている。
1173年に親鸞を産んだとし、どんなに若くとも1159年には親鸞の母となる人は生まれていたと考える。
久経は1145年以降に生まれている。
また、一説に親鸞の母は「義朝の孫娘である」とあるので、義朝の妻であった朝長の母(波多野氏)が産んだ娘かも知れない。この場合は久経の姉が親鸞の妻であったこととなる。
義朝と離縁したのが頼朝が生まれたのちとすると1147年までに猶予を以っても1148年までに親鸞の母となる人は生まれている。(義朝の娘であるはずなのだから。)この場合は、25歳くらいで親鸞を産んだこととなる。
久経はもっと遅くに生まれたのか…(今までの計算が狂うが・・・)
でも私が?と思うのは、九条家の家司であった久経の『姉』が母となっている人(親鸞)に、九条兼実は大切な娘を嫁がせるだろうか?
納得の部分もある。
この後あたりからか‥‥日野氏の家司にもなっている中原家である。
九里氏(久能利氏)もまた、日野氏被官として若山荘(能登)に赴いている。
せっかく慈円のことに興味が出てきたので、調べてみることにした。
慈円は九条兼実の弟という事なので、九条の家司であったかもしれない中原久経と一条能保の家司であった中原政経のいた、時代・どのような世界で働いていたのかが少しは垣間見ることができるような気がするのだ。
とくに慈円の著作と言われている「愚管抄」についてになるのだが、論文と書き下しを後で探さなくとも良いように集めておく。
森 新之介 著 慈円『愚管抄』巻第七今訳浅註稿
http://ajih.jp/backnumber/pdf/47_02_01.pdf
https://www.waseda.jp/inst/wias/assets/uploads/2018/03/RB010_162-132-69-99.pdf
佐藤弘弥 様の記 ↓
http://www.st.rim.or.jp/~success/gukansyo_index.html
http://www.st.rim.or.jp/~success/gukansyo04_yositune.html
http://www.st.rim.or.jp/~success/gukansyo05_yositune.html
http://www.st.rim.or.jp/~success/gukansyo06_yositune.html
この慈円様、鎌倉時代の人物とは思えないほど柔軟な感じがして、当時は新人類的だったのではないか?と思われる。内情がわかるのも私には面白いけれど、週刊誌的??
読む人が読めば、重要な価値のある書物となるはず!
「道理」とは… これから読んで学びます!
****
鎌倉時代の「ユユシク」はどのような意味なのだろう。
現代の「ユユシキ問題」とは違う使い方と思われるが…
一応図書館から現代語訳を取り寄せ中だが…
「父太郎ハ武者ガラユユシクテ。」
庄司次郎重忠のことなのだが「ユユシキ武者也。」
人康親王のことではないか?という人物を「山科の禅師の親王」という話に登場させているのが伊勢物語で、親王にプレゼントする石の話なのだが、送り主の「おもてなし」の気持ちがどんどんエスカレートしふくらんでいくあたりが面白い滑稽話のような雰囲気の話である。
人康親王のことに詳しいブログを見つけたので、興味のある方には是非訪れてみていただきたい!
そしてそのブログのひとつ前に蝉丸のことも書かれている。
http://rekikenkiroku.blog.fc2.com/blog-entry-99.html
京都歴史研究會 様
★親王は琵琶の名手で、貞観元年(859)5月7日、病気を理由に28歳で出家している。 法名を法性。
幼い頃から病弱で、皇統からも外れどんどん弱くなる視力におびえ、世を儚み逃げ場として、
詩歌、管弦の道、琵琶の調べへと心を寄せ、慰めを求めたらしい。出家の頃は、ほとんど失明状態であった。
★出家しても、広大な領地があった為、親王は、たくさんの目の不自由な人々に保護の手をさしのべた。
そして琵琶で弾き語りをすることを教えていった。
年月が経ち、貞寛14年、人康親王が流感で亡くなる時は、続々と各地に散った琵琶法師が駆け付け、
5月5日の深夜、月と星が出る中、琵琶を弾き語った。
人康親王作の曲♪と調べの中で、親王は静かに亡くなったという。」
http://rekikenkiroku.blog.fc2.com/blog-entry-98.html
蝉丸、意外にも近江国と関係があった!
琵琶にいざなわれ、興味が出てきて、その世界を少し調べてみることにした。
https://web.archive.org/web/20160912080402/http://blogs.yahoo.co.jp/hikojuro/25447777.html
和歌山の九里が関係していた 熊野本宮近くの【大智庵】は・・・
熊野本宮(旧社地)のかたわらに天夜尊の旧跡があり、大智庵と号し、「日本国しゅう座頭の檀那たるべし」
とあり、その名が登場する。
今度は「天夜尊」を調べるとコトバンクに以下のようにあった。
日本では14世紀に入ると平曲が琵琶法師の間に広く行き渡り,筑紫,明石,京の八坂,坂東などを根拠地とする琵琶法師集団によって後に〈当道(とうどう)〉と呼ばれる座が形成され,覚一の活躍した南北朝時代にその統一的な組織が確立した。
この平曲の座は天夜尊(あまよのみこと)(仁明あるいは光孝天皇の皇子人康(さねやす)親王ともいう)を祖神とする由来を伝え,祖神にちなむ2月16日の積塔(しやくとう),6月19日の涼(すずみ)の塔に参集して祭祀を執行した。
座内には総検校以下検校(けんぎよう),勾当(こうとう),座頭(ざとう)の階級があり,座衆は師匠の系譜によって一方(いちかた),城方(じようかた)の平曲2流に分かれていた。…
では、一方とは(一方流)コトバンクによる。
「都方流」とも書く。平曲の流派名。城一のあと,八坂城玄と坂東如一の2人が,それぞれ八坂流,一方流に分れ,異なる伝承をするにいたったと伝えられる。八坂流は城方ともいい,伝承者の名前に城の字が入り,一方流は,同様に一または都 (いち) の字が入る。のち,当道組織が6派に分れたが,師堂,妙観,源照,戸島の4派は一方流,妙聞,大山の2派は八坂流。一方流は譜本において「灌頂巻」を特立させることに特色があるが,如一の弟子覚一にいたって大成され,その後一方流には名人が輩出した。
****
では、城一とは(城一流・八坂流)
(山下宏明)
鎌倉中期の琵琶法師。検校。平家琵琶中興の祖。平家琵琶を創始した生仏の弟子城生検校から琵琶を伝えられたといい、筑紫に住んでいたので、この流を筑紫方といった。弟子に城玄と如一の二人がある。生没年不詳。
***
平家物語を語ることとなったのは?
wikipediaによると
現存最古の記述は鎌倉末期の『徒然草』(吉田兼好作)[1]で、信濃前司行長(しなののぜんじ ゆきなが)なる人物が平家物語の作者であり、生仏(しょうぶつ)という盲目の僧に教えて語り手にしたとする[2]。
「後鳥羽院の御時、信濃前司行長、稽古の譽れありけるが(中略)この行長入道、平家の物語を作りて、生佛といひける盲目に教へて、語らせけり。」
その他にも、生仏が東国出身であったので、武士のことや戦の話は生仏自身が直接武士に尋ねて記録したことや、更には生仏と後世の琵琶法師との関連まで述べているなど、その記述は実に詳細である。
この信濃前司行長なる人物は、九条兼実に仕えていた家司で、中山(藤原氏)中納言顕時の孫である下野守藤原行長ではないかと推定されている。また、『尊卑分脈』や『醍醐雑抄』『平家物語補闕剣巻』では、やはり顕時の孫にあたる葉室時長(はむろときなが、藤原氏)が作者であるとされている。なお、藤原行長とする説では「信濃前司は下野前司の誤り」としているが、『徒然草』では同人を「信濃入道」とも記している(信濃前司行長=信濃入道=行長入道)。
まだ続く・・・
勝手にコラボさせていただいております。
https://blog.goo.ne.jp/jikan314/e/59879f745476bfd5fbbc9476a7a2fb46
都名所圖会 平安城首 西行水
さて、4つの地図による比較をしてみようと思います。
いつみのぬしかくれて、あとつたへたりける人のもとにまかりて、いつみにむかひてふるきを思ふと云ふ事を、人人よみけるに
すむ人の 心くまるるいつみかな むかしをいかに おもひいつらん
西行水は『三条坊門室町東で龍池町の南』をヒントに
縦の矢印は室町通
横の2.は三条坊門
横の3.は姉小路
この最後の地図だけが円福寺・櫻町亭の位置関係が違っているのです。
西行水も室町西になってしまうのではないでしょうか?
他の上2つの地図では西行水のありそうな場所は『櫻町中納言成範卿家』となっています。
この成範は信西の息(通憲の息である。)になります。
平家物語の中に内裏炎上という箇所があって、京中多く焼けにけり・・・とあり、『具平親王(ぐへいしんわう)の千種殿(ちくさどの)、或(あるい)は北野(きたの)の天神の紅梅殿(こうばいどの)、橘逸勢(きついつせい)のはひ松殿、鬼殿(おにどの)、高松殿、鴨井殿(かもゐどの)、東三条(とうさんでう)、冬嗣(ふゆつぎ)のおとどの閑院殿(かんゐんどの)、昭宣公(せうぜんこう)の堀河殿(ほりかはどの)、是を始めて昔今(むかしいま)の名所卅余箇所(かしよ)、公卿(くぎやう)の家だにも十六箇所まで焼けにけり。
地図の周辺にも火が及んでいたことがわかるので、地図もそのたびに変わっていたかもしれません。
西行水があったのではないかと怪しまれる場所=櫻町中納言成範卿邸の『成範』とは、どのような人物だったのでしょうか。web情報によると以下のようです。
「藤原成範のこと、(一本重教に作る)少納言通憲の子で、仁平保元の間播磨守となり左近衛中将に任ぜられ従四位上に進む、藤原信頼の乱に藤原経宗惟方皆之に党す、既にして事成らざるを知り、帝を奉じて六波羅に遁る、乱平ぐに及び、成範により奸の発かれんことを怖れ之を陥れ、為めに下野室八島に流さる、幾くなく徴還されて仁安年中正三位に進み、承安四年参議に任ぜられ安元二年権中納言となり民部卿を兼ね、正二位に進み、文治三年五十三を以て薨じた、成範桜を好み、その樋口の第に吉野山の桜を移し楽しんだので人呼んで桜町といふ。その桜の寿を延べた物語は『平家物語』に出づ、曰く
抑この重教卿(成範)を桜町中納言と申しける事は、勝て心数奇給へる人にて、常は吉野山を恋ひ、町に桜を栽並べ其内に屋を立て、住たまひしかば、来る年の春ごとに見る人桜町とぞ申ける、桜は咲て七箇日に散を名残を惜み、天照御神に祈り、被申ければ、三七日迄名残ありけり、君も賢王にてましませば神も神徳を輝かし、花も心ありければ二十日の齢を保けり。 (平家物語巻一)」
http://www.arc.ritsumei.ac.jp/opengadaiwiki/index.php/%E6%A1%9C%E7%94%BA%E4%B8%AD%E7%B4%8D%E8%A8%80
櫻が好きだった西行もここに居たことがあったのではなかろうかと思うのです。
住んでいたかどうかはわからなかったのですが、親交はあったようです。
信西とその子孫 市古貞次 著
https://www.jstage.jst.go.jp/article/tja1948/42/3/42_3_171/_pdf/-char/en
小督(こごう、保元2年(1157年) - 没年不詳)桜町中納言・藤原成範の娘。高倉天皇の後宮。
「成範 ・脩範 の母 、紀 伊 二位 朝 子 が 残 し た の は、 既 述 の如 く 永 万 二年 ( = 六 六 ) 正 月 十 日 で あ ったが 、 そ の後 に人 々が 十 首 歌 を詠 んだ際 に西行 も 加 わ って居 て 、 そ の十首 が 山家 集 、 中 雑 に収 め られ て
いる。 そ の 一つ 「送 り おき て か へり し野 べ の朝 露 を 袖 にう つす は涙な りけ り」 に よれ ば 葬 送 の列 に加 わ って い た の であ ろう 。 跡 の事 ども も 終 って散 り散 り にな ったが 、 成 範 、 修 憲 (脩 範 ) が 涙 を 残 し名
残 を 惜 し んだ の で、 西 行 が 歌 を 詠 み、 修 憲 (時 に少将 ) が 返 歌 し て居 り、 「雪 散 り て ま た の朝 に」 ま た 西 行 が 弔 問 の歌 を 贈 り 、修 憲 答 え て居 るな ど 、 西 行 は出 家 後 も 、 信 西 の子 息 と 親 交 を 結 ん で い たこと が 知 られ る。」