乾盛国
2019-11-06 | 乾氏
都道府県別日本の中世城館調査報告書集成より
「滋賀県立 ... 山階町は戌亥村と辰巳村が併合した町で、六角氏に仕えたという乾盛国は戌亥村にいたと伝え、その同族として乾伊賀守・乾兵庫頭が知られている。」
とある様に、佐々木流の乾氏であったようだ。
これは九里氏の後に「水茎岡山城」に入った乾氏である!!
道謙の四男「道盛」の分かれの一部が佐々木氏となったのではないだろうか。
というのも道謙の甥 土岐頼康は、
『土岐頼清の男頼康池田郡小島で誕生、母は佐々木備中崇西の女』と宮城家本明智系図にあり、佐々木氏とも繋がっている。(ほかにも土岐氏と佐々木氏との婚姻関係はあったのではないだろうか?)
佐々木備中崇西は佐々木頼綱(一二四二-一三一〇)のことで、佐々木六角泰綱の次男で、佐々木信綱の孫にあたる。
六角氏二代目当主となる人物で、金田殿と呼ばれていた。長男が頼明という名であったことも気になる。
頼綱ー時信ー氏頼
氏頼は佐々木道誉の娘を妻にしている。
その氏頼に仕えていたのが「九里助康」である。
助泰の三代前を見ると「九里小五郎助恒」とある。
この人物の註に「属佐々木六角道誉 元弘建武年袖切」とある。時信の時代と思う。
つまり、助泰は六角氏の側についていたという事になる。
とすれば、もしかすると助恒の兄「助政」小堀五郎○○が京極に付いた可能性もある。小堀町も長浜付近である。
その小堀町付近、もしくはその中に「乾村」があったように記憶している。
小堀町
乾村があったあたりか?
大戌亥という地名が残っていた!
この病院のあたりにもしかしてお城があったのだろうか?
小堀氏に「左近将監」とあり、乾氏にも「将監」である頼久がいる。
時代的にも佐々木氏頼より2代前あたりに、と限定され土岐光定の時代とかぶってくる。
土岐氏に関すると、光定・頼貞の時代に土岐氏と佐々木氏が近い関係になり、それが九里氏(その当初は中原氏であったかもしれないが)にも波及した何かがあったのではないかと思われるのである。
若しくは、つなげたのが中原氏・九里氏であった可能性もあると思う。
小堀五郎の後の○○が読めないので、どなたか教えてくださいませんか?
どうぞよろしくお願いいたします。