この本では源経方と二男行定、三男定道、が養子父子関係であったとある。
一方系図では成俊が経方の息となっている記載も、また曾孫となっている記載もある。(二人の成俊がいたのかもしれない。)
系図研究の基礎知識 近藤安太郎著には『成俊は対馬冠者と号し甲斐権守・神主となった。』とある。
いろいろな系図で、年代も確定せずに戸惑う。
近江国の伊香郡にいた中原成俊(伊香三郎)は、前から数えても、後ろの年代から逆算しても1000年あたりの人物に思えるのだ。中原成俊が二人いた可能性もある。
平成俊も、大江成俊も、木村となった紀成俊もいるので、それぞれが実在していたのかもしれないと疑いつつ進めなくてはいけないようである。
さて、
木村氏にとっては沙沙貴神社神官に戻った形になるという。
沙沙貴神社はもともとは紀氏が守っていた神社であったのだ。
『常楽寺城は琵琶湖の海上ルートを押さえる目的で築城されたと考えられ、代々、佐々木氏の源流狭々城山君の支流で沙沙貴神社の神官であった木村氏が城主であったとされる。(城郭探訪さん)』
https://blog.goo.ne.jp/kkkk_015/e/9f7e52a24dae8fce866d1e2c74dce39e
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古代にまで遡ってみると、狭々城山君 倭帒宿禰 山部 置目 などがみえる。その辺りのことは、また改めるとして、
今回はこの紀氏から出てきた成俊と伊香郡の伊香三郎成俊(中原)が同一人物かどうかを調べてみようと思う。
資料上では、中原成俊(1124年 越中守)と【伊香三郎】(中原成俊)を調べようと思う。
寛治5年(1091年)
康和五年(1103年)
天治元年(1124年)
保安元年(1120年)
此の成俊の活動期は 1091~1124年あたりと思う。
今回、この辺りの年代を調べてみてわかったことを書いていく。
まず、親子と兄弟の年代が、ある系図では間違っているようである。
経方から書いていく。
経方は永久三年 62歳で没している。(1115年 )… 1053年生
のように、没年から逆算しながら進めていく
源経方 1053年生ー1115年没
季定(為俊)1081年生-1131年没
行定 1084年生ー1139年没
成俊 1074年生(その辺りか?)ー活動期 1091年~1124年
定道 1109年生ー1171年没
秀義 1115年生ー1184年没
つまり、定道の息が成俊ではないことになる。
成俊が経方の息であったとすると経方はかなり若い頃となる。
季定よりも前に生まれていた成俊となると思う。
定道は秀義と同世代となる。任誉が秀義の継父となっている系図もある。
もう一つ「俊」という一文字は何処から来たのであろう。
季定の初名も為俊と「俊」がついている。
伯父にあたる経方の弟の経俊かもしれない。(日野冠者)
紀氏の母方の祖父盛宗は1069年に下野守となっている。
紀盛宗の娘を母とする紀行定と成俊は兄弟なのだろうか?
一つの系図では行定の息に定道がいるとある。これが真実に近いかもしれない。紀氏の流れにある。
経方ー成俊の成俊は中原成俊でもあるのではないだろうか。
近江国御家人井口中原系図内の成俊の年代とは違っているので、伊香三郎ではなさそうである。
しかも上の系図では行定の息に家行がおり、家行は愛智郡の出で、初名行俊と「俊」がついているあたりも、中原と関係がありそうでもしかすると紀氏と中原氏との婚姻か養子関係があったのではないかと思わせる。
此の家行の名前は、中原の経行・成行を思わせる。途中で改名しているあたりも紀氏からの養子縁組があって中原氏に入ってきたのかもしれない。
経方は、伊香郡・愛智郡の中原氏と結び、また、下野の紀氏と関係も結んで佐々木荘のみではなく、広く力を及ばせることに注力していたのではないだろうか?
何が正解かはわからないが、定道は「成俊の父親ではない」ことがはっきりとしたと思う。
また、中原成俊は二人いて、一人は1000年生まれ、もう一人は1070年代生まれと思われる。
もしくは、系図の位置のずれかもしれないが…