(表紙)「由緒書」
父 九里八郎右衛門(政道)
瑞泉院様御代御小性ニ被 召出、
徳雲院様え被遊御附御部屋住之御時節より
相勤、其後元服仕直ニ御近習御中小性
相勤正保元年親跡目無相違被 仰付候、
徳雲院様御代寛文六丙午年三月御加増
五拾石被被成下都合百五拾石拝領仕候、
徳雲院様御代寛文十一辛亥年十二月宗旨
奉行役被 仰付
同御代延宝八庚申年三月町奉行役被
仰付相勤罷有、天和二壬戌年正月果申候、
註 九里八郎右衛門政方が書いています。
織田高長の時代に小姓として召し出される。(高長:出雲守 前田家の臣であった。)
徳雲院様(宇陀松山藩三代目当主織田長頼)お付きとなり、長頼の部屋住み時代から仕えた。
(長頼:伊豆守・山城守)
その後元服して近習の中小姓を勤め、
正保元年(一六四四)に親清左衛門の跡目を継ぐよう命じられた。
長頼の時代の寛文六年(一六六六)三月、五十石が加増され都合百五十石を拝領、
さらに寛文十一年(一六七一)十二月、宗旨改などにあたる宗門奉行役を命じられた。
すすんで延宝八年(一六八〇)三月、町奉行役を命じられ、天和二年(一六八二)正月に没した。
以前にも、同じことを書いていたと思う。(笑)復習を兼ねてます!
地図で拝領地を見ていましたら、この岡田重綱と岡田政直あらため九里政直が繋がっていたのではないかと思いました。
九里は信雄公よりも前から宇陀にいたお思われますので、牢人であったか、土地の者であったか、もしくは妻九里であったか、だと思います。
ありがとうございます!!
ただ、由緒書と書かれていますが、肝心な由緒については何も書かれていませんので、天和二年以降の筆者が由緒書の書き方を知らなかったのかと思われます。
通常は本籍地(本貫地)本姓、元祖から何代目、から始まりまるのが普通です。分からない場合は不詳、不知、等の説明がされます。
多分筆者は分からなかったのでしょうね。
先祖書も同様で宇陀以降の履歴に留まっています。
正直が上申した由緒書があれば違うのでしょうが。
百石の安堵状は、一級の史料ですね。
まあこれだけのものが揃っている家はそうありません。第三者の史料にあると思います。
「親族書」はないのですかね。
これは兄弟、妻の実家、等の今の三親等程度の親戚関係を報告したものです。
隠居、相続、養子縁組、婚姻、廃嫡等は江戸期は殿様の許可が必要なので、今の会社と同じで決済書を上げ裁可書が必要な面倒なシステムです。
特に婚姻と養子縁組は派閥(勢力関係)に影響するので重視されます。
余談ですが、岡田氏が気になりましたので「寛永重修諸家譜」全巻見てみましたが、岡田氏は10家近くありましたが、該当するような家はありませんでした。親族に旗本はいないと思われます。
よって個別の分限帳、由緒書、の探索が必要です。
江戸初期に姓名がある家ですから、どこかに記録はあります。
明治五年に新たに苗字を届け出た、いわゆる「新平民」とされる家は全くわかりません。
ただ、新平民とされる家でも、そもそも苗字(名字)はあるが、苗字をゆるされなかった、反徳川幕府のグループで帰農した家は別です。