岡田氏に関して今まで集めてきた情報の中で、
武田家の御とぎ衆のなかに『岡田堅桃斎』がいるのだが、この人物、柏原織田家臣系譜の中にも登場している。(永禄12年~元亀4年(1569~1573)頃の人物)
この人物の本当の名前は『岡田重忠』で、その息に『月庭斎』(本名は不明)、其の月庭斎の息に『岡田重綱』がいる。
その重綱の註に
「 半四郎、改め五郎右衛門 実月庭斎男
天正十四年 重綱十一歳 信雄公召為近臣 継重善後十八年従公干
小田原後干下野烏山 出羽秋田 伊勢浅(朝)熊 伊予道後 大坂天満 京師龍安寺 及 北野
元和元年九月朔 賜宇陀郡 芝生 入谷 平井 三村 禄三百石 命物頭 」とある。
九里政直は「藤井 日有 平尾」であったので、違うのだが、地図で確認してみよう。
ちなみに、「日有」は「ひゅう」「ひう」と読むそうで、現在の「日布」と思われるそうである。(現地の方から)
文字が出る、出ないの関係で一枚には収められなかったのだが、6地点が確認できた。
上から 平尾 芝生 比布 入谷 藤井 平井
岡田重綱 芝生・入谷・平井
九里政直 藤井 比布 平尾
此のなかでは 芝生と平尾
比布・藤井と平井・入谷 がそれぞれ近い地域にある。
おお、今までどこの岡田氏なのか、悩んでいたことに答えがでそうである!!
続く
岡田重綱は物頭で三百石取り、その息子の重勝は近習役で百石取りとされ、岡田正道は代官職で百石取りとされます。どちらの家も幹部職ですが、五万石の小藩ではギリギリの石高です。公称石高の五割から六割が上納金で藩庫に納めなくてはならないので百石取りは40~50石が手取りとなります。これだと小者が2~3人しか雇えません。それで代官をするのは大変です。
領地持ちですので副業ができますので、浮米藩士よりはましですね。ただ宇陀は山間部ですので米は殆ど採れなかったとおもわれます。他の生産物で埋め合わせていたのでしょう。
話がそれました、この二つの岡田は「通字」が違うので別家と思われます。片や「政」方や「重」です。
当時、通字はとても大切で「一族一門」を表します。苗字が同じでも通字が違う場合は別家と看做す習慣がありました。しかし、苗字が違っても分家、庶家は同じ通字を使用しますので「一門」を表現します。戦後「通字」の概念が薄れましたので通字を踏襲しない旧家が増えています。
天皇家の「通字」は「仁」で、徳川家は「家」織田家は「信」熊谷家は「直」西園寺家は「公」毛利家は「元」、河野家は「通」等で未だに踏襲している家も多いですね。
一門か否かは①苗字、②通字、③家紋、④宗派が基本ファクターです。
次の記事に【岡田重孝】の別名を書きました。
重孝には「直」のついた別名がありました。
織田信雄に誅された人物です。
其の息を甥の重綱の養子とした…と想像した場合、「直」を通字としたとも考えられるかもしれません。
信雄が宇陀にやってくることとなり、九里と改めたとし、
今度は「政」を通字にしたのではないでしょうか?
家紋は、以前にお話したかもしれませんが、【榧之内十文字】という乾氏と同じ家紋です。
そのために「乾氏」を調べておりました。
宗派は不明ですが、
政直は法名に「禅」が入っているので禅宗(吞舟様もおっしゃっていらしたように!)であったようですが、政直一人のみで、
此の後からは「禅」の文字が入っていませんし、
水野・佐々・岡田氏と各氏で法名もバラバラですので、宗派もバラバラと思われます。
江戸最後の祖父となる九里政敬は小仏峠?に散骨したそうです。
宇陀は薬草の宝庫ですので、薬を作っていたのではないかと想像しています。
江戸最後の藩士であった九里敬三の祖父九里政敬…です。