九里 【九里】を探して三千里

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永田氏と九里氏(2)

2017-06-24 | 永田氏
今度は、永田氏を中心に九里氏との関係から探ってみようと思う。

それにぴったりな『戦国期近江における湖上ネットワーク 佐々木永田氏の場合』小風真理子氏の論文を見てみよう。
【中世後期の琵琶湖水運に着目して湖西の国人領主連合「高島七頭」の一員たる佐々木永田氏による・・・】と書かれているように、永田氏が中心に据えられた嬉しい論文である!

【九里氏は戦国初頭より蒲生郡船木荘九里を本拠地とし、近在の要港船木をおさえる在地領主であり…】とある。そうか、九里村は隋心院領とあるが「村」になったのは江戸時代と聞いていたので気にかかっていた。
それ以前は「船木荘」だったのだ。

以前にも記事にしたが、近江国には4つ「船木・舟木」に関する荘園があり、歴博のデータベースには混同要注意とある。
しかし、湖の向かいにあるお互いの荘園、何等か関係がなく同じ名前にしたのだろうか? 疑問である。

とりあえず、そこは気になりつつも横に置いておいて、比べてみよう。

➀高島郡安曇川町
北船木・南船木
賀茂別雷社領・賀茂社領・醍醐寺領・三宝院領
寿永三年 1184
賀茂注進雑記・建武以来式目追加・東寺文書・康正段銭引付・醍醐寺文書
角川地名=安曇川河口の南舟木、北舟木あたりが荘域=寿永3頼朝、安曇川御厨など賀茂社領への武士の濫妨停止=海津、今津から大津に通ずる湖上運送の寄港地
平凡地名=醍醐寺三宝院領以外は、高島郡船木庄の可能性を否定、蒲生郡船木庄の情報の混入とする(私としては?)

➁高島
安曇河御厨
高島郡安曇川町
賀茂社領・賀茂別雷社領
寿永三年 1184
山城賀茂別雷神社文書・吾妻鏡・賀茂注進雑記・東鑑・朽木文書
角川地名=寛治4堀河天皇、賀茂上下社に不輸租田600余丁寄進=下賀茂社が安曇川半分の領有を主張したが、上賀茂社領となった=大治1寄人52人神田15
寛治4堅田御厨網人等解状=神人52人、公田人別3町を引募り、毎日朝夕の贄の魚を備進・天文11安曇川庄御公用銭算用状=御競馬料あり=天文頃には安曇川庄と呼ばれたか

➂ 近江 蒲生
船木庄
近江八幡市
法勝寺領・禁裏御料所・皇室領・醍醐寺領・三宝院領賀茂別雷社領・賀茂社領・南禅寺領・三鈷寺領
寿永三年 1184
加茂別電神社文書・長命寺文書・醍醐三宝院文書・醍醐寺方管領諸門跡等目録・後奈良院宸記・日吉社并叡山行幸記・大島奥津島神社文書・南禅寺文書・菅浦文書
『実隆公記』文亀2,12,1・『民経記』天福元,4,15・『後奈良院宸記』天文年間・『言継卿記』元亀2,12,11・『満済准后日記』応永34,1,23
角川地名=舟木とも=寛喜1法勝寺領、立庄経過不明=『輿地志略』は「船木郷」を多賀、北之庄、南津田、奥島4ケ村の総称とする
平凡地名=船木町、小船木町、加茂町が中心・舟木関は室町幕府御料所・→2102019「船木庄(高島郡)」参照・→4204006「船木庄」参照

➃ 近江 蒲生
小船木庄
近江八幡市
弘安七年 1284
近江長命寺文書
荘園志料=なし・角川地名=庄号なし→小舟木(近江八幡市)=白鳥川右岸平野部
近江八幡市小船木に関係あらん・船木庄の一部か・→2106003「船木庄」参照

➃は弘安だが、他の三つはいずれも寿永三年1184年であり頼朝の息もかかっているとみた。
そして【賀茂】という文字を紫にしてみたので、多いことがわかる。
【三宝院】とは京都伏見にあるが『永久3年(1115)、醍醐寺第14世座主・勝覚僧正により創建されました。醍醐寺の本坊的な存在であり、歴代座主が居住する坊です。』とHPにあるが、寿永の時代は三方院と醍醐寺は別々に○○領と書かれていることからも、全く同じではないらしい。

この湖を挟んで両端に荘園を持つということが、非常に効率よく便利だったに違いない。物流・交通・観光・贈答品(鮒ずし)に関しても・・・である。

近江国というのは地図を見てみるとウエストがくびれていて、非常に効率よく他の国に行ける良い立地であるが、琵琶湖が足を止めてしまう…
そこで、湖の利権を持っていることが重要だったのではないだろうか。信長が使ったように早船?があるとどちらにも行ける!

…ということで、同じように頼朝も考えたと思う。そこを直接的な武力と離れた「賀茂」という神社関係に託したのかな?(ココは適当)

ともかく、大事な場所に九里氏は関わっていたのだ。対岸の永田氏とお互いに手を結べば…と、どちらからか歩み寄りがあったのであろう。

婚姻関係を結んだ両氏であったが、残念ながら伊庭・九里氏は六角勢力の圧力で衰退していく。
永田氏は織田信長に仕ええることで、急成長していく。
特にお相撲の好きだった信長だが、永田景弘は躯体も大きく、相撲試合でも勝っている!ことからも、気に入られていたようである。

また、堂々巡りだが、「永田景弘」が『称九里』で、「九里甚左衛門正貞」だったのではないだろうか? 
永田辻と九里氏を考えるときに、いつもココでそのような気がしてしまう。

その甚左衛門正貞が永田氏として、信長に気に入られていたからこそ加賀で活躍していくのではないだろうか。

一方、信長に誅された永田義賢のことは、昨日の記事に出てきたように永禄十一年に没している。
同じく、永禄十一年=元亀元年に九里三郎左衛門が信長に誅されて、所領が景弘に渡っている。

この九里三郎左衛門は秀雄ではないかと思う。(浅井日記の中に出てくる。)
まさかとは思うが、この永田義賢は実は九里三郎左衛門で『称永田』だったのではないだろうか?(お互いに相手の氏よりお嫁さんを迎えたとか。。。)

【蜷川親俊日記 天文八年十一月十三日の条には、六角定頼の被官永田刑部少輔の名を記しその傍注に「西佐々木」と記している。】と前述の論文中にあるように永田刑部少輔は西佐々木であるにもかかわらず、六角定頼友つながりを持っていた。
西佐々木でありながら、西と東のパイプ役になっていたのが「永田刑部少輔」の系だったのであろう。
論文の中では、永田氏の中にいくつかのグループがあったとみているようである。

菅浦とも奥嶋とも関係のある永田氏。九里氏の衰退の後ではなく応永期とあるので、まだ九里は活躍していた時代に同じところに縁があったというのだ。

そして同じ論文中に【材木座由緒記】に【近江が京極氏の治世であった頃、高島郡舟木は永田氏と九里氏の支配下にあって…】とあり、永田氏と九里氏の誰であったのかの比定を試みている!

京極氏の近江守護在任期と考えれば、高詮の1370年から1377年頃か、京極持清・政高の1469年から1473年、また京極高清の1508年頃となるそうである。
其の後突き詰めていくと、永田氏と九里氏がともに「高島郡司」と記され、九里四郎次郎員秀であろうとみている。

永田氏の方は刑部少輔の系ということで、享徳に亡くなった永田重政の次の刑部少輔と言えば、景弘となる。

この濃密な両氏の関係が柏原藩での養子縁組につながる所以と考えられないだろうか?
もしもそうなのなら、柏原藩の九里・永田氏もまた、近江出身と言えるのではないだろうか?

柏原藩には他にも多数の近江国出身者が存在する。ここが認められると、わが九里直系も元は近江国だったこととなる。

次は、佐々木氏の中の岡田氏に関して書いてみたい。


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3 コメント

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いいですね! (りひと)
2018-12-01 20:24:05
柏原ってとっても気になっている地なんですけど藩だとどこか調べてみます。
またそこに九里さんと永田さんが関わっていたらなんか今までの経験上で納得。

で近江に関してもそうですね。
信長お相撲好きだったんですね!子供のアニメでサッカーかと思ってましたよ。永田さんって筋肉マッチョ系かな?と勝手に思ってます。相撲とサッカーの共通点って現世でも探しておりますが、結局足なのではないかな?脚力?

それはいいとして、柏原藩調べないとね。
松江っていうのも気になりましたよ。松江は松平さんですけど世良田がまた気になり始めましたよ。九里さんと世良田ってなにか関係出てこないかな?するとカモどころか徳川まで絡んできますよ。面白くなるの間違いなしです。1761
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かいばら藩 (kunorikunori)
2018-12-01 21:02:16
りひと様

かいばら藩は丹波国氷上郡にあります。周囲に丹波篠山とかあります。
福知山線です。

かいばら藩、陣屋が残っているようなので、お墓もあるし、一度行きたいと思いつつ、神戸や大阪からさらにさらに奥地なので、なかなか行けずにいます。
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バッチリの場所です。 (りひと)
2018-12-02 22:00:39
この前地名の住民投票やったあたりまのですね。丹波篠山がある。また氷上っていうと氷が入っているとまた個人的にテンション上がります。額田や中臣とも関係しそうに思いますので。篠と笹も気になる所です。多々良がこの前出てきてましたけどササラも気になっております。祓いでもあると思いますので。この前行った神社の七不思議で竹が音をたてるってのがありましたね。古墳らしいんですけどこちらの関係の一族ではないかなぁ?とも思ってます。舞とか関係ですね。氷とも関係するとも思います。
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