良い情報をみつけた!
前回の記事の僧の名前を、こちらでもチェックしてみようと思う。
https://catalogue.books-yagi.co.jp/files/pdf/d9784840620383.pdf
永井晋編『鎌倉僧歴事典』(二〇二〇年五月二五日刊行、八木書店発行)
そして、北条義時と思わぬことで交代となった『源仲章』
この人物は宇多源氏で佐々木氏と同じ源雅信の裔である。
この仲章は実朝の侍読として幕府に入ってきたようだが、その後に政所別当の一人となる。
当然、内部のことに詳しくなる。
しかも順徳天皇の侍読でもあったそうなので、鎌倉幕府の内情が筒抜けとなり、また院の情報も幕府に筒抜けとなる。
面白い記事があったので、ご興味のある方はご一読を!
https://wallerstein.hatenadiary.org/entry/20100704/1278240642
「そして彼の地位は広元の次席、すなわち北条義時の一つ上に署判を据えている、という地位である。政所では源仲章の発言力が増していた蓋然性が高い。『愚管抄』には仲章のことについて次のように記されている。・・・」とあり、義時よりも良い地位であったことがわかる。
義時にしてみれば、目の上のたん瘤であったかもしれない。
私は最初は、公暁と乳母子の白川が『この計画すべてを知っている義時も消しておこう』と思ったか?と想像したのだが、そうではなく最初から源仲章の交代も含めて知っていたのではないだろうか? 交代は前々からの計画であったと思われるのだ。
そこも、含めての計画であったとすれば、ますます公暁が首謀者ではなく、やはり全てのシナリオを義時が考え、公暁を焚き付け、其の乳母子であった白川が代わりを務めて決行に及んだのではないだろうか?
『公暁様は三河で待機していただくこととし…』という事になっていたのかもしれない。
備中阿闍梨は、意外と僧ではなく 備中とかかわりのある 土肥実平や弟の土屋宗遠など、中村氏周辺また、佐々木氏にも時代は少し後になるが備中守となる者も出てくるため、土肥の後に補任された者もいたのかもしれない、などどその周辺の人を想像している。こちらは、きっと見出すことはできないが、鎌倉時代の御家人たちには『雪ノ下の備中阿闍梨邸』は皆即座に人物と館と、ピンと来たに違いない。
もう一つ、この事件の後に、
雪ノ下の備中阿闍梨の邸宅が没収された他に『熊谷郷没収』とある。
ここは、武州(大江)源親広の領地を没収だそうである。
という事は、中原(大江・源)親広も関係があったのではないか? もしくは、義時に嵌められたか?と思いもする。
が、今回の公暁のことも、この辺りで終了とする。
中原俊兼の孫、俊職の息かもしれない白川義典と公暁。 気になって記事にしてしまった。
そして、北条政子は嘘のようにナリをひそめているあたりも釈然としないので、いつしかまた思いついた時にという事にしておきたい。御家人たちの気持ちを一つにするために、この事件に至ってしまったのかもしれない。