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肥前国 高来郡にやってきた有間経澄(鎌倉時代・建保の頃) 父幸澄は源頼朝に仕える

2024-04-24 | 九里バラバラ情報
前回のブログ記事に続くが、
養母尼とは、どなたのことなのか?
有間朝澄の先祖は?
を調べていこうと思う。

まず、❶有間朝澄の先祖
❷朝澄の養母とは…の順にしたいと思う。

肥前国高来郡の串山郷、深江郷に関しては以下のことから始まったのである。

武蔵国稲毛庄の稲毛三郎重成の所領と肥前国高来郡の所領が交換となった。(1213年)

❶有間朝澄の先祖
大村氏と同祖のようである。
文治二年、の條を読んでみると↓


文治二年(1186年) 藤津彼杵庄地頭職、大村に居す‥‥幸澄のことか?

兄弟3人
兄経純:遠江権守、高木郡有馬に居す(経澄)
次男:丹後守忠証(澄)は大村に住す
三男:兵部少輔証憲は薩摩に住す


彼杵町(そのぎまち)は、長崎県東彼杵郡の中部にあった町




上記の経澄から朝澄が続くと思われる。
頼朝に仕えた幸澄
その息である遠江権守となっていた経澄を調べてみよう。


藤原北家に続く系図もある。

朝澄より前に、経澄が有間にやってきていたことがわかる。それが、伝承では建保の頃という。(1213-1219年)

稲毛庄と高来郡東荘が交換となった年にすぐに派遣されたかもしれない。
東国にいた人物となるのではないだろうか?

ちなみに稲毛重成は1205年に歿している。
寒河尼は1228年に歿しているので、1213年は存命である。
寒川尼は養子として宇都宮頼綱を迎え入れ、その息(稲毛重成娘との息)時綱や、その息(寒河尼の曾孫)の顔も見たに違いない。
時綱の同母弟の横田頼業もまた、宝治合戦後は時綱の子を養子としている。

そして、上記の大村氏には宇都宮通房に仕えていた者がいたという。

そして、宇都宮氏の中に深江氏がいることが分かった。(朝澄よりも後の時代ことであるが…。)

深江蓮忍は宇都宮氏と関係のある中原氏で、
中原蓮忍入道=九里太郎なのかもしれない。

大村氏は野本氏や越中氏とも関係があるのだろうか?
もしも本当に藤原北家とつながる系図ならば、秀郷流も北家の出である。

藤原秀郷流信夫佐藤氏族の林田氏からも大村氏が出ているそうである。

清和源氏満季流高屋氏族の林田氏、
満季流江戸幕臣の林田氏、
藤原秀郷流信夫佐藤氏族の林田氏
美作国(現: 岡山県)・四国・筑前国(現: 福岡県)・筑後国・肥前国・肥後国の林田氏、
肥前大村藩の林田氏の系譜を収録。


信夫佐藤氏の林田氏と大村の林田氏、此処が同じルーツであるとすると、あり得るかと思うが、この系図をどうしたら見ることができるのかわからない。

*****

今回の調べでは、

❶有間氏の先祖の経澄・幸澄がわかり大村氏と同祖であることが分かった。

❷朝澄の養母は、寒河尼が時綱の息が大きくなるまでの間一代だけという約束で、朝澄に地頭を任せたのではないか?と思っている。
もしくは、稲毛重成の娘が、同様のことを一代だけという形で提案したか。

その後、深江蓮忍に渡っているという事は、蓮忍は宇都宮時綱の息か、庶子であった可能性もある。
もしくは、寒河尼の夫である小山氏の関係から出てきたとも考えられる。

寒河尼のすぐ近くに、結城朝村(網戸)がいて、蓮忍と称するが
「康元元年(1256年)11月23日に北条時頼の出家に殉じて出家し、法名を蓮忍と号したが 」とあり、

宝治元年の深江蓮忍は1249年のことであるため、当てはまらない。

この深江郷の地頭を相伝した深江蓮忍は、宇都宮時綱が宝治合戦で自害してすぐの交代なので、やはり宇都宮氏にちかい者であろう。
もしも、九里太郎の蓮忍であるならば、宇都宮氏と秀郷流の中間に位置する人物である。

朝澄も養母とあるからには、この宇都宮氏の近くにいた縁戚関係のある人物であろうと思う。

この、宇都宮氏周辺と秀郷流の周辺(野本氏)、そして、その間に位置する下河辺氏が絡んだ地頭職の奪い合い‥‥と思われる。

そこに、宇都宮氏に片寄りかけた地頭職を、なるべく秀郷流の方へシフトするように朝澄のあとに蓮忍を投入し、その後、野本氏を続投させた、かのように見えるのである。



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