突然、岡田氏中心に思考回路を替えるのも難しいもので、
なぜ岡田清左衛門(後の九里)は【宇陀】に居たのかを考えたい。
豊臣秀吉の元に、多賀秀種と京極高次がいて、
その秀吉の時代に多賀秀種は【宇陀の秋山城】を劇的に改築した人物である!
https://www.city.uda.nara.jp/kouhoujouhou/kouhou/documents/36tagahidetane1.pdf
秀種は、宇陀で二万石を領してたのだが、まさかの浪人へとなってしまう。
関ヶ原の戦いで西軍に属し、大津城攻めに加わったため、改易された。
甥の堀秀治を頼ったものの、慶長15年(1610年)、忠俊の代に堀氏も改易され、再び浪人となる。
(この大津城に高次がいた。)
多賀秀種は改易の後に前田利常家臣(1615年以降)となる。
一方、高次は秀吉に高嶋郡2500石(後に5000石)拝領したが、その後関ヶ原の戦いが始まろうとしている時に、徳川家康と石田三成の間の調略合戦(手紙・面会)に挟まれ動きが取れなくなる。
大津城を動けなくなる(あるいは大津城の堅守を頼まれ?)が、そこを西軍に属している秀種に攻められる。
一度開城するが、同時に【関ヶ原の戦い】があり、西軍が敗北。
高次は命拾いをする。秀種は改易となる。
のち「家康は西軍の軍勢を大津に引きつけて関ヶ原へ向かわせなかった高次の功績を高く評価」
‥‥となり、どこまでもラッキーな京極高次。
高次、慶長五年(1600年)小浜藩に入り、1601年に小浜城築城。
1634年に松江藩に移る。
また、高次のいた小浜藩には岡田重右衛門(忠勝・忠利)がいたことがわかっている。
「岡田重右衛門一五人扶持」とある。
が、
九里の名はなかった。
京極高次の分限帳(1609年以前)にあった岡田清左衛門と九里次郎兵衛を思うに、
京極の配下にも、岡田・九里氏はいたことがわかる。
この九里は、松江藩へ行ったと思われる。
松江藩に九里・佐々九郎・岡田氏がいる。
が、策略にはまってしまい、佐々九郎と九里次郎兵衛は津軽藩へと飛ばされる。
そこで、九里は自害。
順序だてて考えると、岡田氏・九里氏は多賀秀種が一線を退いたのちに、前田氏についた組と大和宇陀に残った組がいたと考えられる。
前田利常の配下にはたくさんの九里氏がいる。
1600年以降に岡田・九里氏が宇陀に入ったとも考える可能性もあるが、
私としては、多賀秀種の宇陀時代(1585年~)に入ったであろうと思う。
あえて岡田十右衛門政直(清左衛門)=九里清左衛門政直は、多賀秀種の時に秋山城改修に携わり、大和宇陀に残った組であったと仮想しつつ進めてみる。
1585年 豊臣秀長が大和郡山に入部し、大規模改修されたと宇陀市のHPにあるので、この時に追随していたと思われるのだ。
1585年から1597年まで、12年間に秋山城も城下町も整備されるのだ。
という事は、1644年に没した岡田政直=九里政直は、宇陀で生まれたかもしれないし、若かりし頃に入部したかもしれない。15歳で宇陀へやってきたとして、1644年に74歳で歿したこととなる。