藤孝の養家は和泉上守護家ではなく将軍近臣の細川氏(奉公衆の近江源氏佐々木大原氏出身で8代将軍義政期に入名字で細川を称する)であったという見方が有力となっている(←wikipedia↓)。
8代将軍足利義政が瑞渓周鳳に仕える喝食 の寿文房を淡路守護細川家の養子という形で細川政誠と名乗らせ御部屋衆に取り立てた。
細川政誠は大内義興が上洛して足利義稙が将軍に復帰した時に出家して霊芳と名乗り、子とみられる細川高久が後を継いで足利義晴の時代に将軍の諮問に与る内談衆に任じられた。
その後は高久の子の細川晴広が継いだことが知られている。この晴広が細川藤孝(幽斎)の養父であったとする見解が近年出され、研究者の間では有力になっている。
この大原氏と細川氏の関係を分る範囲で書き留めておこうと思う。
細川政誠 と 大原政重
幕府は大原政重の逃亡によって、大原荘の知行を一時細川政誠に命じている。
この逃亡とは、大原政重が甲斐国武田氏の許に逃げている時のことである。↓
細川高久 伊豆守 細川政誠の息
大徳寺文書・宝鏡寺文書等に見える。 天文7年から天文13年
大原高賢(賢永)
佐々木右衛門督義祐同舍弟大原二郎賢永
大原高賢(賢永)は六角義賢三男で、慶長六年(1601)まで在世したと伝えられる。
大原氏の第十三代は高賢と称される。高賢は定頼の嫡子佐々木箕作義賢の三男である。
高保に子が無かったため、その養子となり大原氏を継いだのである。
民部と称し、右近太夫に任じられた。初め賢永と称したが、のち高賢と改名した。
大原五郎政重に関して 以下は佐々木哲学校のページより 一部抜粋と一部省略させていただいている。
https://satetsu.seesaa.net/article/201211article_1.html
文明年間には大原判官の子息を確認できる。
文明十四年(1482)九月十六日付で重満より仏田安堵の状がある。「観音寺仏田之事、如先規不可有相違由、竹熊殿様被仰付候」とあり、竹熊殿様が大原氏の当主と分かる。
しばらく大原氏当主に「重」の字を使用する者がいないにもかかわらず、重満は大原氏の通字のひとつ「重」の字を使用しているので、大原氏の一族で竹熊殿様の後見人と推定できる。
同十六年十二月二十七日に夫役免除の状に政重と署名する人物が竹熊殿様だろう。
これで政重の幼名が竹熊と分かる。
ところで常徳院御動座当時在陣衆着到に「一番衆 江州佐々木大原備中守、佐々木大原左馬介尚親」「五番 佐々木大原大夫判官」とある。
一番衆の佐々木大原備中守と左馬介尚親は、宮内庁書陵部所蔵中御門本『宣秀卿宣下案』でそれぞれ備中守・左馬助への任官が確認できる元親・尚親であり、大原氏の有力庶子白井氏である。
元親は群書類従本佐々木系図には見えないが、左馬助持泰と左馬助尚親の間の世代であろう。
五番衆の大原氏は佐々木大原大夫判官とあるので、検非違使判官を世襲官途とした大原氏惣領である。このときまでに、政重は大夫判官に補任されていたことが分かる。
享禄三年(1530)十二月二十日付けで「毎年正月十八日節之事」で本尊への寄進状を京極高慶が発給している。
一時的に京極高慶が大原氏の名跡を継承していたことが分かる。
東軍の京極氏により大原氏の名跡が奪われていたのかもしれない。
『江北記』にある「大原五郎」は高慶のことだろう。
しかし、その後六角高頼の三男高保(高盛)が継承して、六角方になる。
大原高保 ↓
https://enpedia.rxy.jp/wiki/%E5%A4%A7%E5%8E%9F%E9%AB%98%E4%BF%9D
六角承禎 ↓
https://enpedia.rxy.jp/wiki/%E5%85%AD%E8%A7%92%E7%BE%A9%E8%B3%A2
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大原氏は息がいなかったために六角氏からの養子に頼り、後には京極氏にも一時継承され、入名字で細川となった細川氏が大原荘の知行をすることとなり、、、、という状態のようである。
☆六角義治(義弼)の娘は大原高賢の室になっている。
☆竹熊殿は、代々の幼名であったかも知れず、以下のように書かれていた文書もあった。
この場合は政重とは別人のようである。
さて、このどこかに九里氏が関係していると思われるのだが。