◎首藤・花井氏 : 慶長7年(1602)5月徳川家により領地没収の際、相馬利胤は訴訟のため江戸に上り、谷中の瑞林寺(ずいりんじ)に逗留。
旗本嶋田治兵衛を通して家康・秀忠に訴状を提出、10月に至って本領安堵の命を受けた。
帰国の際
瑞林寺住職日瑞上人(にちずいしょうにん)の児性(こしょう)であった須藤嘉助(13才)と花井門十郎の二人を貰い受け相馬に連れ帰った。
嘉助は重臣岡田宣胤(のぶたね)の岡田氏を、門十郎は重臣泉胤政の泉氏を名乗らせ、それぞれ高禄高を与えた。
後に二氏とも元の姓にもどって須藤(首藤)・花井を名乗り代々城下士となった。
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これと関係があるかどうかは不明だが…
昨日いろいろな系図を探っている際に「藤原秀能」首藤氏となっている(?)文書を見つけた。
主馬首藤秀能
これが藤原秀能とイコールならば19歳の頃である。
首藤 (藤原)
助清 (主馬首、首藤、守藤、主藤) 出典:寛政重脩諸家譜・文化9年