経久(=蓮忍)は、1250年前後に因幡国から冨城蓮忍と冨城常忍が下総の千葉氏の文官として帰国したところで幕を閉じる。
蓮忍は1180年以降の生まれと思われるので70歳前後である。
次の時代は長男経重である。
経重が冨城を名乗っていた形跡も何も残されていない。九里左衛門経重!である。
同時代の「経重」という名前は1240年に「源経重」が文書に出てくる。
また「平経重」も若狭国太良庄のことで文書が出てくる。
文書が残るほどの活躍をしていた人物かどうかはわからないが、可能性は残される。
個人的には太良庄の経重であったなら、面白いなぁ…と思うのだが、、、不明である。
「渋谷経重」も同時代あたりにいるが、系図には記載はない人物だそうである。
二男の経季に関しては下記に添付したが、寛喜三年(1232年)に登場する「参川前司経季朝臣」だったら、面白い!
右馬允経季 と系図にある。この経季は、近衛兼経の付き人?側近?
(岡屋関白)岡屋関白記 ↓
https://www.hi.u-tokyo.ac.jp/publication/syoho/23/pub_kokiroku-okaya/
常忍の親戚とおもわれる中原能兼(藤能兼・橘朝臣能兼?)の文書の裏が広橋氏の文書となっており、広橋家の家司であったと思われるのだ。(1275年)本当は広橋氏の文書が正しい面で、能兼の文書が紙背となる。(広橋兼仲)
同じように、中原にも近衛家の家司がいたのではないだろうか?
室町時代・戦国時代にも、九里氏は近衛氏の家臣であったように。
経久の息は、長男経重・二男経季・五男常忍 以外はわかっていない。
そもそも、五男の常忍も息なのか、はたまた甥なのか、もわかっていない。
が、蓮忍と共に因幡国にいたのは五男の常忍なのだ。
常忍は「冨城」から「富木」となり、千葉氏の許にきてから日蓮の庇護者となっている。
それはだいたい1250年前後のことである。
…以上のようにアイマイモコの九里氏の歴史、なんせ今のところ系図は二つで、一つは九里の祖から五代分しかない。
和歌山の方の系図も一部分しかコピーをさせてもらえなかったそうで、本系図を探している。
そちらは、熊野に住している家で、熊野本宮の前坊の僧、または、御師、であったようである。
熊野とのご縁の前に、六角佐々木氏の家臣となった系があり、近江八幡の九里氏となり、また京極佐々木氏に残った方の九里は、彦根付近の九里、多賀大社付近の久徳氏なったのであろうと思う。
また、この和歌山の九里の兄の系が小堀氏となっており、やはり湖北の小堀氏とつながっているのではないかと思うのだ。
江戸時代初期に加賀藩の家臣となった九里氏に小堀政一は遊びに来て、家に長逗留している。寄付の依頼もされていたようである。
以下の武家家伝小堀氏の記事に「藤原氏秀郷流」と伝える…とあり、やはり近い祖のように思う。
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/kobori_k.html
…という事は、和歌山の系図は、秀郷から始まっているものであるかもしれない。
それ以前は藤原北家魚名流である。
因みに近衛家も広橋家(日野)も藤原北家である。
源義朝・秀郷流の妻、秀郷流の妻の再嫁先の中原‥‥では、私の直系の九里は何故「平姓」なのだろう。
何処かに平姓との接点があるはずと思う。
それが、因幡国の長田氏とのつながりではないかと思っているのだが‥‥
その接点が、鎌倉時代に在ったのではないだろうか?と。
《memo》
長田氏は桓武平氏の高望流であり、
日本通信百科によると、
長田氏の実質的な祖は、致兼の子の長田致頼であり、尾張国および三河国に多くの庶家を輩出した(三河平氏)。
致頼は長徳4年(998年)に、義理の又従兄弟[5]の平維衡と伊勢国神郡[6]において、戦いを繰り広げたため、のちに両者とも朝廷に出頭を命じられ尋問を受けたが、この際に維衡は直ちに非を認めて過状(詫び状)を提出して、位階は剥奪されずに淡路国へ移郷とされたのに対して、致頼はなかなか非を認めず過状も提出しなかったため、位階を剥奪の上に隠岐国へ配流となった。3年後の長保3年(1001年)に致頼は赦免されて、従五位下に復された。
しかし、寛弘4年(1007年)の8月に藤原北家の藤原伊周・隆家兄弟が叔父の道長暗殺を致頼に命じていたという噂が流れていた[7]。また、『長徳の変』の際に致頼の弟の致光[8](右兵衛尉)らが伊周の郎党として、検非違使に家宅に踏み込まれ逃亡していた[9][10]経緯があった。また、致頼の姉妹がすでに薨去していた伊周・隆家兄弟の父の道隆の家司である有道維広の室であり、その子で致頼の外甥でもある維能が伊周の家司であった事から、伊周らはそのつながりで、有道氏の姻戚関係である致頼らと通じていた可能性もある[11]。
前述の致頼の弟の致光[8]は、勅命でおなじく前述の大宰権帥・隆家に従軍して、渡海したツングース系女真を相手に奮戦して、戦功を挙げた(『刀伊の入寇』)。
忠致の代である平治元年(1159年)の『平治の乱』でにおいて、平清盛(維衡の6世の孫)に敗れた女婿の鎌田政清の主君である源義朝(義頼)の首級を、清盛からの恩賞目当ての欲にからんだ忠致は、子の景致とともに義朝を弑した(『野間の変』)。
歳月は流れて、義朝の子の頼朝が坂東地方で勢力を拡大すると、 建久元年(1190年)に亡父の仇を討つべく配下の御家人に忠致父子の討伐を命じた。しかし、忠致は頼朝に恭順の意向を示したが、かつて忠致によって亡父を騙し討ちにされた怨みを忘れない頼朝はかえって激怒して、これを許さずに忠致は子の景致と孫の清致とともに処刑されて、晒し首となり[12]、ここで長田氏嫡流は断絶した。
しかし、忠致の異母兄の親致(右衛門尉)・政致(宮内丞)父子は頼朝に許されて、土師姓大江氏一門の永井氏の婿養子となり、改姓した。『承久の乱』で戦功を挙げて、地頭・御家人に列した。戦国時代の致勝(永井直勝)の代になると、徳川家康・信康父子に仕えて、三河永井氏・大浜氏の祖となった。
- 平致兼(公雅/垂木主膳)
- 長田致頼 : 致兼の子、致利・致成[13]の弟、致光[8]・致遠・入禅(僧侶)の兄。
- 長田重致(公仕) : 致頼の子、致行[8]・致親[14]・浦野致経(葦敷致経)[15]の兄。
- 長田致房 : 重致の子、経致・致家の弟、致通の兄。
- 長田行致 : 致房の子、貞致・長致の弟。
- 長田致俊 : 行致の子、宗致(もとむね)の兄。
- 長田忠致 : 致俊の子、親致・致直の弟。
- 長田景致 : 忠致の子、致将の弟、致宗(むねもと)・致範(致教)の兄。
- 長田清致
親致系(永井氏)
- 永井親致 : 致俊の子、致直・忠致の兄。三河永井氏・大浜氏の祖。
- 永井政致 : 親致の子、秀致[16]の弟。
- 永井致重 : 政致の子、定致[17]の兄。
- 永井俊致 : 致重の子、致政の弟。
- 永井致広 : 俊致の子、致直の兄。
- 永井致道 : 致広の子、 : 致政・致慶[18]の弟。
- 永井直致(致継) : 致道の子、致国[19]の兄。
- 永井道致(公臼) : 直致の子、道致[20]の兄。
- 永井致常(広致) : 道致の子、信致[21]
- 永井致正
- 永井吉致(重元/直吉) : 致正の子、重致の弟、致吉の兄。
- 永井致勝(直勝) : 吉致の子、大浜直元(長田致元)[22]の弟。
脚注
現在の愛知県南セントレア市美浜町
尾張国春日井郡安食(葦敷)郷(現在の愛知県春日井市葦敷大字)を拠点とした。
庶家に尾張水野氏(庶家に毛受氏)など。
この系統は大浜氏・三河永井氏をのぞいて、陽成源氏満政流八島氏(羽島氏)の系統と自称(仮冒)した(『古代氏族系譜集成』(宝賀寿男/古代氏族研究会/1986年))。
致頼の祖父の良兼の異母弟の良将・良文の生母が高望王の妹で、それぞれの妻が高望王の娘であり、維衡の祖父の国香王(平貞盛の父)の大叔母で同時に叔母でもあった親族関係による。
現在の三重県松阪市全域
『小右記』寛弘4年8月9日条
『刀伊の入寇』で、太宰権帥の藤原隆家(藤原北家)に従った長田致頼の子の致行と同人物という(『清盛以前 - 伊勢平氏の興隆』(髙橋昌明/文理閣(改訂版)/2004年)19頁より)。
『小右記』長徳2年2月5日条
『百錬抄』長徳2年2月5日条
このときの道長は金峰山に向けて、8月2日に出立しており、13日には連絡をとるための勅使として源頼定(村上源氏)が派遣されたが、その翌日の14日に道長は無事に戻ってきており、結局は致頼による暗殺計画は実行されていなかった
忠致父子は、治承4年10月14日(1180年11月3日)に駿河国の『鉢田の戦い』で、橘遠茂とともに武田信義(甲斐源氏)によって、討ち取られたとする説もある(『清盛以前』(高橋昌明/平凡社ライブラリー版/2011年)。
『尊卑分脈』では、公雅の父とする良正を高望王の末子・良茂の子として、兄弟に公義・致成・致頼がおり、公雅は三浦氏・鎌倉氏(相模長尾氏・大庭氏・梶原氏)・土肥氏(中村氏)らの祖とする。他の説では、良兼の子に公雅を置き、致成・致頼を公雅の子とするなど系譜の混乱が見られ、系譜上の仮冒の疑いが濃い見方がある。
一方、伏見では子孫が悪奉行として有名で一揆が起きております。
鎌倉殿の13人で、どうやら八重を後の阿波局として泰時の母と言う説を採用しようとしているとネットでみました。三代執権なのに、母の出自が不明と言うのも説の根拠みたいです。
八重と侍女が集団入水説では、心霊スポットとなっているとか。
大河ドラマで、さまざまな情報が流れて来ましたね。
又お邪魔いたします。
拙句
さまざまな花が咲いたとよく聞こえ
それは、おおっぴらに出来ない事なので、不明になりますね。
でも、その当時の方々は皆周知の事だったので、泰時が執権になることにも支障がなかったのかも知れません。
昨夜は、義円が出てきましたね。
いままで調べていない人だったので、、
愛知と関係があり、子孫がいました。
愛智義成
戦国の時代まで繋がっているようです。