葛西氏も村岡氏も同じ高望王からの出である。
このグループの中に長田氏も居た。
片岡氏(佐々木流)も葛西氏と婚姻関係があって、近江国での戦いの後(観応の戦い)、逃げる際に葛西氏を頼っていったことが思い浮かぶ。
佐々木荘下司・佐々木宮宮司(?)経方と為俊が平姓でもあり源姓をも名乗った背景には、どちらにもよらない氏であったことにあるのではないだろうか?
つまり、中原、大中臣、中臣、清原、小槻、惟宗…等々 神祇に関わってきた氏族であったのではないか?と思うのである。
舞踏や雅楽など別な分野での活躍もしていたかもしれない。
というのも「経方が音曲の名手であったことが分かる。」…と佐々木哲学校の一文にあるのだ。
http://blog.sasakitoru.com/200507/article_16.html
長田氏は摂津国の長田神社をはじめ、因幡国の伊福部氏のいた宇倍神社ともかかわりがある様で、相撲人でもあるためか?各地(文書)に(出雲・参河・遠江・尾張・東国・但馬など)名が残っているようである。神社に勤め人として活躍していたのではないだろうか。
近江八幡にも(日牟禮八幡宮西奥 北津田の大嶋奥津嶋神社に)行司神社もあり、相撲の歴史も続いているところを見ると、近江八幡に長田氏がいた影響かも知れない。
私の予想では、長田氏が、中原氏・紀氏のように、神祇者として、沙沙貴神社の宮司を務めはじめたのではないだろうか?長田の土地は、沙沙貴宮のすぐ隣である。
因みに、近江国の中原氏にも経が通し字の系があり、それが経久(九里の祖)なのであるが、その先祖に「経賢」がいる。この人は「つねかた」と読むのではないかと思う。しかし、年代が50年くらい佐々木荘の経方の方が前になると思われる。
もしかすると経方は因幡国の経方と同一人物であり、平姓(平時範が因幡守であった時代)でもあったが、佐々木氏を継ぐために(因氏為とあった)源姓となった。もともとは、神祇を執り行うためにやってきた「長田氏」であった。
その息為俊は平為俊でもあったが、同時に佐々木為俊でもあり、後年源氏となった。
長田氏は平姓ではあるものの、頼信にも仕え、義朝に領地も賜わっていた。源氏の家司であったかもしれない。
どちら、とはっきり言えない立場にあったと思う。
中原氏も同様で、平氏の家司であったり、清盛の養子となったり、源氏の右筆であったり、と、やはりどちらと云えない立場である。
神の前では、どちらである…ということは関係がないからだろうと思う。
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葛西氏は片岡氏(佐々木氏流)と婚姻関係もあったこと。
伊勢神宮の領となり葛西御厨ともよばれた…と武家家伝さんのぺージにもある様に、神社と関りがある。
因幡国とかかわりのある「長田経俊」は、もしかすると鹿島宮の近くの片岡に住み「片岡経利」となっていたかもしれないとも思う。(多分、鹿島宮に務めるためにいた場所)
そこで「片岡」の本拠地であった上野国片岡 と「長田」のいた「丹荘付近」とが近かったのではないだろうか。
と、仮の想像ばかりであるが、どこかに真実が隠れていると嬉しいなぁ。